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お兄様と呼ばないで

作者: 中村くらら

 あぁ、またか。


 貼り付けた笑みの裏で、リーリアはそっと溜息をつく。


 甘ったるい薔薇の香りに包まれたガゼボでのお茶会。

 目の前に座る婚約者のダレルは、その端正な顔に甘い微笑みを浮かべている。

 けれどその瞳に映るのはリーリアではない。


「ヴィオラ、紅茶まだ熱いから気をつけて」

「大丈夫よ。お兄様ったら、すぐそうやって子ども扱いするんだから」


 ダレルの視線の先にいるのは、小柄で華奢な美少女ヴィオラ。寄り添うようにダレルの隣に座っている。

 そんなヴィオラに、ダレルはからかうような声音で言う。


「あれ、そんなこと言って。昨日の朝食のとき、スープで火傷したって泣いてたのは、どこの誰だっけ?」

「な、泣いてなんかいないわ。ちょっぴり涙が滲んだだけで……」

「それを泣いたって言うんだよ」

「もうっ、意地悪なお兄様!」


 可愛らしく頬を膨らませるヴィオラ。

 それを愛おしげに見つめるダレル。

 二人の間に親密な空気が満ちる。


 それをリーリアは、いつものように冷めた目で見守った。

 口元だけは笑みの形を保ったまま。


 ふいに、ヴィオラの視線がリーリアに向けられた。

 途端にヴィオラはビクリと体を震わせ、花が萎れるように細い眉を下げた。


「あ……ごめんなさい、リーリア様。わたしばかりお兄様とお喋りしてしまって。……怒ってらっしゃいますよね?」

「いえ、怒ってなど……」

「リーリア様がお怒りになるのも当然だわ! お二人のお茶会に図々しくお邪魔したわたしがいけなかったんです……!」

「ですから本当に……」

「リーリア」


 窘めるようなダレルの声が、リーリアの言葉を遮った。

 困ったような顔は、ヴィオラではなくリーリアに向けられている。


「俺が同席を許可したんだ。ヴィオラを責めるのは筋違いだよ。責めるなら俺にしてくれないか」

「わたくしは責めてなど……」

「リーリア様、お兄様を責めないであげて下さい! 悪いのはわたしなんですから……!」

「ヴィオラは本当に優しい子だな。だけどそんなに遠慮する必要はないよ。俺はこの伯爵家の当主で、ヴィオラは俺の妹みたいなものなんだから」

「ありがとう、お兄様……」


 ヴィオラが潤んだ目でダレルを見つめ、ダレルは慰めるようにヴィオラの肩を抱く。

 もはや口を挟む気にもなれず、リーリアは無言で紅茶に口を付けた。


 リーリアは本当に怒ってなどいない。

 いつだってリーリアよりヴィオラを優先する婚約者。

 そのことに悲しんだり腹を立てたりする時期はとうに過ぎた。


 家同士の繋がりから、侯爵家の長女リーリアと伯爵家の嫡男ダレルとの婚約が結ばれたのは二年前。リーリアが十六歳のときのことだった。

 初めの一年はまだまともな関係だったと、振り返ってみて思う。

 おかしくなったのは、一年前にダレルの両親である前伯爵夫妻が不慮の事故で急死してからだ。


 突然の不幸によって弱冠二十歳で伯爵家を継がざるをえなかったダレルのことを、リーリアは婚約者として精一杯支えてきたつもりだった。

 侯爵家の娘として、また、次期伯爵夫人として学んできた知識をもってダレルを補佐した。冷静に。時にダレルを叱咤しながら。


 けれど、両親の死に打ちひしがれるダレルが求めていたのはきっと、共に悲しみの沼で溺れる相手だったのだろう。

 同じ屋敷に「家族」として暮らすヴィオラは、リーリアよりもよほどうまくその役割を果たしたようだった。


