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第三話 ナイール・カーメインの王都での七日間(後編)



 五日目。それは王都の片隅で始まった。

 ある酒場に対して、突然王都の兵士達の臨検が行われたのだ。

 許可されている量以上を販売していないか。禁止されている商売にまで手を出していないか。

 本来であれば年に一、二回行われる程度のそれが、事前に通達も無く行われた事に店主は訝しんだ。

 しかもその時に来た兵士達の数は十数人にも及ぶ。あくどい商売をしているつもりは無いが、それだけの数の兵士が店に押し込んでくるとなれば、危機感は覚える。

 彼らはこちらが止める声も聞かずに店の中を荒らし、箱という箱を、棚という棚を開けて中身を確認していく。

 そうして―――

「おい。これは何だ?」

 棚の一つから剣や槍が見つかる。

 店主はしまったと思う。それはこの店を建てる際に便宜を見てもらった貴族から、最近になって置いて欲しいと頼まれたものであったのだ。

 ああ、なるほど。ここに来て、その頼みがこう来るのか。

「いえ。その……それはですね。事情があって……お、お話します」

 自分の命まで捧げる程の義理は無い。そう判断した。何かしら、これがバレてしまった事への報いはあるだろうが、それを最小限に収める事が大切だ。

 例え恩人を売る事になったとしても、それは仕方ないだろう。

 王都の兵には逆らえない。そういえば別の店でも似たような事があったと聞いている。今度は自分の番が来ただけの話。

 そう思って、店主は兵士達の隊長格らしき相手に愛想笑いを浮かべながら近づく。その瞬間―――

「なん……で?」

 それは店主と、隊長らしき兵士以外の兵士皆の言葉だったろう。

 店主はその兵士に切り伏せられた。舞う血を見て、誰かの悲鳴が聞こえる。外を歩いている無関係の第三者の叫び声。

 それを倒れた状態で店主は聞きながら、今生最後の言葉を耳に入れた。

「いい加減うんざりだ。いちいち調べて回るより、こうするのが手っ取り早いだろうに」




 王都外縁部。最近になり拡張され始めた東方面の区画から、王都住民の暴徒は発生した。

 いや、暴徒というのは何者かに先導されるか共通の方向性があって暴力を振るう集団の事を言う以上、それは暴徒とは呼べない。

 単純に混乱と表現するのが相応しい。人々はいったい何が起こっているのか分からず逃げ惑っていた。

 王都の兵がどこかの店の店主を切り殺した。混乱はそこから始まり、他の兵士も何々が怪しいという理由を付けて、他の住民を殺した。

 そんな話がまことしやかに語られ、真っ先にその怪しい理由に心当たりがある住民が慌て始めたのだ。

 混乱は波及する。少しでも後ろ暗い事があれば、兵士に狙われる。殺される。だが、いったいどこでどうやって? 分からぬままに人々は混乱し、向かう場所さえ分からぬままに逃げ続ける。

 そんな住民達の前に、そんな混乱の元が現れた。

「落ち着け! 全員、落ち着いて、名前と地位を名乗れ!」

 とある住民の集団の前に現れたのは、そんな事を叫ぶ数人の兵士達。彼らは道を塞ぎ、住民達を睨み据える。

「我々は王都内の治安維持の任を受けた兵である! 現在、この区画の治安維持を執行中であり、貴様らの協力を必要としている。大人しくしていろ! もし何も後ろ暗い事が無ければ開放しよう!」

 そんなのは無茶である。今、逃げ惑っているのはその後ろ暗い事が多少なりともある者達なのだから。

 誰かは税を納めなかった。誰かは王族や貴族への不満を溢した。そうして誰かは、兵士そのものに恐怖して、悲鳴を上げてしまった。

「ええい! 黙らんか! 貴様、もしや王都内に潜伏しているという反徒か!?」

「な、なにを言って……俺はそんなのとは関係ない!」

「黙れと言ったぞ!」

 そんな理不尽があるものか。誰しもがそう思いながらも、兵士が剣を振り上げるのを見るしか出来ない。

 その剣はすぐさまに振り下ろされ、住民がその剣の餌食になる。

 それより前に、兵士が道の脇から飛び出して来た黒い獣人の女に棒で殴られ、地面に転がる事になったのもまた、見ている事しか出来なかった。

「全員逃げろ! 東区画のさらに東の方はまだ兵士が少ない! 逃げるならそこだ!」

 棒を持った獣人の女……では無く、さらに現れた一人の男の叫びは、他の住人達へと波及していく。

 方向性を持たない混乱は、そこに来て漸く向かう先を持ち始めた。人の流れが出来て、多くの人はそれに従う。

 無論、兵士達がそれを追おうとするも、現れた者達が銘々に武器を持って立ち塞がり始めていた。




(で、済めば気楽な話だけど、とりあえずこの区画の兵士達には暫く黙っていて貰う必要があるわけだ。これから)

 ナイールは手に愛用している黒い鉄の杖を武器の様に持ち、剣を構える兵士の一人に向ける。

 ナイールの部下六人もまた同様だ。総勢七人。さっきから混乱が発生している王都の東区画を走り回っている状況だった。

「そうか……分かったぞ? 貴様が反徒の首魁だな?」

 今、ここにいる兵士は十人程。その内の隊長格がナイールに話しかけて来る。

 彼にとって何やら、重要人物としてナイールは把握されたらしい。

(別にそれは構わないけど、いやまあ、そりゃあ兵士の方も混乱の真っ只中だね。これは)

 遂に始まった。ナイールはそう思う。何がと言われれば、偶発的なぶつかり合いだ。

 住民は兵士達を恐れて逃げ回っているは勿論だが、その実、兵士達だって限界が来ている。

 流言する話を聞けば、どこぞの店で兵士達が暴挙に出たそうであるが、兵士達にしたところで、当初はそんな暴力沙汰は避けるつもりだったのだろうと思う。

 上からの命令はせいぜい、この地区で怪しい動きがある連中を探して見つかれば捕らえろ。そんなところだろうか。

 だが、その命令は上の混乱により新たに更新されていないのだ。ただ居るか居ないか分からない連中を捕らえてみせろという命令だけが伝えられ、引く事が出来ない状況が続き、誰かしらが爆発した。

 誰がそれをするかは偶然に寄るのだろうが、何時かは起こる事だろう。だから昨日の時点でナイール達は動く準備を進めていた。

「……こっちが首魁はどうか兎も角。あんた達にとっての不運だよ、僕らは」

 それを合図として、ナイールは兵士達の方へと進む。数の不利がある現状、仲間を呼ばれるのはもっと都合が悪い。

 剣を構える兵士に対してナイールは黒い杖を振るう。

 金属と金属がぶつかり合い、火花が散る中、すぐさまに横からガンマが兵士を蹴りつけて一人倒す。

 状況は混乱しているが、準備が出来ている分だけナイール達が冷静だ。

 向こうが落ち着く前に数を減らしておく必要があるだろう。

(残りは八……いや、七になった)

 ナイール達七人はそれぞれが修羅場に慣れた荒っぽい連中だ。とりあえず兵士連中の数を減らすという意思さえ共通していれば、後は有機的に、統率を持って動ける。

(数が三十を越えてくるとそうも言えないけど、少人数での殴り合いは、個人の経験と勘と、仲間をどの程度知っているかの影響が大きいのさ)

 見る限り、王都の兵士達にはそれが無い。兵としての訓練はしているのだろうが、彼らとてもっと多くの人数で少数を叩くのが本領だ。今、同数になってしまったナイール達を倒せない。というより、今、この瞬間にもナイールは一人の兵士を黒い鉄の杖で殴り倒している。

「いったい……何のつもりだ。いったい何の狙いがあって!」

 そう叫ぶ兵士は、残り三人のうちの一人。今やナイール達に囲まれる側。

(じゃあ、そろそろ潮時かな)

