灰が舞う
寂しそうな目を見てしまったことが忘れられない。
いつも過ぎる通学路に、大きな屋敷がある。
その屋敷の住人である悟さんに出会ったのは、雨の日の帰り道だった。
「こんにちは」
いつも通り、生垣から庭を覗き込むと、縁側に腰掛ける悟さんがこちらを見て微笑んだ。
「由梨さん、おかえりなさい。今日は梨がありますよ」
からからと下駄の音を響かせながら、悟さんが手招きをする。
そういえば由梨さんのお名前も梨でしたね、といたずらっぽく笑う顔から目をそらせなくて、曖昧にうなづく。胸がぎゅっと痛い。顔に熱が集まるのを感じる。
夏の雨上がりはじっとりと暑くて、梨の甘みが喉を潤した。
わたしは悟さんに恋をしている。のだと思う。だって、いつもいつもあの微笑みが頭から離れないのだ。
みたいな、少女漫画のモノローグのようなことを考えてしまって、思わず枕に顔を埋めた。
通学路にあるお屋敷が気になって仕方なく、毎日そっと覗き込んでいたら、ある雨の日に住人の悟さんに気づかれてしまい、ご厚意に甘えて雨宿りをさせてもらってから半年。
それから少しずつお話ができるようになって、今では縁側に腰掛けさせてもらうことまでできるようになった。
日々お邪魔させてもらう庭先から伺う室内は人気が無くて、多分ここに住んでいるのは悟さんだけ。
学校帰りにおやつをいただきながらのんびり会話をする時間は、わたしにとってかけがえのない時間だった。
帰り道、いつもみたいに屋敷の前を通ると、パチパチと音が聞こえ、しかもほんのり焦げ臭い。
「悟さん…!?」
まさか火事かと思い慌てて庭に入ると、悟さんは縁側に座ってぼんやりと焚き火を眺めていた。
「ああ、由梨さん。おかえりなさい」
ふわっと微笑む顔がいつもよりも無機質な気がして、思わずたじろいでしまう。
「こ、こんにちは…。あの、なんで焚き火…?」
「ちょっと、整理しようと思って」
気がついたら力が入っていた指先を悟さんから隠して解いて、つっかえながらも聞くと縁側にある本、いや、アルバムの束を示された。
「写真…?」
燃える中に、悟さんの写真があった。悟さんだけじゃなくて、その横では女性が微笑んでいる。よくよく見ると、その女性が笑顔でこちらを振り向く写真や、無防備な寝姿を見せるものもあった。どれも火に巻かれて、だんだんと灰になっていく。
「え、なんでこんなことするんですか!?」
思わず焚き火に駆け寄ると、危ないですよ、と悟さんに手を引かれた。
「もう、全部なかったことにしようと思って」
振り向くと、悟さんの背後に初めて奥を覗く和室があって、そこには白い箱が置かれているのが見えた。
「3年も経つのに、どうしても手放してあげられなかったんです。だから、もう、なかったことにしてしまえば、彼女も、私も、楽になれると思ったんです」
にっこりと笑う顔に、どこか恐ろしさを感じる。ふと、掴まれたままの手首が鈍く痛むことに気がついて、目を下ろすと、悟さんの左手薬指に光るものがあった。いままでは、なかったのに。
頰に当たる熱と、鼻を掠める焦げた匂い。視界の端ではすっかり燃えてしまった灰が空を舞っていた。
それから、なんとなくあの屋敷には近づき難くなって、通学路もちがう道を使うようになってしまった。
悟さんが掴んだ手首のあざはもうだいぶ薄くなっている。もしかしてあの後、あの白い箱まで燃やしてしまったんじゃないだろうか。なんて、ありもしないことをぼんやり思った。
悟さんのいる庭先にお邪魔しなくなってから季節が二つ変わったころ、思い切って久しぶりに通ってみたら、屋敷はなくなっていた。
まるで、最初から無かったみたいに空き地が広がっていて、ささやかに吹く風からはかすかに灰の匂いがした。