 以来、婚約者同士の交流のために伯爵邸を訪ねれば、必ずヴィオラが同席した。

 それ以外の場所で会う約束をすれば、二回に一回は、ヴィオラが体調を崩したという理由で中止になった。

 夜会でのエスコートを直前でキャンセルされたのも、一度や二度のことではない。


 今日だって、伯爵邸を訪れたリーリアの前に、ダレルは当然のようにヴィオラを伴って現れた。

 そしてヴィオラは当たり前の顔をしてダレルの隣に腰掛け、ダレルはそれを咎めもしなければ、リーリアに了解を取ることさえもしなかった。


 ヴィオラの外見は、ダレルとは全く似ていない。

 知らない者が見れば、ヴィオラこそがダレルの相手と思うことだろう。

 すでに社交界でも、ダレルとヴィオラの関係は噂になりかけている。

 街中で手を繋いで歩いていただとか、下級貴族の夜会に二人で参加していただとか。


 それを耳にしても、リーリアに怒りの感情が湧くことはもはやない。

 リーリアに残っているのは、侯爵家の娘としての誇りと責任感。

 そしてほんのわずかな希望。


「ダレル様」


 二人が会話を止め、揃って視線を寄越すのを待ってから、リーリアは再び口を開いた。


「来月の公爵家での夜会には、必ずわたくしをエスコートして下さいね。伯父の誕生日を祝う、大切な集まりですから」

「ああ、もちろん分かってるよ。公爵様にご挨拶させて頂く良い機会だしな」


 ダレルがにこやかに応じる。隣でヴィオラがほんの一瞬不満げに唇を尖らせたことには気付いていない。


 そのヴィオラは、ほぅとあからさまに吐息を漏らしてから、儚げに長い睫毛を伏せた。


「……公爵家での夜会、きっと夢のように素晴らしいんでしょうね。一度でもそんな夜会に参加することができたら、一生の思い出になるのに……。いいえ、分かってるんです、わたしには縁のない世界だって……」

「ヴィオラ……」


 悲し気に俯くヴィオラの頭をそっと撫で、ダレルはリーリアに目を向けた。


「リーリア、なんとかならないか」


 リーリアは思わず眉をひそめそうになるのをかろうじて堪えた。

 

「なんとか、と言われましても……」

「君は公爵様の姪だ。君から公爵様に頼んで、ヴィオラを招待してもらうことはできないだろうか」


 それは尋ねるというより、そうするのが当然だとでも言いたげな声音だった。


「……伯父に相談してみます」

「わぁ、嬉しいです!」

「良かったね、ヴィオラ」


 すでに夜会への参加が決まったかのようにヴィオラが華やいだ声をあげ、ダレルがそれを笑顔で見守る。


 引き続き他愛のないお喋りに興じる二人をどこか遠くに感じながら、リーリアは冷めた紅茶を飲み干した。









「なるほどね、それであんな泣きそうな顔をしていたわけか」


 兄のユージンが、手ずから取り分けたクッキーの皿をリーリアの前に置く。

 ダレルとのお茶会を終えて侯爵邸に戻ったリーリアは、今度はサロンで兄と向かい合っていた。


 怒りも悲しみももはや感じないと自分では思っているのに、ユージンからはそうは見えないらしい。

 ユージンはリーリアの心に重く溜まったものを目敏く察しては、いつもこうやって声をかけてくれる。


 今さら家族の前で愚痴をこぼすつもりなどないリーリアなのに、ユージンに優しく促されるとつい心が緩み、その中身が零れ出てしまう。

 きっと美味しい紅茶とお菓子のせいに違いないと、リーリアはそう思うことにしている。


「いつものことながら仕方のない人だな、ダレル殿は。いまだに妹離れできないなんて……いや、まぁその気持ちも少しは分からないこともないか。妹っていうのは可愛いものだものね」