 考え、ナイールは他の仲間たちに目配せする。こちらが優勢になった時点で、ここでの戦いは切り上げよう。そういう意思疎通を言葉にせずとも出来ていた。

 追って来られてもこの三人なら普通に撒ける。ただ、言葉だけは残しておく。ちょっとした魔法の言葉だ。

「あんた達の上の連中に聞いてみな。面白い話が返ってくるかもしれないよ。返って来なければ……ご愁傷様ってところ。行くぞ、みんな!」

「あいよ!」

 真っ先に帰って来たガンマの声を聞いて、ナイールは身を翻す。今なお、王都の東区では混乱が続いており、ここと似た様な状況があちこちに発生している。

 故にナイール達は次々とそんな状況に介入し、やはり同じ様に兵士達を倒して回るのだ。

(そろそろ、結果が出て来る頃かな? あと半時もしたら一度確認してみるか)

 走りながらも、ナイールは考えを巡らせていく。自分に何が出来るか、いったい何を仕出かしてやれるのかを。




 東区のさらに東。まさに王都の端と言える場所にこそ、ナイールが行った結果があった。

 そこには住民が列を成している。ただ集まっているのでは無く、列になっているのだ。その列の先には、王都の外壁に空いた、あってはならぬ穴が開いていた。

「普段は隠されているんですがね。修繕はずっとされていません。老朽化で偶然開いた穴を、我々ガンゲオン家が接収させていただいたと表現しますか……」

「こういう王都の穴を、幾つ持ってるんですか? あなた方は」

 ナイールは、隣に立つヌギル・ガンゲオンを見ないまま尋ねる。

 視線の先には、外壁に空いた穴から、王都の外へと避難している住民の姿。

 半数はナイール達が助けた住民達だ。もう半数は、ナイールが叫んだ東の端に逃げ場があるという話を聞いて自らやってきた住民達。

 この比率は、時間を追う毎に後者が多くなるだろう。今、王都の東区は、住民を追い詰めている兵士達とそこから逃げようとしている住民達だらけになっているのだから。

「我々ガンゲオン家が、いろいろと王都側の弱点を知っているというのは、やはり根っこのところで対立しているからです。それが幾つあるかは、それこそ家の者毎に答えが違ってくるでしょうとも」

 怖い話だと思う。昨日、ナイールが行った準備とは、再びこのヌギルと接触する事であった。

 そろそろ王都側に立つ者か、その外に立つ者のどちらかが暴発する。それを予想出来ていたから、それが発生した際に、自分達の武力を活用しようと考えたのである。

 即応出来て、使える戦力がここにある。それを示す事で、より関係性を強固にしようと考えた。

「実際にこの東区がこんな事態になる事までは、僕らは予想できませんでした。けれど一度起こったら、あなた方はこの穴を紹介してきた。これで何か出来ないかと。幾つかは分からないですけど、王都中にはあるんでしょうね。こういう穴が恐ろしい話だ」

「私にとってみれば、あなたの方が恐ろしいですよ。ナイールさん」

 と、外壁の穴と列を一望できる民家の二階から窓を見つめながら、ヌギルは呟いて来る。話を向けられたのか、それとも他人に聞こえる程度の独り言かは分からない。

 どうするべきだろうとナイールが考える間に、ヌギルは言葉を続けて来る。

「今回の出来事は早い。早過ぎる。迅速の類と言えるでしょう。暴発の時期は予想の範囲内だとして、我々ガンゲオン家を含む王都外部に権力を持つ者達の動きとしては相当に早いのです。あくまで王都の兵の暴走でしか無い状況で、我々が一手早く動けた。これは後の状況を有利に動かせる一手に違いない」

「その今後の状況というのは、どうなりますかね」

「想像はしているのでしょう? ここで避難している住民達は私達側に付く。王都や王城の方々は信用出来ないからと、その外部から来る者を積極的に頼ろうとし、無論、我々ガンゲオン家はそれに手を差し伸べる」

「正義は我にあり。筋を通しているのは自分達だ。とりあえずはそれを公然と言える立場になれるわけですか。その状況を武器に王城の連中にも文句が言える。そんな言葉は反逆だなどと言えるはずの大魔王陛下は今、居ない」

 まとめ役の居なくなった状況のなんと恐ろしい事か。建前を外された貴族や権力者はその奥で研ぎ続けた牙を隠そうとはしなくなる。

「王城はそれに反省し、我々の声明を聞きますかね?」

 と、分かり切った質問をヌギルは尋ねて来る。

 無論、ナイールは分かり切った答えを返した。

「聞かないんじゃないですかね。だからぶつかる。そこまでが規定路線だ」

 対立は続く。明確な終着点を誰も用意出来ていないからだ。いや、用意出来る役割を持った者がここには居ない。

「なるほど。では、私も私のさらに上役を呼び寄せている必要が出て来るわけだ」

「状況をいち早く纏められた側が、今後の体制を左右出来る力を得られる。今はそんな状況だ。懸命ですよ。それでその上のお方はどれくらいで王都に来られますか?」

「早馬を出していますが、明日中にはなるでしょうね」

 それならまだ上等だ。王城の動きに先んじられる。今日中に王城側も状況を鎮静化しようとするだろうが、それで一日を費やす以上、対外的な行動に出られるのはどう見積もっても明日以降になる。

「打てる手があるなら、まだ打ってみるかな……」

 顎に手を当てて考える。これにて自分の役目は終わりなどと言っていられる状況ではまだ無い。幸運な事に、今のところ、ナイールは手持ちの札を失ってはいない状況だ。

「まだ、何かをするつもりですか? ナイールさん」

「してないと落ち着けない立場なので」

「既にあなたの本当の狙いはほぼ達成出来たでしょうに」

「本当の?」

「そうです。だから私は恐ろしい。結局のところ、ここに王都外へと出る穴があると聞いた時点で、あなたはこう考えたわけだ。争いの中心を王都……いえ、王城から、その外部に移せると。今後、少なくともガンゲオン家と王都の貴族達はこの壁を越えた先の場所で睨み合いを続ける事になる。するとどうでしょう。伏魔殿だった王城は一時的ではあるがそうで無くなる」

 権力者同士の睨み合い、含みを持たせた会話、そうして直接的な暴力も、王都の外側で行われる。

 王城にいる姉やドロミア・レスティスの安全は、さらに保障される形になるだろう。少なくとも、今回の一連の出来事に、何らかの決着が付くまでは。

「けど、得か損かで言えば、僕は得である事をあなた方に提供している。それは事実でしょう?」

「ええ。そこがあなたの怖さの本質だ。自分に害を成して来る可能性のある相手に、それをしたいと思わせる心を無くして見せている。事実、私はあなたに敵意を抱いていない。今後はどうなるか……それは分かりませんが」

 今日の行動については、随分と高く買って貰ったらしい。高すぎて警戒されるくらいには。

(良いさ。その警戒が僕に向かう限りは、なんとか出来る。兄上みたいに……誰かが知らない場所で居なくなるなんて事も無い)

 ここに来て、漸く兄の事を思い出す。優秀な人だった。人の動きに対して、その機微を察する事が出来る人種だった。カーメイン一族に恥じぬ立派さを持っていた。そういう人であったはずの、既に居なくなった家族。

(おかしいな。ここで漸く泣くタイミングだろ。なんで悲しくならない)

