高校二年生編(52)
高瀬兄は、再び正眼に構えていた。
おれも同じように正眼を構える。
今度は、先ほどのような圧は感じない。
それどころか、まるで別人と対峙しているかのような感覚に襲われていた。
これが、本当に高瀬兄なのか。そんな錯覚すら覚える。
隙だらけ。
いまの高瀬兄の構えをひと言でいうなら、この言葉がふさわしいだろう。
おれはその隙だらけの高瀬兄の小手を狙うべく、一気に踏み込んだ。
おれの剣先は高瀬兄の小手に吸い込まれていくように、弧を描いて振り下ろされた。
しかし、竹刀が小手に当たる感触は、いつまで経っても伝わってこなかった。
いままでそこにあったはずの小手はなく、おれの横面を狙って目の前に剣先が迫っている。
おれは反射的に体を逸らして、その剣先を避けていた。
そのまま、今度は胴を狙って竹刀を返す。
今度こそ、一本取れる。
そう思ったのもつかの間、おれの竹刀は空を斬っていた。
高瀬兄の体は、半歩後ろに下がっている。
一体、どういうことなのだろうか。
おれがどんなに届く距離で竹刀を振っても、高瀬兄の体には当てることすらも出来ない。
それなのに、高瀬兄の振った竹刀は確実におれに届く。
「小手あり、一本」
「胴あり、一本」
「面あり、一本」
おれは合計五本を高瀬兄に取られて負けた。
これが全日本選手権レベルの剣道だというのだろうか。
紅白戦を終えて、汗を拭いていると、高瀬兄がこちらに近づいてきた。
「おつかれさま、花岡くん」
「おつかれさまでした」
「なかなか良かったよ。さすがはインターハイ準優勝だ」
「それは、去年の話です」
昨日とまったく同じ突っ込みを入れてから、おれはため息を吐いた。
「どうした?」
「なんで、おれは一本も取ることができなかったのでしょうか」
「知りたい?」
「はい」
「ちょっとした、術だよ」
「術……ですか」
「花岡くんの間合いを狂わせたんだ。竹刀の届きそうなところにいるように思わせて、花岡くんに打ち込ませた」
「そんなこと可能なんですか」
「数分前に、花岡くんが体験したことだよ」
高瀬兄は笑いながら言うと、次鋒戦の試合へと目を向けた。
部活終了後、おれは高瀬と高瀬兄の三人で歩きながら帰った。
いつもであれば、高瀬とふたりなのだが、今日ばかりは勝手が違う。
「なんで来るんだよ」
高瀬は兄に不満を漏らしていたが、高瀬兄は笑うだけで答えようとはしなかった。
そういえば、どうして高瀬兄は剣道部の稽古に参加しに来たのだろうか。
普段は東京の警察署の剣道場で稽古をしていると聞いている。
しかも全日本選手権に出ているような人だ。
それがどんな風の吹き回しで、剣道部の稽古に参加したというのだろうか。
「それじゃあ、ここで」
「花岡くん。ちょっと、話をしたいんだがいいかな」
高瀬家の前についた時、高瀬兄がおれのことを呼び留めた。
「ええ。なんでしょうか」
「この先にある、公園でいいかな」
高瀬兄はそう言って、先に歩き出した。
事前に兄から言われていたのか、高瀬はついて来なかった。
「話ってなんでしょうか」
公園のベンチに座ると、高瀬兄が温かい缶コーヒーを買ってきてくれた。
「きょうの練習を体験して思ったことを伝えるよ。いまのままでは、いつまで経っても隼人には勝てない」
「どういうことですか」
「そのままだよ。きみはS高校剣道部で、一番強いだろう。あの前田くんって子も強いけれど、頭ひとつ飛びぬけて強いのは花岡くんだ。だから、きみの成長は止まってしまっている。花岡くんには、ライバルのような存在が近くにいた方がいい」
「ライバルですか」
「ああ。隼人は東京の学校で色々な強豪選手たちに揉まれて、腕を上げていっているよ。きょう、花岡くんの紅白戦で戦ってみて、もっと強い相手と試合稽古を重ねた方がいいと、思ったんだ。相手は別に高校生でなくてもいいし」
「わかりました。アドバイスありがとうございます。でも、なんでおれにそんなに気を掛けてくれるんですか」
「何でだろうな。昨日会った時から、なんか気の置けない年下の友人というか、弟みたいな感じがきみにはあってね。それに花岡くんが強くなればなるほど、隼人も強くなっていってくれる気がするんだ」
高瀬兄は、色々とおれのことを思ってくれている。
しかし、それと同時に神崎隼人のことも大事に思っているのだ。
おれは高瀬兄の気持ちに応えたい。そんな気持ちにさせられていた。