 はい、あーんと言いながら、ユージンがクッキーをリーリアの口元に差し出す。

 リーリアの一番お気に入りのクッキー。

 思わずぱくりと囓りつき、もぐもぐごくりと飲み込んでから、リーリアは眉をしかめた。


「あの二人の関係はわたくし達とは違うわ。血の繋がりなんてこれっぽっちもないんですもの」


 ヴィオラはダレルの妹ではなく、親戚ですらない。

 ダレルの父親である前伯爵の恩人の忘れ形見であり、十歳のときに天涯孤独になったところを伯爵家に引き取られたのだという。


 以来六年間、ダレルとヴィオラは同じ屋敷の中で過ごしてきた。

 だからダレルがヴィオラを「妹のようなもの」と言うのも、全く理解できない話ではないのだ。


 前伯爵はヴィオラを養女にこそしなかったが、きちんとした教育を施し、年頃になれば良い嫁ぎ先を世話するつもりでいたらしい。

 だがその前に急死し、恩人の娘に報いる役目は、息子であるダレルに引き継がれた。

 

「そうだね、話を聞く限り、ちょっと距離感がおかしいかな。兄が妹離れできないなら、妹の方に離れてもらうのが手っ取り早いと思うんだけど……ヴィオラ、だっけ? 彼女、もう十六歳でしょ? ダレル殿は彼女の嫁ぎ先をまだ見つけられないの?」

「ええ、そうみたい……」


 リーリアは手元のティーカップに視線を落とす。


 ヴィオラに嫁ぎ先を世話してダレルから離れてもらう。

 当然、リーリアもそれは考えた。

 実際に侯爵家の伝手を頼って嫁ぎ先を紹介しようとしたこともある。


 だが、裕福な商家の跡継ぎ息子を紹介しようとすれば、


『そうですよね……所詮わたしは貴族ではありませんもの……。でも、せっかく前伯爵様が貴族令嬢と同等の教育を授けて下さったのに、それを無駄にしてしまうかと思うと心苦しくて……』


 と、憂い顔で瞳を潤ませる。


 それならばと、若くして妻と死別した男爵を紹介しようとすれば、


『そんな……! ずっと年上の方の後妻にだなんて! リーリア様、わたしが目障りだからって、あんまりです……!』


 と、青ざめた顔ではらはらと涙を流す。


 その男爵は二十五歳とまだ若く、ヴィオラとは九つしか離れていない。前妻との間に子どももいないし、人柄も悪くないと聞く。

 それを説明しようと口を開きかけたが、遮ったのはダレルだった。


『リーリア、これは我が家の問題だ。他家の君には口を出さないでほしい。君がヴィオラを目障りに思ってるだなんて、俺はそんなこと信じてはいないが……』


 言葉とは裏腹に疑うような目を向けられて、リーリアは口を噤んだ。


 確かに、ヴィオラに結婚相手を見つけようとしたのはリーリア自身の平穏のためでもあった。

 けれどそれだけが理由ではなく、ダレルが父親から引き継いだ責務を果たすことができると、そう思ったから動いたのだ。

 リーリアはまもなく、ダレルに嫁いで伯爵家の人間となる。夫の責務となれば、妻も無関係ではないはずだ。


 けれど、ダレルにとってリーリアはあくまでも他家の人間なのだと思い知らされただけだった。

 そこまで言われて、それ以上動く気にはなれなかった。


 その後、ダレルはヴィオラの結婚相手を探していると口では言うものの、ヴィオラの意志に反する相手に嫁がせることはしたくないという考えで、いっこうに進んではいないようだった。


『ヴィオラを幸せにするのは、俺の役目なんだ』


 それがここ半年ほどのダレルの口癖で、ダレルはそんな自分に酔っているように、リーリアには見えた。


「彼女の方もいったい何を考えているのやら。まさかこのまま伯爵家に居座り続けるつもりじゃないだろうね」

「そうでないことを祈っているけれど……」


 ヴィオラが伯爵家に居たいと望む限り、ダレルはそれを許すだろう。そんな予感がしている。

 伯爵家に嫁いだ後もヴィオラがいる。

 それを想像すると、リーリアの気持ちは重たく沈んだ。


「リーリア」


 顔を上げると、心配そうにユージンが見つめていた。


「辛いなら婚約を解消してもいいんだよ? それで我が家が困ることなんて、何もないんだから」

「でも……」

「リーリアならもっといい相手がすぐに見つかるさ。なんなら、ずっとこの家にいたっていいんだよ、僕の可愛い妹、リーリア。本音を言うと、僕としてはその方が嬉しいんだけどな」