 自分の心の動きの無さに自分で首を傾げながらも、やはり視界は王都の住民達の列へ。

 彼らは分かっているのだろうか。この穴を出るという事は、王都を捨てるという事に。それを煽ったナイールに言えた義理は無いが……。

「おーい、旦那! ちょっと良いかい!」

 と、家屋の一階からガンマの声が聞こえる。何か問題でも発生したのだろう。ナイールがヌギルの方を見れば、彼は頷きで返してくる。

「どうぞ。ここ周辺の管理なら私がやっておきましょう。あなたが重要な仕事の大半をしてしまったのだから、このままでは私の顔が立たない」

「せいぜいに、この状況から利益を得てください。そうでなければ、そちらと繋がりを持った甲斐が無い」

 お互いに言葉を交わして、再びヌギルと別れる。だがその前に、彼はさらなる言葉を残して来た。

「あなたは……その繋がりを積極的に繋げられる側になると思いますよ、ナイール・カーメイン」

 それはどういう意味だったのか。やはり高くは買われてしまっているのかもしれない。

 ナイールはもっと偉くなる側だと、ヌギルはそう言って来たのだ。




「ま、特に問題が無かったとして、声を掛けて連れ出してくれた事は感謝してるよ、ガンマ」

 ヌギルと居た民家から出て暫く歩いた路上にて、ナイールは隣を歩くガンマと話をしていた。

 どこに向かっているわけでも無く、ただひたすらに会話を続けるために歩く時間と言える。

「ここ最近はずっと頭働かせ続けてて、さすがの旦那もいっぱいいっぱいになる頃合いかと思いましてね。半時くらいは俺となんでもない会話したって罰は当たらんのじゃないですかい?」

「気易いなぁ。感謝はするけど、僕の事をそこまで気遣うって、正直気持ち悪いぞ」

「ははは。ま、最初にこいつ気持ち悪いなと思ったのはこっちの方ですからね。同じ事を言い返されると、何にも言えませんや」

 と、ガンマに酷い事を言われる。そこまで変わった事をした記憶は無いのであるが。

「僕、そんなに気持ち悪かった?」

「今は慣れましたが、子どもの時分は特に」

 どうやら気持ち悪いと思われたのは、もうずっと前からであったらしい。

 それを言われて、ガンマと出会った頃を思い出す。

 あれはまだ、物心付いてから暫くの頃。

 お互いにそれなりに立場のある家に生まれたからか、幼少期より仲良くさせておけば何かと得るものがあるだろうと、互いの親から遊ぶ場を用意された時の事だ。

 親や親戚が何やら小難しい会議をしている間、こいつと遊んでおけと屋敷の庭に置かれたナイールとガンマ。

 意外な事に、その場で警戒していたのはガンマの方だった。なんだこいつはと睨む向こうに対して、ナイールが先に警戒を解いて話しかけたのだ。

「お互い、面倒な事頼まれたよね」

 そうやって話しかけたのが、ガンマとの出会いだった事を思い出す。

「確かに、子どもが言い出す事じゃなかったな。あれ」

「分かっていただけりゃあ結構。あの日から、俺はあんたに思うところが生まれたってわけだ」

「へぇ。それはどういう?」

「面倒ヲ文句ヲ言イナガラ背負イ込ム人ダ」

「おおうっ!?」

 背後から気配も無く話しかけられて、ガンマの方は驚いていた。

 ただ、ナイールは驚かない。レイフォ・ギジンスはこんな風に突然話に入って来る事に、ガンマだっていい加減慣れるべきだろう。お互い、それだけの付き合いだ。ここに居る三人は。

「レイフォ。男同士の昔話っていうのは、こう……繊細だって知ってた?」

「ドーセ、禄デモ無イ話ダト思ッテイタラ、案ノ定ソウイウ話ダッタガ?」

 酷い言われ様だ。子どもの頃はお互い若かったねーという話の何が禄でも無いというのか。

 いや、禄でもないかもしれない。

「姐さんに言われちゃあ叶わんや。姐さんの方は、もう少し長かったよな。ナイールの旦那との付き合いは」

 ガンマとの出会いが物心付いて暫くなら、レイフォとは物心が付く前からだ。

 彼女とてナイールより二、三歳年上程度だというのに、彼女はナイールの護衛役であるという認識が、常に、途切れる事無く続いている。

「私ノ場合、アレダ。追イ駆ケッコニ負ケテカラダ」

「そんなんだったっけ? そっちは思い出せない」

「駄々ヲ捏ネル事シカ知ラン時分ダ。仕方ナイ」

「で、何時も姐さんが勝つから泣かせてたとか?」

「イヤ、最初ハ私ガ勝ッテ居タガ、何時ノ間ニカ、若ガ勝ツ様ニ成ッタ」

「へぇ?」

 自分の事だと言うのに意外な話だった。だからこそ、言われて思い出してくる。

 そういえば、彼女との追いかけっこで、自分は彼女を捕まえる側だった気がする。種族として生来から足が速い彼女を、如何にして捕まえるか。そんな事ばかり考え、実行するのがそれなりに楽しかった思い出。

「若ハ、負ケズ嫌イダッタ」

「……今はそうじゃない?」

「今ハ、コイツノ言ウ通リ、面倒ヲ背負イ込ンデ悩ンデ居ル」

「それを言ったのは姐さんの方じゃあ……」

 ガンマが呆れた様に言うものの、レイフォは聞く素振り見せない。お前が言おうとしていた事を先に言っただけ。そんな態度を崩さない。

「ま、実際、変に家族の事を気にしますよね、旦那は。今だって、どうすりゃカーメインという名前を守れるかばかり気にするし、しまいにゃどこぞの王族の身持ちだって背負ってる」

「悪い事じゃあないだろう? 僕はそういう立場だし、そういう立場になった」

 仕方ない。ナイールは次男であり、基本は長男のロブの代役として生まれて来た。

 それでも母は愛してくれたし、その愛に答えるべきだと、役割以上に頑張って来た部分もある。

 ただ兄の面目を汚さない様に、母や姉からは良くやってくれていると認められる様に、気を使いながら生きて来た。

 そうしてはたと気が付く。

「兄上が居なくなったら、僕はどうなるんだ?」

「今サラカ」

 そう言わないで欲しい。ずっと忙しかった。これまでずっとずっと忙しかったのだ。兄や、家族の事を考える時間が無かったわけでは無いが、それは状況をどうするべきかとセットで考える物であった。

 けれど、もっと根本的な話として、どうしようも無く、ナイール自身の立場は変わってしまっている。それを、レイフォの言う通り、今さら自覚する。

「あー、あれだ。姐さんと追っ駆けっこをしてた時みたいに、負けない様に頑張るとか……ですかね?」

「何に? 何に勝って何に負けない様にするんだ? 僕は」

「大丈夫カ? 若?」

 レイフォからも心配される。馬鹿な事を言っている自覚はあるのだ。

 ずっと、この先はこうすれば良いと言った考えは浮かぶのに、何故、それをする事が良い事なのか。考えの源泉がどこにあるのかが出て来ない。

「おいおい。少なくとも俺達は生き残るために戦ってる。それは間違いないんでしょうが」

「そう……だね。それはそうだ」

 とりあえずの目標だ。そこは違えない。けれど、今さらナイールは気が付き、この時から考え続ける事になる。いったい自分は何で、何をすべきなのかを。




 六日目。遂には状況が、誰の目からも動き出してしまった。

 引き返す事が出来ない地点。そんなものはずっと前に通り過ぎてしまったのであるが、その光景を目にしてしまえば、誰しもが、もう引き返せないぞと今さらながらに実感する。そんな事が起こってしまったのである。

「なーんでこうなるかなー」

 魔界という国が、どうしようも無く変化するタイミング。ポイントオブノーリターン。その証左が今、ナイールの目の前にはある。

「とんでも無い話だよこれは。王城の連中だって動きが後手後手の癖に一線を越えた事をしていたけれど、ゲンガオン家だって何を考えてこんな事を仕出かしたやら」

 王都の外。やや高くなっている丘の上で、ナイールは王都の外壁の一部の周囲に展開している兵士達を見つめていた。

 数は三千。昨日、ヌギル・ゲンガオンが言っていた、ゲンガオン家の上役とやらが連れて来た私兵達である。

 グノン・ゲンガオン。現在、ゲンガオン家の次期当主と目される男であり、現当主が既にかなりの高齢である事から考えて、実質的なゲンガオン家の代表者と言える者が、今朝、直接来た。それは良い。

