高校二年生編(45)
「花岡、落ち着いていけ。勝てるぞ」
顧問である小野先生の声が聞こえてくる。その声は興奮のためか裏返っていた。
再び向かい合った神崎は、焦りの色が出ているかと思えば、まったくいつもの通りだった。
正眼でじっとこちらを見据えるように構えている。
相変わらず剣先からの圧力は半端ではなかった。
こちらの方が優位に立っているはずなのに、どこか追い詰められているような気になってしまうほどだ。
神崎が仕掛けてきた。
先ほどあれだけの攻めを捌ききったという気持ちの余裕があったため、おれは臆することなく迎撃に出た。
剣先を上下に揺らすようにしての左小手打ち。
おれはその小手打ちを竹刀で跳ね除けると、返す刀で横面打ちを狙いに行く。
剣先が面をはずれ、神崎の肩にぶつかる。
神崎はそれをチャンスと見たのか、前へ踏み込んでくる。
間合いが一気に詰まる。
右片手突き。
やばい。この距離だと、竹刀を戻して受けるのでは間に合わない。
おれは咄嗟に体を捻って、神崎の突きを避ける。
勢いがあまっておれと神崎の体が交錯する。
予想外な動きに二人とも足を取られバランスを崩し、おれたちは二人で床に倒れこんでしまった。
主審と副審が一斉に駆け寄ってくる。
「おい、大丈夫か」
主審の言葉におれは頷く。
神崎も副審の言葉に頷いていたので大丈夫なようだった。
二人がぶつかったのは故意ではなかったため、注意を与えられることもなく試合は再開した。
仕切りなおし。
おれは正眼から下段に構えを変えた。
神崎は正眼のままで、じりじりと距離を縮めてくる。
速い踏み込みだった。
来ると思った時にはすでに、跳ね上がった剣先がおれの面を狙って飛んできていた。
おれは下段の構えから竹刀を跳ね上げるようにして、神崎の竹刀を受け止めに入る。
罠。
そう気づいたときにはすでに遅かった。
おれの跳ね上げた竹刀は空を斬っており、神崎の竹刀はおれの横面をしっかりと捕らえていた。
「面あり、一本」
主審の声に場内が爆発するかのように沸き上がった。
追いつかれてしまった。
残り時間はもうなかった。このまま行けば延長戦だ。
おれは神崎に勝てるのだろうか。そんな不安が脳裏を過ぎる。
「まだだぞ、花岡。ここからが勝負だ、気を引き締めて行け」
前田が叫んでいる。いや、前田だけじゃない、木下も、鈴木先輩も、桑島先輩も、剣道部のみんながおれに言葉を投げている。
そうだ、まだこれからだ。おれは負けるためにここに立っているんじゃない。勝つために立っているんだ。
神崎、行くぞ。
おれは神崎目掛けて足を踏み出した。
神崎はおれの踏み込みに反応できていない。
それもそのはずだ。この踏み込み方は、平賀さんと一緒に練習した踏み込みなのだから。
起りのない踏み込み。
古流剣術ではそう呼ばれている踏み込み方だと、平賀さんはおれに説明してくれた。平賀さんは剣道だけではなく古流剣術にまで手を伸ばしていて、剣術から剣道になるにおいての過程で剣道が置いてきてしまったものを取り入れた練習方法をおれに伝授してくれた。そのひとつが、この踏み込み方だった。
普通は一歩前に出ようとする時、足の筋肉を踏ん張ったり、地面を蹴ったりすることによって体が前に出るのだが、地面からの力を足に通すというやり方をする、この起りのない踏み込みだとそういった動作が一切なくなる。
そのため、いつ踏み込んでくるのか相手はわからなくなってしまうのである。
おれはこの踏み込みを一週間掛けてなんとか出来るようにした。
一週間と聞くと、たった一週間で出来てしまうのかと簡単に思われてしまうかもしれないけれども、おれはこの踏み込み方だけを一週間ずっと続けてきたのだ。
高瀬なんかは、おれの妙な歩き方を笑って馬鹿にしたりもしていたけれども、すべてはこのためだった。
電光石火。
おれはこの起りのない踏み込みにプラスして、ノーモーションの打ち込み、即ち起りのない打ち込みで神崎の小手を狙った。
竹刀は神崎の小手をしっかりと捕らえていた。
静寂に包まれた空間におれの竹刀が神崎の小手を打つ音だけがこだまする。
勝った。おれの勝ちだ。
ついにおれは神崎に勝つことが出来たのだ。
この一年間、夢にまで見てきたこの瞬間。
「それまで」
主審の声に、おれは動きを止めた。
場内は静寂に包まれたままだった。
おれは主審へと目を向けた。
「時間です。最後の小手打ちは時間外だったため、取りません」
信じられない言葉だった。天は神崎に味方したのか。
おれの小手打ちが決まったのは試合時間内ではなかったため無効となり、一対一の同点のまま延長戦を行うこととなった。