「お兄様……」


 柔らかな微笑みに、それがユージンの本心だと分かる。

 思わず涙が滲みそうになり、誤魔化すように視線を逸らした。


「お兄様はわたくしを甘やかしすぎだと思うわ。それではわたくしが駄目になってしまいます」

「ははっ、相変わらずリーリアは真面目だなぁ」

「でも……ありがとう。おかげでもう少しだけ頑張れそう」

「そっか。でも無理はしないで。僕にできることがあればいつでも頼って」


 ありがとうともう一度呟いて、リーリアは目尻をそっと指で拭う。


「……でしたらお兄様、もしものときには、お願いしたいことがあるの――」

 








 公爵家で夜会が開かれる三日前。

 ダレルを訪ねて行った伯爵邸でリーリアを出迎えたのはヴィオラだった。


「ごめんなさい、お兄様は急な用事で出かけてしまって、すぐには戻れないそうなんです。代わりにわたしが用件をお伺いしますわ」


 応接室のソファにゆったりと腰掛けるヴィオラは、まるでこの屋敷の女主人のようだ。


「……そうですか。ではこれをダレル様にお渡し下さい」


 リーリアが差し出したのは公爵家の夜会の招待状。伯父に無理を言ってもらってきたものだった。


「まあ、嬉しい!」

「それと、ダレル様に伝言をお願い致します。三日後の夜会、必ずわたくしをエスコートして下さい、と」

「ええ、ええ、必ず伝えますわ」


 上機嫌で招待状の封を破るヴィオラを見つめ、リーリアは背筋を伸ばした。


「ヴィオラさん」


 硬い声音に何かを感じ取ったらしく、ヴィオラは訝しむように首を傾げた。


「ヴィオラさんはそろそろ、ご自分の将来をしっかりとお考えになった方がいいのではないでしょうか」

「あら、リーリア様にご心配頂かなくてもちゃんと考えてますけど。……何を仰いたいんですか?」

「ダレル様はあなたの本当のお兄様ではありません。……ダレル様をお兄様と呼ぶのを、やめて頂きたいのです」


 ヴィオラは目を瞬き、それからゆっくりと口角を上げた。


「本当に、いいんですか?」

「え……?」


 予想外の反応に、リーリアは小さく息をのむ。


「お兄様と呼ぶことで、あるいは妹と呼ぶことで封じていられるものがあると、そうは思われませんか?」


 ヴィオラの瞳が挑戦的にきらめく。

 その視線をリーリアは、真っ向から受け止めた。

 

「……そう。それがあなたのお考えなのね」


 ヴィオラはそれには答えず、ただ笑みを深くした。






 リーリアが伯爵邸を辞してまもなく、ダレルは屋敷に戻ってきた。

 無人の応接室を見渡してから、ヴィオラに目を向ける。


「リーリアは帰ってしまったのか? すぐに戻るから待っていてほしいと伝えてくれたんだろう?」

「ええ、もちろんよ。だけど……」


 ヴィオラは眉尻を下げる。


「リーリア様、約束通りに来たのに待たせるなんて無礼だと、怒って帰ってしまったの。お引止めできなくてごめんなさい……」

「いや、いいよ。ヴィオラのせいじゃない。リーリアはどうも、ヴィオラに対して当たりが強いみたいだな……。それで、リーリアの用件は何だったんだ?」

「夜会の招待状をお持ち下さったの。それと……今度の夜会、お兄様のエスコートは不要になったと……」

「リーリアがそんなことを?」


 ダレルは小さく眉を寄せた。

 わずかな違和感。

 婚約を結んで以来、リーリアは夜会に出る際には必ずダレルにエスコートを頼んできた。三日前になって、しかも公爵家が主催する大事な夜会でエスコートを不要とするなど、リーリアらしくないように思えた。