「王都に戦争でも仕掛けるつもりなんですかね? ゲンガオン家は?」

 ナイールに並び、丘から三千の兵を見下ろしているガンマが尋ねて来る。

 いろいろと、予想ばかりが出来てしまう状況であるが、その一つを彼に聞かせて、ナイール自身も落ち着くべきだろう。

「真正面から戦うなら三千なんて全然足りない。王都には大魔王陛下直属の兵が少なくとも五千はいるし、住民からの徴兵を加えればもっとだ」

「じゃあ、あの兵士連中はただの見せ札?」

「そうなるね。けど、挑発にしてはやり過ぎだ。どうしたって王都側が動くぞ。僕の期待ではやってきたグノン・ゲンガオン氏が王都内の状況を直接納め、今後の政治において大きい力を得るみたいな展開を期待していたんだけど……彼はさらにもっとを欲しがっているし、こういう状況での賭けが好きなタイプらしい」

 まだ会ってはいない。ただ、今、この様な状況になっている一因かつゲンガオン家側に与みしているという事になったナイールは、彼らの集団の一部として捉えられる様になってしまった。

(こりゃあ、ドロミア様の下に付いたのは大正解だったな。迂闊な事をしたら、ゲンガオン家に完全に取り込まれるところだった)

 状況に対して主体的に動けない様になるのは、今のこの光景の元ではゾッとしない結果が待っている。そう思う。

「賭けってのはどういう具合になるって考えてらっしゃるんです? 若?」

「色々あるし、色々出来るだろうけど、僕なら……あの兵士を並べたまま、王都の側に訴えかけるかな。この兵士達は王都の治安維持のために集まった。何故って? 大魔王陛下がお亡くなりになったというのに、一向に後継者が決まらず、王都内で暴動まで起きたからだ。魔界の一貴族として看過出来ない。王城の連中はさっさと顔を出して状況を説明しろってさ」

「あーらら。つまり、戦う気なんてさらさら無くて、あくまで味方ですよって顔をするわけだ。やだねー。そんなあからさまに腹黒さを隠さなくて良いんですかい?」

「良いも悪いも……大魔王陛下の死亡をずっと隠してたのは王城側だよ? どっちも裏があるとは言え、先に厄介な事態を引き起こしたのは王城側……という事にして、王都内の住民を味方に付けるんだ」

 実際のところは、どっちの連中もこういう事態になるまで事を納められてないのだから、どっちに大義があるかどうかなんて馬鹿らしい話になる。

(そうだ。僕ならもっとこう……ああもう、何考えてるんだ?)

 身の丈に合わない事を考えるべきではない。結局は、激流みたいな状況の変化に、上手く対応していくしかないのがナイールの立場だ。そのはずなのだ。

「若。話ノ最中ダガ良イカ?」

 ガンマとの会話の最中、レイフォがやってくる。彼女は今、レイフォ達がいる丘の周辺に張られたテントを配下達と見て回って貰っていた。

 ここには王都から避難した住民と、グノン・ガンゲオンが連れて来た兵士達のための拠点が作られようとしており、いったいどういう仕上がりになるのか、一応のチェックをして貰っていたのである。

「何? 何かあった?」

 何かしか無い状況ではあれ、また仕事があるのなら、取り掛からなければならないだろう。眩暈を覚えてしまうくらいに忙しいが、どうしてか頭が問題無く動き続けていた。

「会イタイソウダ」

「会いたいって……誰が誰に?」

「ココノ一番上ガ、若ニ」

「ああ、そう」

 そういう事もあるだろう。予想していた状況の一つであるが、どうしてこうも、当たって欲しくないものばかりが当たるのか。

 そんな事も考える頭を抱えながら、ナイールは重い足を動かし始める。ナイールにとっても引き返せない一線がやってきた。それを受け入れながら。




 他のテントよりも大きく、清潔で、デザインも豪奢に見えるそれの奥に、その男の姿はあった。

 筋骨隆々の、硬質な肉体に薄いローブを着て、整い過ぎていてわざとらしいとすら表現できる顔でこちらを見据えて来る。

 その男の名前をグノン・ゲンガオンと呼ぶ。

 そしてそんな男に見られている男をナイール・カーメインと呼ぶ。

(別にそこはどうでも良いかな。良くは無いか)

 ただグノン・ゲンガオンが待機しているテントに呼ばれただけ。

 そう思えれば良いのであるが、奥のグノンから感じる威圧感もさることながら、彼の護衛兵が横に並び、グノンの隣にはまた、例のヌギル・ゲンガオンが執事の様に立っている事で、より一層、心細さを感じてしまう。

 呼ばれたのはナイールだけなので、ナイール側の配下が居ない事も理由の一つ。

「よろしい。君がヌギルから聞いた、今回の下準備をしてくれた貴族、ナイール・カーメインだね?」

「顔合わせに関してはここが初めてでしょうか。はい、その通りです。私はナイール・カーメイン。北方ハイラングの―――

「ああ、良い良い。今は僅かな時間も惜しいところだ。お互い腹の探り合いや仰々しい挨拶は無しにしよう。私はグノン・ゲンガオン。君はナイール・カーメイン。それがお互いに分かっていれば話は進む」

「そうですか? なら、あなたから私に命じる事は何になりますか」

「おや? 命じる? 私が、君に?」

 腹の探り合いは無しと言ったばかりだろうに。こう惚けられるのも癪に障る。

「私の側……カーメイン一族は王族ドロミア・レスティス様の元で動く立場ですが……だからと言って、ゲンガオン家にあれをしろと言われて断れる程強い立場でもありません。わざわざその事を確認させる場というわけでも無いのでしょう? 今、このテントの中は」

 そういう、なかなかに無礼かもしれない言葉を返すと、グノンはヌギルと顔を合わせている。何やら、笑っている様な、そんな顔合わせ。

「なるほど。聞いたとおり、なかなかに頭が回る方の様だ」

「ええ。彼は使えます。何より、言葉と考えと、そうして行動で、今の状況を作り上げたのは彼ですからね」

 ヌギルの言葉はナイールを高く買った上での評価だろうが、ナイールにとっては余計な事をしやがってという感情が無いわけでは無い。

(勘弁してくれよ……僕はそんな、状況を左右しながら凶悪な笑みを浮かべるなんてのは御免なんだ)

 なら、お前はどういう存在になりたいのか。また、頭の中の自分自身に問いかけられるが、ナイールはそれをとりあえず他所に置く。今は、目の前の男達と話を纏めなくては。

「ナイール・カーメイン。ならば率直に尋ねよう。この後、我々はどうすれば良い?」

「……参考までに、という話でしょうか?」

「無論、その答えで君に責任がどうこうするわけではない」

 端正かつ大きな身体で、やや小ぶりな折り畳み椅子を鳴らしているグノン。彼もまたゴーレムという種族だ。見た目以上にその重さがあるのだろう。その重さで椅子が鳴るみたいに、ナイールだって威圧感に泣きそうだ。

 どうにもゲンガオン家の連中は人の考えを聞いて値踏みするのが趣味らしく見える。

「……穏便に済ませるという事は出来なくなりました。連れて来られた兵士の数が数ですからね。となると、どこまで過激に、上手くやれるかが重要になって来ます。連れて来られたその兵力で、敵とぶつかる事は不可避かと」

「うむ。そこは我々も覚悟している。少なくともその覚悟を持って、私はここに立っている。無論、王都の住民を敵に回すつもりは無い。私の敵はあくまで王城の、大魔王陛下亡き後に碌な統制も取れない貴族や側近共だ。それらを排除した上で、私は陛下の正当なる後継者を擁立した後、故郷の領地へと帰るだろう」

 自分にとって都合の良い大魔王さえ擁立出来れば、王都の政治なんぞは勝手にしてくれて結構と言ったところか。

 何なら、家族の一人から人質という名目で新しい大魔王の伴侶でも見つけ出して来たりも出来そうだ。

(今後の魔界を牛耳る。それくらいの賭けには出てるな、この人は)

