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魔素の聖女と観測者  作者: 遠野 周
第1章 沈黙の地

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第9節 出立

 夜の熱がまだ残る朝だった。

 丘の草は凍りかけた露をまとい、空気には湿った土と金属のような冷たさが混ざっていた。

 吐く息が白く、皮膚を刺す風が指先の血を奪っていく。


 玄関の前に、馬車が止まっている。

 ヨアヒムが帝都へ戻る日だった。


 セーレンは、馬の背につけられた革の鞍を見つめていた。

 昨夜から胸の奥がざわついている。

 何かを言わなければならないと分かっているのに、

 口がうまく動かなかった。


 ヨアヒムは荷を積みながら、父と短く言葉を交わしていた。


 「……液体は、もう一度試すのか。」

 カスパルの声は低く、風に溶けた。

 「再現できるまでは戻らない。」

 「無理はするな。」

 「無理をしなければ、辿り着けない領域だ。」


 短い沈黙。

 カスパルはその言葉を否定しなかった。

 ただ、手袋を外し、馬車の手すりに積もった霜を指で払った。

 「……なら、しばらく帰らないな。」

 「そうなるだろう。」

 「手紙くらいは寄こせ。」

 ヨアヒムはわずかに笑った。

 「兄さんは相変わらず、寒い冗談を言う。」

 「ここは寒い土地だ。」

 二人の笑い声は、すぐに風に攫われて消えた。


 セーレンはその背中を見つめていた。

 声を出そうとしても喉が詰まる。

 手のひらに汗が滲んだ。


 ――言え。

 胸の奥の小さな声が叫んでいた。


 「叔父さん!」


 ヨアヒムが振り返る。


 「僕も、連れてって!」


 その一言が、風を切って飛び出した。

 声は自分でも驚くほど大きかった。

 父の手が止まる。

 ヨアヒムの目がわずかに見開かれた。


 「……セーレン?」

 「帝都に行きたい。僕も、叔父さんのところで学びたい!」


 言葉が止まらなかった。

 「ここじゃ、もう学べない。書庫の本も、みんな読んだ。

  もっと知りたい。魔素のことも、人のことも。」


 ヨアヒムは黙っていた。

 その沈黙が苦しくて、セーレンはさらに声を張った。


 「僕、ちゃんとやる! 足手まといにはならない!」


 丘の風が止まった。

 時間が、ほんの一瞬、凍ったように感じた。


 ヨアヒムは視線を落とし、ゆっくりと息を吐いた。

 「セーレン……おまえの気持ちはわかる。」

 「じゃあ、いい?」

 「だが、帝都は簡単な場所じゃない。」

 「僕、覚悟できてる!」

 「そういう覚悟の仕方では、すぐ折れる。」

 「折れない!」


 言い返す声が震えた。

 ヨアヒムは目を細めた。

 それは困ったような、悲しげな笑みだった。


 「おまえの年では、理よりも孤独が先にくる。」

 「孤独なら慣れてる!」


 言ってから、自分でその言葉に胸を刺された。

 ヨアヒムは小さく目を伏せた。


 カスパルが二人のやり取りを黙って見ていた。

 何も言わず、ただ風のような沈黙をまとって。

 その目に、怒りはなかった。

 けれど、どこか痛みの色があった。


 ヨアヒムが兄に向き直った。

 「兄さん、セーレンを……」

 その先の言葉を飲み込んだ。

 視線が揺れた。


 ――連れていけば、この人はまた孤独になる。

 その思いが、言葉を止めた。


 カスパルは静かに言った。

 「行かせてやってくれ。」


 ヨアヒムが顔を上げる。

 「いいのか?」


 「ここにいても、学ぶことはもう少ない。

  あの子の頭は、私には手に余る。」


 「……兄さん。」


 「それに、おまえの研究は、誰かが見届けなければならない。」


 言葉は穏やかだったが、

 どこか遠い別れの響きを帯びていた。


 セーレンは、父の顔をまっすぐ見つめた。

 「本当にいいの?」


 カスパルは頷いた。

 「いい。ただし、ひとつだけ約束しろ。」

 「何?」

 「どんな理を学んでも、人を見失うな。」

 「うん。」

 「それができなくなったら、帰ってこい。」


 セーレンはその言葉を、胸の奥で繰り返した。


 出発の準備はすぐに整った。

 荷は少ない。着替えとノート、父の古い本が数冊。


 カスパルはそのうちの一冊を手に取り、

 表紙を撫でてから息子に差し出した。

 「それは、私の師の書だ。

  読めば混乱するだろうが、いつか意味がわかる。」

 「ありがとう。」


 「それから――」

 カスパルは少し間を置いた。

 「食べることを忘れるな。

  研究者は、たいていそれで倒れる。」


 セーレンは笑った。

 「父さんみたいに?」

 「そうだ。」

 父の唇がかすかに緩んだ。


 馬車の前で、ヨアヒムが手綱を整えている。

 風が吹き、灰色の外套が翻った。


 「準備はいいか?」

 「うん。」


 セーレンは振り返った。

 父は玄関の前に立っていた。

 雪混じりの風が外套の裾を揺らす。

 遠くからでも、その眼差しがよく見えた。


 「父さん!」


 呼びかける声が、思ったよりも大きく響いた。

 「ありがとう!」


 父はうなずくだけだった。

 言葉はなく、それでも充分だった。


 馬車が動き出す。

 軋む音が凍てついた丘にこだました。

 セーレンは振り返り続けた。


 家が、丘が、だんだんと小さくなる。

 父の姿が見えなくなると、胸の奥が少し痛んだ。


 「叔父さん。」

 「なんだ。」

 「僕、ちゃんと学ぶよ。」

 「学ぶだけじゃ足りん。」

 「じゃあ、どうすれば?」

 「自分で考えろ。」


 ヨアヒムの言葉は、なぜか温かかった。


 丘を下る道に、冷たい夏の風が吹いていた。

 空は青く、遠くの地平が白く霞んでいる。

 セーレンは初めて見る景色に息をのんだ。


 自分が生まれた場所が、世界のすべてではなかった。

 それでも、背中の方に残る家の匂いが、まだ離れなかった。


 馬車の揺れの中で、セーレンは拳を握った。

 父が言った“見失うな”という言葉が、

 掌の奥で静かに脈打っていた。


 灰色の丘が遠ざかる。

 風がさらに冷たくなり、空の色が深い群青へと変わった。

 セーレンはその変化を見つめながら、

 もう一度、心の中で小さく呟いた。


 ――行く。


 それだけだった。

 声にはならなかったが、確かな意思だった。


 馬車はやがて森の影に入り、

 丘の上の家は見えなくなった。


 その静かな消失の中で、

 少年の世界は、ゆっくりと広がり始めていた。

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