「もしかしたら……」


 ヴィオラの声に、ダレルの思考は中断する。


「前に、お兄様が夜会のエスコートを直前でお断りしたことがあったでしょう? その仕返しのつもりなんじゃないかしら……」

「あれは、ヴィオラが具合を悪くして一人にしておけなかったからじゃないか。それを恨みに思うなんて、なんて心の狭い女なんだ」

「リーリア様はお兄様のことが好きだから、仲の良いわたしに嫉妬してるのよ……」

「嫉妬、か……」


 いつだって冷静でプライドが高く、心の内を見せないリーリアの表情が、ヴィオラを前にするとほんの少し強張ることに、ダレルは前々から気付いていた。

 それが嫉妬ゆえだと思うと、ダレルの口元は歪んだ愉悦に弛みそうになる。


「リーリア様はわたしを疎ましく思ってらっしゃるわ。今日だって、お兄様と呼ぶのをやめろと、すごく怖い顔で仰って……。一刻も早くわたしをこの家から追い出したいんだわ……!」

「なんだって」


 ぐす、と涙ぐむヴィオラに、ダレルは眉を吊り上げる。


「わたし、やっぱりお邪魔ですか? お兄様……いいえ、ダレル」


 懐かしい呼び方に、ダレルの思考の奥がくらりと揺れた。

 伯爵家に引き取られてしばらくの間、ダレルを名前で呼んでいたヴィオラ。

 それを「お兄様」と呼ぶよう、厳しく改めさせたのはダレルの母だった。


 気持ちを落ち着かせようと、唇を舐めて湿らせる。


「……ヴィオラが邪魔だなんて、そんなことあるわけないだろう。心配しなくても、ヴィオラのことは俺が守るよ。伯爵家の当主はこの俺だ。侯爵家の娘だからといってリーリアの好きにはさせない。ヴィオラを幸せにするのは俺の役目なんだから」

「本当に……?」


 ヴィオラが潤んだ瞳でダレルを見上げ、囁いた。


「だったらわたし、ずっとお兄様の……ダレルのそばにいたい……」

「ヴィオラ……」


 ごくりと喉が鳴る。


『あなたがヴィオラを大切にするのは構いません。ただし、あくまで妹として。決してそれを忘れてはなりませんよ』


 厳しい顔でそう繰り返していた母の声が、脳裏に甦る。


「ヴィオラ、君は俺にとって妹のようなもので……」

「でも妹ではないわ。妹でなければ、ダレルに愛してはもらえませんか……?」


 熱をはらんだ瞳が、甘い吐息が、ダレルの理性を溶かしていく。


「ヴィオラ、俺は……」


 低く呻き、ダレルは震える手をヴィオラの唇にのばした。









 夜会の支度を整えたリーリアは、掛け時計に目をやった。こうやって時間を確認するのはもう何度目だろうか。

 約束の時刻はとうに過ぎ、夜会の開始が迫っている。そろそろ侯爵邸を出なければ間に合わない。


 深く溜息をついたとき、ノックの音に続いてユージンが姿を現した。

 盛装に身を包んだユージンは、リーリアですら気を抜くと見惚れてしまいそうなほどに麗しい。


「ダレル殿から連絡は?」


 リーリアは黙って首を振る。

 そうか、と呟いてから、ユージンはリーリアの前に跪き、片手を差し出した。


「それでは僭越ながら、このユージンにあなたをエスコートする栄誉を与えては頂けませんか、お姫様?」


 おどけた調子に、沈んでいたリーリアも思わず小さな笑みをもらした。

 ほっとして、リーリアはユージンの大きな手に自身の手を重ねる。


「……いつもありがとう、お兄様」


 ダレルから直前でエスコートをキャンセルされるたび、ユージンがこうして手を差し伸べてくれた。それにどれほど救われたことか。ユージンに婚約者がいなかったからできたことだ。