 相手の失態に付け入り、政治力を高めるという穏便な行動だけでは止まらない勢いがグノンにはある。

 それが愚かさから来るのか、それとも賢さから来ているのか。ナイールの方も相手を計っている途中だった。

「なら、敵は少ない方が良いでしょう。いえ、敵は敵のままとして、後でどうにでも出来る敵は、後に置いておくべきです」

「ほう? それはどういう意味で言っているのかな?」

「王都の貴族連中の内、あなたの兵と戦いたいという連中だけとぶつかるべきです。王城側にはこう伝えればそれは出来る。我々は、王城内の治安も保障するものであると」

「……過激な連中はそんな権限がお前にあるのかと激高しそうだな?」

「そうして多少、頭を働かせるフリが出来る者は、例え敗北しても、上手く立ち回れば粛清からは逃れられるとも考える。結果、王城側はみんなで手を取り合って仲良くとはならない。たった一言だけで、それだけの価値があります」

 その後の展開は、やはり賭けになるだろう。王都内の過激派がどれだけの兵力を用意出来て、いったい何を狙ってくるかだ。

 籠城戦にはなるまい。そうならない様にグノン側も調整するはずだ。お互い共に、王都のためという名目を立たせている以上、王都を戦場にするのは避ける。

(というより、籠城戦になる様な雰囲気になった時点で、ゲンガオン家はさっさと退散すれば勝ちだ。どうやら王城の貴族達は何か治安回復の代案がある様だ。みたいな捨て台詞の一つでも残せば、後は王都内の混乱だけが残る)

 あくまでこれは、未だに権力闘争なのである。武力が伴っているが、そもそも戦わないという選択肢だって取れてしまう。

 その場合、王都の混乱は引き続く。いや、むしろ過激化する。余計な事の労力を割いた形で、しかも助け舟を断った事になるのだから。

(ゲンガオン家は混乱が激化した王都を暫く静観し、丁度良くまた、王都に詰めかければ良い。それくらいの余裕が彼らにはある。だからこそ、王都側だってその手には乗らないだろう)

 お前たちがやっているのは反乱だから、それを潰す。潰しさえすれば、その勢いに乗って王都内の鎮静化だって行える。起こった混乱に対して何かが出来るのは、ゲンガオン家の余計な行動を跳ねのけた自分達なのだと証明する。

 そういう手段が王城側にとってはベストである以上、やはり、ゲンガオン家と王城はぶつかるのだ。恐らく、王都の外での野戦で決着を付けたがるだろう。

 時間は双方にとって厄介事しか呼び込まないし、王都の住民を敵に回したくないのはお互い様だ。

「やるなら早い方が良いと考えます。王城内の貴族連中にまとまりでも生まれてしまえば、やはり兵力としてこちらは劣る。過激派の動きを早める程度に挑発的な言葉が望ましいかなと」

「なるほどなるほど。そういう事か」

 グノンはナイールの提案を聞いた後に、軽く笑った。何がおかしいのか知らないが、堪え切れない笑いが、多少なりとも出てしまっている風に笑っている。

「いやはや。これは失礼。こう、なんというかな。こちらの考えとまったく同じ事を提案されるとなると、こうまでおかしな気分になるのかとね」

「同じ?」

「ああ。既に君が提案するメッセージなのだが、手紙で送った。早い方が良いのだろう? 無論、私もそう思う」

 グノンは、大貴族の長である以上、確かに賢明なタイプの貴族であるらしかった。なら、ナイールから言える事はあるまい。そもそも助言すら必要無かった。

 彼は彼の判断で動き続ければ良いのだから。

 だが、グノンの方はそう考えなかったらしい。

「思考の合致。これはなかなかに良い事だ。君に一仕事任せれば、つまりそれは私が望む結果をもたらしてくれるという事でもある」

「考えが一緒であっても、実行し、成功させるかどうかは分かりませんが……」

「そうであればそれで良い。それは私の失敗でもあるから納得も出来るだろう。事が戦場での指揮に関してであれば特に」

「戦場での指揮?」

 そのまま聞き返したのは失敗だったかなと思う。グノンの方は待ってましたとばかりに笑い返して来たのだから。

「君に一軍を任せたい。私達側でもってきた私兵だけなら兎も角、現在進行形で王都内から避難者が来ている。しかもこちらが一戦交えるつもりなら、参加させて欲しいという血気盛んな者達だ。そういう員数外の者達を指揮する人員がまったくもって足りていないのだよ。勿論、私兵の一部もそこに足そうではないか。数にして……三百にはなるだろうな」

 間違いなく面倒な提案だった。誰に何をどういう風に頼むって?

 戦争ではなく権力闘争と言っても、兵士同士が多数ぶつかれば、そこはもう戦場だ。何が起こるか分かったものではない血で血を洗う正真正銘の修羅場だ。

 そんな中で、ナイールに兵を率いさせようと言うのか。

「我々としてもだ。君らと手を組んでいる王族、ドロミア・レスティス様の旗頭が一つでもあれば、なかなかに有難い話なのだが……どうかね?」

 返答をどうするべきか。ナイールは悩むものの、実は選択肢など無い。

 ドロミアの名前を出された時点で、彼女に目の前の男に反抗する力が無い以上、泥が掛からない様にナイールがそれを被るしかない。そういう約定だ。

 ここでそれさえ守れば、事はナイールだけの命で済む。

(別にそれは構わない。構わないけれど……ああ、本当は僕だけの命の問題じゃあない)

 王都に連れて来た六人の配下達もまた、そこに参加させなくてはならない。カーメイン一族として、現状出せる手勢を出さなければ、戦場に立つ名目が立たないからだ。

(……彼らに、何を伝えるべきか。伝えたところで、それは綺麗事じゃあないか?)

 カーメイン一族のために命を捨ててくれ。そんな事を頼む程に、ナイールは傲慢な立場になってしまったのか。彼がそれに頷いてくれたとして、ナイール自身が納得出来るか怪しい。

 だが……。

「答えはこの場で言って欲しい。何分、時間が無い事は確かだろう?」

「……」

 グノンの目とナイールの目が合う。その目はまだ、グノンの方がより高い位置にあるのだろう。




 グノン・ゲンガオンのテントから出たナイールは、足早に歩く。早急に事と次第を配下達に伝えるために。

 その途上。というより、テントを出てすぐに、後ろから声を掛けられた。

「待った。待ってください。ナイールさん」

 追う様に出て来たヌギル・ゲンガオンの姿がそこにあった。

「待つ時間は、あまり無い様に思えますけど、何ですか?」

 忙しい中で呼び止められて不機嫌になる。それは当たり前の事なので隠さない。立場的には、グノン・ガンゲオン氏に顎で使われるという対等な関係になったわけであるし。

「気分を害してしまったのなら、私の方から謝ります」

「謝罪と言っても、僕はグノン・ガンゲオン様の命令に従いますよ。戦場で、三百人かの兵士を指揮する立場として働きます。技能的には……その数なら出来なくは無いでしょうし」

 それよりも少ない数であるが、指揮して行動させた経験なら幾らかある。だから、そこは問題無い。能力不足であると不安にも思わない。

「しかし、ここで我々が謝罪しなければ、あなたはそれだけで終わるつもりだ。そうでしょう? 言われた事を言われたままに行う事を、私はあなたに望まない」

「さっきから買い被り過ぎに思いますが」

 いったいこのヌギルという男は、ナイールの事をどう見ているのか。ここに来て分からなくなる。義理立てしなければならない程、深い関係性でも無いだろうに。

「私はね、自分の立場を知っています。それなりの立場であるが、それ以上を望める能力は無い。そういう認識ですよ。だからガンゲオン家の中でも、使い走りの様な事を続けている。らしい立場だ。でしょう?」

「僕の方は、あなたの能力について知りません。だから何とも……」

「私の方は、あなたの能力について知りつつある。あなたはね、求められた事以上が出来る立場だ。その規模が大きければ大きい程に、もっとが出来る。そういう人種だ。違いますか?」

