第3話 カメオに眠る旋律
翌日。
午後三時、路地の奥の引き戸は、昨日と同じように開いた。
けれど中に入った瞬間、空気が違うのがわかった。
棚のオルゴールたちが、まるで揃って低く呼吸しているように、どこか重たい。
店長はカウンターで帳簿をめくりながら、私を見た。
「昨日の子、覚えてるね」
もちろん、忘れるはずがない。
白いカメオと、震える肩。
「……また来たんですか」
店長は頷かなかった。ただ顎を棚の奥に向ける。
そこには、昨日見たあの小箱と、もう一つ、銀色の蓋を持つ箱が並んでいた。
扉の風鈴が鳴り、彼女が現れた。
今日は制服ではなく、薄緑のカーディガン姿。
掌に白いカメオを握りしめている。
私を見ると、小さく会釈した。
その目はもう揺れていなかった。
「……昨日の、あの曲。やっぱり私のだと思います。買い戻したいんです」
「理由は?」
私の問いに、彼女は少しだけ笑った。
「私のおばあちゃんが、認知症で。小さい頃、一緒に歌った曲なんです。あの音がないと、顔も忘れられそうで……」
店長が口を挟む。
「代価は覚えてるかい?」
「……はい」
彼女は迷わずうなずいた。
「知ってる顔を、一つ忘れる覚悟はできています」
思わず顔を上げる。
「それ、本当にいいの……?」
誰かを忘れること。それが突然やってくる喪失なのだと、私は知っている。
「いいんです。たぶん、私の中でその人はもう必要じゃないから」
淡々とした声。
でも、その奥にひそむ何かは、昨日とは違う色をしていた。
取引は静かに始まった。
店長の指示で、彼女は銀の箱にカメオを入れる。
すっと蓋が閉まり、代わりに昨日の小箱が差し出される。
彼女が蓋を開けると、あの拙い童謡が店いっぱいに広がった。
瞬間、彼女の目が潤む。
「……ああ……」
その声は、喜びとも、悲しみともつかない色をしていた。
そして――彼女のまつ毛が揺れた次の瞬間、私の胸に冷たい感覚が走った。
店の空気が一度だけ脈打つ。
何かが、彼女の中から抜け落ちたのだと悟る。
「これで、もう大丈夫」
彼女は笑った。
けれど、その笑顔を見ながら、私は妙な違和感を覚えていた。
……この笑顔、昨日の彼女にはあっただろうか?
いや、それより――
今の彼女、私の名前を呼ばなかった。
昨日は、初めて会ったのに「由良さん」と口にしていたはずなのに。
店長が軽く咳払いをして取引を締めた。
少女は小箱を抱え、風鈴を鳴らして出て行く。
私は慌てて後を追おうとしたが、踏み出しかけた足を店長の声が止めた。
「追うんじゃない。契約は終わった」
「でも……」
「覚えておくことだ。感情を取り戻す時、人は必ず何かを落としてゆく。時には、それが別の誰かを巻き込む」
私は唇を噛んだ。
店の奥で、昨日の自分の声を閉じ込めた小箱が、今もじっと待っている。
あれを開けたら、私も誰かを忘れるのだろうか。
そんなことを考えながら、私は風鈴越しに外を見た。
そこで見たものに、血の気が引いた。
通りの向こうで、カメオの少女が知らない男と立ち話をしていた。
白いカメオは、もう首にはなかった。
彼女は何かを取り戻し、そして別の何かを――差し出してしまった。