 立ち上がったユージンに手を引かれ、引き寄せられる。


「どういたしまして。こちらこそ役得というものだよ。こんなにも美しいリーリアをエスコートできるんだからね」

「ふふ、お世辞でも嬉しいわ」

「お世辞なんかじゃないさ。今日のリーリアは一段と美しい。誰にも見せたくないくらいに」


 囁くように言われて振り仰げば、すぐ近くにユージンの整った微笑があった。リーリアは頬を赤くして目を逸らす。


「……お兄様はわたくしに甘すぎるわ」

「ははっ、それは否定できないな。だけど、僕が甘いのはリーリアにだけだからね。覚えておいて」


 ユージンの甘やかな笑顔をなぜか直視することができず、リーリアは顔を背けたまま小さく頷いた。






 そうしてユージンと共に参加した公爵家での夜会。

 事件は、夜会開始後まもなく、リーリアとユージンが連れ立って挨拶回りをしているときに起きた。


「リーリア」


 咎めるような声に振り返ると、ダレルが表情に不機嫌さを滲ませて立っていた。

 その腕には、可愛らしく着飾ったヴィオラがしがみついている。


「なぜ婚約者の俺ではなく、他の男にエスコートさせているんだ」


 突然そんなことを言われ、リーリアは目を瞬く。


「なぜって……仰っている意味がわかりませんわ」


 ダレルがエスコートをすっぽかしたから、仕方なくユージンに頼んだのではないか。

 本気で困惑していると、ユージンがリーリアを庇うように前へ出た。


「何か行き違いがあるようだけど、ここでは他の皆さまのご迷惑になる。場所を変えよう」


 ユージンはそう言うと、リーリアの手を引いて歩き出す。

 ダレルはユージンを睨みつけたが、ヴィオラと共に渋々あとに続いた。


 ユージンは迷いのない足取りで公爵邸の廊下を進み、応接室の一つに皆を案内した。

 公爵家の使用人にお茶の用意を言いつけ、応接セットに座るよう皆に促す。

 リーリアとユージン、ダレルとヴィオラがそれぞれ隣り合い、二組の男女は向かい合って座った。


「それで、さっきの話の続きだけど」


 口火を切ったのはユージンだった。


「約束の時間を過ぎてもダレル殿はリーリアを迎えに現れなかった。何の連絡もなく。それで僕がエスコートの代役を務めていたわけだけど」


 リーリアも隣で頷く。


「エスコートをすっぽかしたダレル殿がリーリアを責めるというのはいったいどういう了見なのか、僕にも理解できるようにご説明願えるかな?」


 ユージンの口調は穏やかだが、ダレルを見る目は凍りそうなほどに冷ややかだ。

 ダレルは怯んだ様子で身を引き、ユージンの目から逃れるようにリーリアに不機嫌な顔を向けた。


「俺がすっぽかしたというのはどういう意味だ。三日前、俺のエスコートは不要だと、君が言ったんだろう!」

「わたくしはそのようなことは申しておりません。反対に、必ずエスコートをお願いしたいと、そうお伝えしたはずですが」


 リーリアが冷ややかな視線を返すと、ダレルはリーリアを睨み付けて声を荒げた。


「なんだと、嘘をつくな!」


 リーリアに掴みかからんばかりのダレルを制したのは、またもやユージンだった。


「落ち着きなさい、ダレル殿。君はその話を、リーリアから直接聞いたのかな?」

「え? いや、それは……」


 途端にダレルは声をしぼませ、隣に座るヴィオラを見やった。ヴィオラが小さく身を震わせる。


「そんな……リーリア様は確かに……」

「だが……」

「お願い、わたしを信じて、ダレル!」


 ヴィオラが瞳を潤ませ、胸の前で手を組んでダレルを見つめた。

 ダレルはそんなヴィオラとリーリアとの間で、落ちつきなく視線を彷徨わせる。

 