「だからそれが買い被りと―――

「そうは思えませんね、俺は」

 と、話に入って来たのはガンマだった。彼は隣にレイフォも連れて、ナイール達へ近づいて来る。

 ナイールがグノンに呼ばれている間、心配してくれていたのかもしれない。

「ガンマ。君の言う通り、僕にはヌギルさんが求める能力は無い。君の方からも―――

「違うぜ。旦那。俺が否定したのは旦那の方だ。あんたはこの方の言う通り、もっと結果を出せる人だ。だから俺は付いて来てる。姐さんもだ」

 ガンマの隣に立っているレイフォも頷く。いったいナイールに彼らは何を求めているのか。それが増々わからない。

「この場においても、カリスマがあるのだと、私はあなたの配下を見て思いますよ。人を惹き付ける才だ。しかもそれはあなたが生来持っているのでは無く、行動で示して来た事。たかが数日。時間にすれば数時間程度の関係ですが、その間だけでも、私はあなたに当てられつつある。だから謝罪しているのです。当家のグノンがあなたを値踏みし、その手の内に収めようとする態度、申し訳ありませんでした」

 実際に頭を下げるヌギル。その姿にナイールは心底驚いた。

 彼にとっての寄る辺であるはずのグノンを、彼自身、否定したのだ。その行動を。

「本当に待ってくださいよ。今、ここで話している内容を他人から聞かれれば、あなたの方に害が及ぶ可能性がある。得なんて何も無い」

「あります。ナイールさん。あなたへの心象が良くなる。たったそれだけですが、今は、それだけをする価値があなたに生まれつつある。私はそう思う」

 真摯だった。明け透けな内心を見せつけて来るというどうしようも無い程の真摯な姿勢。

 それにナイールは答えられない。さっきまでの不機嫌な気分が吹き飛び、ただただ、困惑だけが大きくなっていく。

「僕は……それほどの男じゃあない。自分自身でそう判断している」

「本当カ? 若」

 レイフォも口を挟んできた。何故か今は、その彼女の目線が怖い。

「本当も何も……僕は地方貴族カーメイン一族の次男で、言う程、大した立場じゃあない」

「ダガ、今ハ違ッテ来テイル。ソレニ戸惑ウノモ良イガ、時間ハソレ程無イノダロウ?」

 考える時間すら惜しい状況なのは分かっている。分かっているが、未だに納得出来ないものがある。だからナイールはその数少ない時間を使う必要がある。

「ちょっと、一人にしてくれないかな。ほんの少し。十分だけで良い」

「分カッタ。ヌギル様……コチラノ主ハ、コウ言ッテイル。十分ダケ、休憩ヲ取リタイ」

「ええ。それは、はい。ナイールさん。あなたの心が決まる事を、私は祈るだけですよ。それではまた」

 また。という言葉を強く意識させつつ、ヌギルが去っていく。ガンマとレイフォはこちらを見つめたままであるが、黙っても居てくれていた。

 これから、グノンから指示された事を彼らに伝える必要があるのだが、それも十分程度なら待つ。そういう姿勢を取ってくれていたのだ。




 ナイール・カーメインの人生とは、口さがない言い方をするのならばロブ・カーメインの予備であった。

 意外な事に、それを疎ましく思った事はそれ程無い。世の中を知れば、そういう立場の貴族の子弟は幾らでも居るのだから。

(なら今、僕が悩んでいるのは、そうで無くなったからか?)

 テントが張られた場所から少し離れた丘にて、ナイールは王都を見ていた。

 今、開く事は稀だろうと思われた王都の赤黒い巨大な鉄門が開かれている。

 王都内の兵士達がそこから出て来て、ゲンガオン家の私兵達とかなり距離を置いて睨み合う。もっとも、今はそれだけだ。揃える物が揃い、陣形が生まれ、ぶつかり合うその瞬間までは、あと一日は掛かるだろう。

 あと一日。そこで戦端は開かれる。

 門から出て来る兵士達の群れは、その内に秘める闘志を滾られているのか、それとも、戦場で血を流す事を恐れている最中か。

 ナイールには彼らの内心までは分からない。分かる事と言えば、彼らの動きとそれを指示している連中の姿だけ。

(……今、僕の目に映っているすべての存在が、僕と同じく流されるだけで動いてる。本当にすべてを左右出来る存在がいるんだとしたら、それはわざわざ危険な戦場には出て来ないんだろう。僕はそういう人種になれるとヌギルは言ったのか? そんな馬鹿な)

 能力があっても御免被る。情の有る無しの話ですらない。

 背中に抱えられる責任の数だけしか、ナイールは抱えたいと思わないだけだ。それがナイールの器だ。それ程の大器ではない。ナイール自身はそう評価しているのだが……。

(彼らは違うんだろうな。僕を見ている、僕に近しい人達は、僕に何を見ているんだ?)

 それに気が付けなければ、そこでナイールはおしまいな気がする。今、目に映る兵士達の様に、流されるだけ流されて、運が悪ければ岩や木に当たって終わる。

 そうだ。結局、ナイールはその程度の存在だった。ただの兵と同じく―――

「あっ……」

 ふと、考えが浮かんでしまった。今ある光景。ナイールの立場。与えられた権限、力、そうして配下達の信頼。

 それらを抱えて、次に進める方法が浮かんでくる。どん詰まりで流されるしかない状況を、少なくとも一つは打開出来る方法が、心の中に浮かぶ。

「だから、だからそれが何だって言うんだよ。何か出来る。出来てしまうから何だ」

「ソレガ若ダロウ」

 背後から、話し掛けられる。レイフォとガンマ。二人以外にも、ナイールが王都へ連れて来た配下達全員がそこにいる。

 もう十分の時間が経ってしまったらしい。

「拗ねる時間は終わったかい? 旦那」

「拗ねるって、僕が拗ねてたと思ってるの?」

「拗ねてただろうよ。あれやこれや無理難題突き付けられて、何で自分なんだって拗ねてた。けどさぁ旦那。いい加減認めようや。それが旦那さ。これまでずっとそうだったろう? だからこれからだってそうなる。諦めて、それでも出来る事があるんだ。旦那には」

「……」

 面倒事を、背負う事には確かに慣れていた。だが、それはそれで構わないと吹っ切れる事が許されているのだろうか。

 もっと綿密に、そうして安穏と出来る場所を探す必要は無いというのか。

「若。昔、駆ケッコヲシタナ」

 場違いな事をレイフォが話し出す。だが、聞かないという選択がナイールには無かった。

「私ノ方ガ早カッタ。種族ガ違ウノダカラ当タリ前ダ。ダガ……ソレデモ私ガ音ヲ上ゲルマデ、若ハ挑ミ続ケテ来タ。多分、ソノ時カラ、若ハ私ノ主ニナッタンダ」

「それは……」

「姐さんは言葉が少ない癖に言い方が迂遠なんだよ。こう言っちまえば良いのさ。ひたすらに、無理かもしれない事に挑戦する若ってのが、とっくの昔にあったんだろう? これからそれを見せるのも悪く無いんじゃねえかって。勿論、俺達も付いていくぜ。良い考えが浮かんじまったんだろう?」

 ガンマも、レイフォも、他の配下達も、ナイールを見つめていた。そこに何かを見ていた。

 ナイール自身は、その姿が何であるかまだ分からない。分からないが、良いのだろうか。その目に答えようとして。

 何かを買い被られて、それに答える事が、許されるのだろうか。

「ごめん。みんな」

 ナイールは配下達を見る。彼らの目には信頼があった。お前にすべてを任せるから失敗するなという責める物では無く、お前が失敗するのなら仕方ないと言ってしまえる、そんな信頼がそこにある。

 それはナイール側の、勝手な思い込みなのだろうか。なら、そう思い込み続けよう。

「やってみるよ。君らの命を僕に預けて欲しい。上手くやれば……全員、生き残れるはずだ」




 七日目。王都に滞在する最後の日であるはずだったそんな日に、ナイールへ手紙が来た。

 手紙は三枚。うち二枚は姉、ミスルエ・カーメインと今やナイールの上司とすら言えるドロミア・レスティスからの物。

 王城の正門が開き、兵士達が出入りしている隙に送られてきたものだ。

(あれで姉上も気落ちしてばかりは居られないって感じかな)

