第1話 午後三時の裏通り
午後三時。
空気が、ほんの少し厚くなる。
夏でも冬でもない色をした風が、商店街の表通りから裏路地へと流れ込んでくる。
チャイムが鳴り終わった学校を背に、私は自転車を押すでもなく歩く。
足音が、だんだんと誰にも届かない響きになる頃――路地の奥で、細長い引き戸がゆっくり開いた。
それは、午後三時にだけ開く扉だ。
開くのが遅すぎても、早すぎてもダメ。ほんの一刻、この街の地図にない小さな「通り」が現れる。
「いらっしゃい」
中からの声。年齢の読めない店長が、曖昧な笑みを浮かべる。
返事はしない。私はただ、そこに入るための深呼吸を一つした。
店の中は、今日も小さな箱で埋まっていた。
机や棚の上、天井から吊られたガラス棚にも――すべて、オルゴール。
木枠は少し温かい。
真鍮の鍵は、まるで耳たぶのようにやわらかな温度で、触れるとすぐ「誰かの匂い」が立ちのぼる。
それは、笑い合った夕暮れの匂いだったり、抱きしめられたときに胸の奥で鳴る心音だったりする。
人が忘れてしまった感情。
それを音にして閉じ込めたのが、ここで売る「商品」だ。
客が買えば、その感情は少し軽くなる。
売れば、誰かが抱えていた重みが消える。
ここは、そういう取引のための場所。
私の仕事は「誰の想いを、どの音で解くか」を見極め、箱を渡すこと。
店長はカウンター裏で帳簿を閉じ、私に視線を向けた。
「今日は……少し、変わった品が入ってる」
促されるまま、カウンター奥へ進む。
そこに――一つだけ、見慣れない小箱があった。
表札も値札もない。
木目はやけに白く、どこか人肌のように頼りない。
私はそっと蓋に触れ、ゆっくり開く。
……音がした。
歌でも曲でもない。
ごく短い、幼い声。
『ねえ、また約束しようよ』
一瞬で、心臓が跳ねた。
それは私だった。七歳くらいの、まだ弟と手を繋いでいた頃の、忘れたはずの声。
胸の奥に、冷たい釘のようなものが打ち込まれる。
なのに、指先は震えたまま動かない。
蓋は閉じられず、箱の中で声は何度も巡った。
「ねえ、また約束しようよ」
その響きは、夏の光より鮮やかに、私の世界を塗り替えていく。
(その記憶は――誰が、ここに売った?)
次の瞬間、店の外の風鈴が鳴り、誰かが扉を開けた。
その影が、一歩、踏み込んでくる。
私はまだ、小箱を手の中で抱えていた。
掌の上で、誰かの夏が鳴り止まなかった。