「もう、けっこうですわ」


 リーリアが硬い声音で口を挟んだ。


「わたくしかヴィオラさん、どちらが嘘をついているかなど、どうでもいいことです。ダレル様はわたくしを信じなかった。それが全てですから」

「待て、リーリア、どうでもいいって……」

「ダレル様」


 薄い笑みを貼り付け、リーリアはダレルの言葉を遮った。


「わたくし、あなたに大切なお話がありますの。本当は後日お屋敷に伺うつもりでしたが、よい機会ですから今ここでお話しさせて頂きますわ」

「話って……」

「わたくしとダレル様との婚約を、破棄させて頂きます」


 リーリアが厳かに宣言する。

 ダレルは目を見開いて唖然とした。


「なっ……どうして!」

「十回。これが何の数字か分かりますか?」

「十回……?」


 全く見当がつかないのだろう。ダレルは首を捻っている。


「ダレル様がわたくしのエスコートを直前でキャンセルなさった回数ですわ。これが十回に及んだときには婚約を解消させて頂こうと、わたくし決めておりました。そして今日が、その記念すべき十回目でしたの」


 それほどの回数に及んでいるとは思っていなかったのだろう。ダレルの顔色は目に見えて悪くなった。


「ま、待ってくれ! これまで何度もキャンセルしたのは悪かったが、仕方なかったんだ。ヴィオラが体調を崩したから放っておけなくて。今日だって、連絡に行き違いがあっただけで……」

「理由はどうあれ、ダレル様がわたくしよりヴィオラさんを優先したことに変わりはありませんわ。今日のことにしても、婚約者のエスコートが不要だなんて、わたくしがそんなことを言うと、本気で思われましたの?」

「それは……」

「わたくしが伝言したのは三日前。確認を取る時間もあったはずです」


 言い返す言葉が見つからず、ダレルは口ごもる。

 ヴィオラからリーリアの伝言を聞いたとき、その内容に違和感を持ったのは確かで、それなのに「仕返しなのでは」というヴィオラの言葉を鵜呑みにしたのはダレル自身だった。


 誇り高いリーリアが、そんなつまらない意趣返しなどするはずがないのに。

 だとしたら、嘘をついたのはヴィオラだったということになる。

 これまでのヴィオラの体調不良もどこまで本当だったのか、疑わしく思えてきた。


「だ、だが、その程度のことで一方的に婚約破棄だなんて……」

「その程度のこと、ねぇ……」


 ユージンが書類の束をダレルの前に広げた。


「これほど頻繁にエスコートをキャンセルすること自体、ありえないと思うけど、それだけじゃないよね? 君たちが二人きりでデートしたり、仲睦まじく夜会に出席していたことは調べがついてる。これはその報告書。ダレル殿は結婚前から堂々と愛人を囲っていると、社交界で噂になっているのをご存じないのかな?」


 ダレルは唇を噛み、うなだれる。


「……すまない、リーリア。俺が愚かだったんだ。ヴィオラに……この悪女に騙されていた」


 声を上げたのはヴィオラだった。


「ひどいわダレル! わたしを愛してるって言ったじゃない!」


 縋りつこうとしたヴィオラの手を、ダレルは乱暴に振り払った。


「触るな、この悪女め! お前がそんな性悪だと知っていたら――」

「へぇ。やっぱり君たちはそういう関係だったわけだ」


 失言に気づいたダレルが青褪める。


「婚約を破棄する理由としては十分だよね。ちなみに僕はこの件について、侯爵家当主である父から全権を委任されてる。僕の言葉は侯爵家当主の言葉だと思ってくれ。リーリアとダレル殿の婚約は今このときをもって破棄。正式な書類は後日届けさせる。ああ、そうだ、婚約を条件として我が侯爵家から伯爵家に融資した金は直ちにお返し願うよ。そういう契約だからね」