 何かしらの間者でも雇ったのか、兵士に金を握らせたかは分からない。だが、確かに王都の外にいるナイールにその手紙が届いた。それが事実だ。

 内容については、王城内の情報が多く書かれ、後々は役に立ちそうに思えたが、直近で利益になるものは無かった。

 ただ、その最後に書かれている言葉はナイールにとって重要だった。

「あなたの好きな様にしなさい」

「ナイール。あなたの考えるままに」

 それぞれが、似た様な意味を伝えて来たのは偶然なのか、それともお互いで話し合った結果か。

 ただ、それは確かにナイールの心の中の燃料へと変わっている。ナイールを突き動かしてくる、ナイール自身の情動は、今、確かに燃え上がろうとしていた。

 王都の外部。平野が広がるその地域に、二つの集団が睨み合っている。

 片方は王城内部の権力者達が集めた一応は正規の兵士達。

 片方は王都外部に権力基盤を置く大貴族ゲンガオン家の私兵と、彼らの庇護下や支配下にある者達の混成集団。

 現段階ではお互いに、急造の集団であり、睨み合いながらも、その陣形は歪なままだ。

 これが正しく整う時が戦いの時……。

(とはならない)

 睨み合う両陣営の内、ゲンガオン家の側の陣に居ながら、ナイールは思う。

 ゲンガオン家側にとって、一度布陣した以上、王城側の準備が整ってくるのは困る話だからだ。

 もし、形だけの正規兵が、正真正銘の物へと変われば、一貴族の私兵集団なぞ蹴散らされてしまう。

 そうでなくとも、王都の一時的な混乱を突いて、ここに居る理由を作っているゲンガオン家だ。王城側がより一層正当性を主張してきて、王都の住民達が敵に回れば、三千の兵などものの数では無くなってしまう。

 だが、王城側とて悠長にはしていられない。大魔王亡き今、その後継者が定まらない限り、王都、いや、魔界の混乱は続く。拡大する。時間は彼らにとってこそ敵であろう。

 だから早急に、外部の敵を排除して中で話をまとめる必要がある。

(だからこそ動く。今日動く。不足があろうとも、お互い、今日中に決着を付けたいと思うからこそ、動き始める。そうして僕は……)

 視界に自らの兵士達を映す。

 直属の、見知った配下はたった六人。他はゲンガオン家の私兵が半数。そこに王都内住民の避難者から志願してきた者とゲンガオン家が運営してきた賭場などから借金のカタにその身を買われたヤクザな連中を足して、漸く総勢三百だ。

(碌な兵士達じゃない。いや、兵士とも呼べない。結構な立場を任されたけど、こういう連中を任される程度の信用しか無いとも言える)

 出来れば兵士全員分の騎馬も欲しいところであったが、与えられたのは三十に満たない数。そもそも馬に乗れない者もいるため仕方あるまい。

 訓練も碌にしておらず、装備だって足りないだらけの情け無い連中の指揮者。それが今のナイールの立場。

 だが、その立場だからこそ言える事がある。

「全員! 良く聞け! 僕たちの総大将! グノン・ゲンガオン様からの指示が手紙で届いた!」

 ナイールは今日届いた三枚目の手紙を自らの兵士達に見せる。

「内容はこうだ! 僕たちが、この場の戦端を開け! 一番最初にぶつかれとの指示だ! さっそく怖気づくだろうな、諸君!」

 兵士達の表情に不安の色が見えて来る。当たり前だ。真っ先に死ねと言われた様なものなのだから。

 正規の兵では無く、私兵混じりの、まともじゃない集団。ナイールの故郷、ハイラングの方がまだ、まともな兵士集団を集められるだろう。

 そんな連中が、こういう状況で怖気づかないわけがない。今すぐにでも逃げ出そうとする者もいるはずだ。もっとも、周囲は他の兵士達に固められた場所に配置しているため、逃げるなんて不可能だろうが。

 開けているのは目の前。陣形の最前列の一部がナイール達の位置。そこへ進むのは、どんな理由であれ逃げるとは表現しない。突撃すると表現するのだ。それは。

「だが安心しろ! 僕に策がある! と言っても、どこかの頭でっかちが考えた複雑怪奇なものじゃあないぞ? もっと単純で、聞けば諸君も納得できる単純明快な作戦だ!」

 ナイールは笑っていた。ここまで来れば笑うしかない。悲観的な顔なんてのはただ不安な要素を増やすだけ。

 やる事は決まっていた。なら、そのやる事に前向きに、全力で取り組むのみだ。

「皆、僕に付いて来て駆けろ! 駆け抜けろ! 僕が先頭を行く! 皆はそれを追って走り続ければ、生き残れるぞ! そうして……遅れれば死ぬ。それが戦場だ!」

 戦えとは言わない。ただ走れと伝える。そういう一つの行動でしか、ここの連中が一つの集団として、一つの隊として動く事は出来ないとナイールは経験で知っていた。

 兵士達の不安は消せないだろうが、そこに悲壮感を混じらせる事は出来たらしい。そうだ。今、この状況において出来る事は走るしかない。例え逃げ出すにしても、走る以外の何が出来るのか。

 彼らの後ろ向きな意思すらも汲み取って、ナイールはこの隊に一つにしていく。隊とはそうやって出来上がる。

「さあ! 行くぞ諸君! 出陣の時だ!」

 ナイールは自らの黒馬を駆り、最前列へと向かい、戦場の真正面へと躍り出た。

 ナイールが率いる三百の隊もそれを追ってくる。というより、ガンマやレイフォを含むナイール直属の配下に最後尾を固めさせているため、ナイールに付いて来るしかないのだ。

 その動きは、誰の目にも戦端が開いた事を覚悟させるだろう。仕掛けたのはガンゲオン家側。

 お互いの陣形は動き出し、一方で歪に蠢く様な形で一時停滞している。お互いがまともな軍隊で無い以上、その動きも一手だけ遅くなるのだ。

 ただひたすら、走れと命じられるナイールの部隊だけがその遅々とした戦場で一歩先んじる。

 ただ、それも一歩だけだ。敵の陣が動き出し、ぶつかれば、ただ走るだけの指示を与えられたナイールの部隊は停滞し、ただの寄せ集めの集団に戻ってしまう。

 故にナイールはその一歩を使い、王城側の陣形の最前列に対して、部隊が横向きに平行する様に方向転換させた。

(そうだ。付いてこい! だからこそ生き残れる!)

 部隊の最前列に居る隊長が、正面からぶつかるのを避けた。それは他の兵士達に、確かにこいつは生き残ろうとしているという風に見えただろう。

 後ろ向きな信頼がナイールへと向かう。だって確かに戦いを避けてくれているのだから。

 だからナイールはその考えをも利用した。

(見極めろ。この作戦の成否は、この見極めの瞬間にこそある!)

 ナイールの視線は、平行する敵陣の最前列に向かっていた。馬に乗り疾走するも、馬に乗っていない兵士達の速度と合わせる様にも意識を回す。

 部隊がばらけてしまっても駄目なのだ。あくまで一塊の部隊としてあり続けなければならない。

 瞬時に考えなければならない事が非常に多い。頭の中がちりちりする様な感覚のまま、全神経を戦場に馴染ませ、見逃さず、判断する瞬間にすべてを賭ける。

「ここだ!」

 そうして、ナイールは再び部隊が進む方向を変えた。

 今度こそ、敵陣へと突入する方向へ。




「ナイール・カーメインの隊が動き出した様だな」

 グノン・ガンゲオンのその言葉を聞いて、ヌギル・ガンゲオンは頷いた。

 平原の戦場。向かい合う陣と陣。その片側の後方にヌギル達は居た。

 総大将はもっとも安全に周囲を見渡せる場所に。平原に軍馬に乗った状態であるから、確かに戦場を見渡す事が出来るが、しかしすべては無理だった。

 兵士達の動きを見て、全体がどうなっているかを想像するしかない。しかし、それでも、お互いの陣に動きが見え始めたのは十分に分かった。

「こちらからも彼らの動きが見えます。あちらを見てください」

 と、一部隊のみ突出しているそれを見た。

 間違いなく、それはナイール・カーメインの動きだろう。予想以上に早くまとまって動くその姿を見れば、いったいどんな魔法を使ったのかと首を傾げたくなった。

「ふん? なんだあれは……逃げる風でも無いが……」

 グノンとヌギル。二人共に、ナイールの部隊が方向転換するのを見る。戦線を平行に走り出したその部隊は、しかし敵陣に触れそうな位置取りで動き続けていた。

 逃げるならば、もっと敵陣から距離を取るだろう。しかし、それでも敵陣とぶつかるのは避けている様子だ。

「なあヌギル。奴はこの戦場で、第一陣となる事を自ら希望してきた。それは確かか?」

「はい。彼自身が志願しました。自分が戦端を開くと」

 嘘でも何でも無い。この戦場において、もっとも危険な立場に自分が立つと、ナイールは進言してきたのだ。

 彼はグノンにその許可を貰い、実際に行動し始めている。

(何を考えているのか。あなたの行動は、今の段階ですら私の予想の範囲外にあるらしい。しかし、それが予想を上回る物かどうかは……やはり私には分からない)