 冷酷に言い放たれた言葉に、ダレルは声にならない悲鳴を上げた。


「ま、待って下さい! そんなことを言われたら我が伯爵家は……」

「立ちゆかなくなるって? それが何? ああ、それから、慰謝料についても後日請求させて頂くからそのつもりで」

「そ、そんな……」


 ダレルは、取り付く島もないユージンから、リーリアに矛先を変えた。

 立ち上がり、よろめきながらリーリアににじり寄る。

 ユージンがすぐさまリーリアの前に立ち、ダレルを冷ややかに睨み付けたが、ダレルの虚ろな目はリーリアしか映していないようだった。


「リーリア……本当に違うんだ、ヴィオラは……。俺はちゃんと君を妻に迎えるつもりで……。この女は今すぐに伯爵家から追い出す。だから機嫌を直してくれないか。……だってリーリア、君は俺のことが好きだろう……?」


 薄ら笑いを浮かべて手を伸ばしてくるダレルに、リーリアは嫌悪のまなざしで応えた。


「恋愛感情という意味で仰っているのでしたら、『否』とお答え致しますわ。あなたに恋したことなどありません。良き婚約者、良き妻になりたいとは思っておりましたが……全て無駄だったようです。あなたはどうぞ、ヴィオラさんとお幸せに。ヴィオラさんを幸せにするのが、あなたの役目なのでしょう?」


 ダレルの顔が絶望に歪む。

 その場に崩れ落ちて動かなくなったダレルと、座り込んで泣き喚くヴィオラにはもう目を向けず、リーリアはユージンと連れ立って部屋をあとにした。






 夜会の終了を待たずして、リーリアの姿は帰宅の途につく馬車の中にあった。

 隣にはユージンが付き添っている。少々強引にリーリアを帰らせたのはユージンだった。


「大丈夫。最低限の挨拶は済ませたし、父上たちには軽く説明しておいたから」

「ありがとう、お兄様……」


 ユージンの気遣いに、リーリアは素直に甘えることにした。

 ダレルとヴィオラを前に気丈にふるまっていたリーリアだが、何事もなかったような顔で夜会への参加を続けるには、さすがに気力を消耗しすぎていた。


「今日はゆっくり休んで。これからのことは追々考えればいいからね」

「これからのこと……そうね、お父様にお願いして、新しい婚約相手を探して頂かないと……」

「リーリア、前にも言ったけど、ずっとうちにいてもいいんだよ?」


 その言葉に甘えたくなる気持ちを押し込め、リーリアは小さく首を振った。 


「そういうわけにはいかないわ。それでは彼女と同じになってしまう。お兄様にも、お兄様の奥様になる方にもご迷惑になる……」


 言いながら感じた小さな胸の痛みに、リーリアは気づかないふりをする。


「……僕はリーリアの他に妻なんて娶らない、だからそばにいてほしい……と言ったら?」


 え、と隣に座るユージンを見上げ、リーリアは目を瞠った。

 ユージンが真剣な表情でリーリアを見つめていた。


「お兄様、何を――」

「お兄様と呼ばないで」


 リーリアは息をのむ。


「ユージンと呼んでほしい、昔のように。僕は君の従兄、君の婚約を機に公爵家から養子に入って以来、自分の気持ちを封じてきた。でももう、これ以上君の兄でいるのは……苦しい」


 切なく秀眉を寄せ、ユージンはリーリアの髪を一房掬い上げた。


「君をずっと愛していた。妻として、僕のそばにいてくれないか、リーリア。義父上達から求婚の許可は頂いている。どうか頷いて。今すぐでなくていいから……」


 息も忘れて見つめる前で、ユージンが祈りを捧げるようにリーリアの髪にキスを落とした。

 触覚などないはずの髪から全身に甘い痺れが広がっていく。


「……ユージン」


 ようやく紡いだ声は掠れ、けれど確かにそれは封じていたものを解き放つ鍵だと知った。


「ユージン、わたくしも……」


 泣き出しそうな顔で微笑むユージンに手をのばしながら、彼女の言葉にもたった一つだけ真実があったのだと、リーリアは頭の片隅で思ったのだった。

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