 この戦場での戦果を持って、さらなる高みを望んでいるのか。それとも自らの意地と地位を守るためだけの行動か。

 分かる事と言えば、彼が今、戦場の最前線というどうしようも無い危機の中に、自らを晒しているという事だけ。

「ほう。突っ込むぞ、あの小僧。胆力だけはあるらしい。こちらにとってはそれで十分。我々も陣を進ませるぞ。奴の勇気を称えてやろうではないか」

 ナイールが敵陣にぶつかるのと同時に、睨み合う陣も動き始める。戦端は開かれ、ガンゲオン家の私兵と王城の兵士達が全面でぶつかるまであと数分と言ったところか。

 その数分の間に、ナイールの部隊はすり潰され、敵陣に多少なりとも混乱と歪みを与えられたという功績だけが、本人の死体に手向けられる。

 それがヌギルの予想であり、実際、ナイールはその予想を裏切っていた。

「どうした? ヌギル。気を引き締めろ。我らとて戦場で戦う将なのだぞ?」

「え、ええ。そうですね。今が大一番。我々が勝てる様に全力を尽くしましょう」

 グノンは既にナイールへの興味を無くしている様だった。彼は今、この戦場全体を俯瞰して戦う将軍として、自らの思考を切り替えたのだと思う。

 だからこそ、ナイールの部隊の動きの異質さが見えなかった。

 正確には、その周囲に起こった変化を。

(どんな魔法を使った? ナイール・カーメイン。君は……戦場を切り裂ける魔法でも使えるというのか?)

 敵陣へぶつかり、そのまま飲み込まれた様に見えるナイールの部隊。

 しかし、その動きを注視していたヌギルには、確かに、ナイールの部隊の進撃を恐れたかの如く、敵陣が裂けるのを見ていた。




「走れ走れ走れ! 止まると死ぬぞ! 走り抜ければ生き残れるぞ!」

 ナイールは敵陣の真っ只中で、叫び続けていた。

 思考と視界は全力で周囲の観察に費やしながら、口で叫び、身体は軍馬を走らせ続ける。

 もはや自分の部隊がどこかへ逃げる事を心配する必要は無い。すべての方向に敵が居るのだから、部隊の者達はナイールの背中を追うしか出来ないそんな状況。

 そんな状況だと言うのに、ナイールの部隊はすり減っていなかった。

「こっちだ! 全員僕を見ろ!」

 ナイールは自らの乗馬を動かし、前に進ませる。そこには当然、敵の兵士の集団が居て……ナイールが進むと、それを避けた。左右に避難する様に動かし、三百程度の集団ならば細長く突き進める隙間がそこに出来る。

 そうしてナイールはただ、その隙間に部隊を走らせ続け、敵陣の只中で生き残り続けている。

 どういう種か? 無論、この様な現象には理由がある。結局のところ、この戦場は、権力闘争の延長にあるものだという理由だ。

(そうだ。味方だけじゃなく敵も僕を見ろ! 僕にその表情を、その恰好を見せつけろ!)

 王城側の兵士達は、良く見れば装備や武装が細かに違っている。急造された陣だからか? それだけでは無い。彼らは正確には、所属が違うのだ。

 魔界すべての統治権を持つ大魔王が死に至り、その後継者をどうするかで争っていたのは王城側である。

 それはつまり、たかが数千の兵士を集めるにしても、一枚岩では無かったという事。

 それぞれがそれぞれの思惑で集まり、共通の外敵を倒すという目的だけで、辛うじて纏まっている。それが王城側の兵士達の正体だった。

 無論、大兵数同士がぶつかるのであれば、そういう状態とて皆が戦う事になり、機能するだろう。

 だが、ナイールの部隊の、三百という少数を相手取るならば、必然的に別の問題が発生する。

(誰が僕たちを相手にする? そうだ。お前たちがわざわざ貧乏くじを選ぶ理由は無いはずだ)

 全員がぶつかり、全員が損をするからこそ手を組める。ナイールの部隊の規模であれば、そうはならない。ぶつかった部隊は、他の部隊より多くの死傷者を出してしまう。

 だから、出来ればぶつかるのは避けたい。そう思う心理。ナイールは王城側の兵士達の動きや恰好を観察し、どうにも一定数毎に違いがある事を確認した。彼らはその行動原理を一つに出来ていないのだと。その心理を利用出来ると判断した。

 無論、それでもどこかの部隊の正面から当たれば、戦いが発生するだろう。敵陣の真ん中でその様な状態になれば、速度を失い、周囲から圧し潰される。

 だからこそナイールは最前線に、部隊のもっとも前に出て、進むべき隙間を自らの才覚で判断しているのだ。

 時間は掛けられない。走り続ける中で、次に走る道を、敵兵の姿や動きだけで判断して突き進む。

 別の部隊と部隊が隣り合うその隙間。それを瞬時に見極め、そこに自らの部隊を入り込ませる。そんな馬鹿なと思える行動を、実際にナイールは続けていた。

 そんな事が出来るのか? 愚かな行動では無いか? 致命的に何かを間違えているのでは無いか?

 ナイールは悩んでいた。これまでだってずっと悩み続けていた。それでも、昔みたいに駆けてみせろと言われた。

(今はそれで良い。僕にはそれが出来る。そんな勘違いかもしれない確信だけがあれば……あとはやり遂げるだけだ!)

 敵陣を進む。進む。進む。進む。動きはそれだけだ。判断さえ間違えなければ、ただひたすらに進み続けられる。戦う必要は無い。ただ駆ける。それだけを自分の部隊にも、配下にも、自分自身にすら厳命してある。

 妙な気分だった。部隊は加速している。こんな混乱の中にあるというのに、それでもナイールの部隊はどんどん速くなっている気がした。

 これはナイール自身も気が付いていない事であったが、敵陣の中にも動揺が生まれていたのだ。

 ナイールの部隊の動きを、その目的も、行動指針も分からぬ者が見れば、どう映るか。

 それはヌギルが見た様に、戦場を切り裂いていく狂気の部隊だ。

 あの部隊に目を付けられれば、自分達は一溜りも無い。

 実際には敵兵一人傷つけていないその部隊が、敵陣の只中で他の部隊を切り裂いていく尋常ならざる存在に映ったのである。

 その実、ナイールの部隊が速くなったのでは無い。敵兵が、より積極的に、ナイールの部隊を避けようという動きを見せ始めたのだ。

 それは運か、はたまたナイールの行動が引きずり出した運命か。

 駆けるナイールには、忘れていた程の幼少期、ただ駆けっこが好きだった頃の思い出が脳裏に過ぎ去り、眼前に開けた、もはや敵陣すらも突き抜けた先の光景が目に入っていた。

「全員! 駆けろ! 全力で駆け続けろ!」

 戦場を走り続ければ、頬に風が当たる。その風はどうしてか、故郷、ハイラングの風を思い出させるものであった。

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