九十七編
聞いた話。
人とそうでないものは相容れることはできない。
彼らは死からの生に執着しているし、私達は生からの死を恐れているから。
重い雨つぶが降りしきる暗い夜道。街灯の光りは斜めに落ちる雨粒を白く照らし、風の強さを物語る。
彼女は強い雨の中、傘をさしながら早歩きで進む。横を二台の車が水を跳ねながら進んだ。飛び跳ねた泥水が靴にかかり彼女は苛立った。ささっと家に帰ってシャワーを浴びようと先を急ぐ。
住宅街の十字路を曲がり、進む。前方の長い道に背の高い男が傘もささず、道路の中心を進んでいる。全身は黒く、どこかのっぺりとしていた。
「なんか、やだな……」
のっそりとしていて、ただぶらついているようなそんな雰囲気。迂回して別の道から帰ろうかと悩むが、その道を行けば家はすぐそこで、わざわざ遠回りするのは馬鹿らしく思えた。自意識過剰、そんな言葉が浮かぶ。
道の端っこを進めば大丈夫だろう。
そう思い、進む。目を合わせず、視線を斜め下に合わせて歩く。
男との距離が数メートルというところで、男はばしゃりと何かを落とした。男は落としたものに気付いていないのか、ふらふらと前に進んでいる。
近づき落としたものを見る。大切そうなものなら声を掛けようと思った。
「あ、れ?」
泥の塊だった。黒く、枯れた根っこのようなものが混じった泥。
なんだろうこれは。
彼女が呆然とそこに立っていると、男はくるりと向きを変えた。先ほどのふらつくような足取りとは打って変わって、怒気を孕ませたような強い歩き方。
途中、男の姿が街灯の光りに映し出される。
「…………え?」
男には顔がなかった。それどころか形らしいものがなく、全てが泥でできていた。
泥人形。
それも動く。
数秒固まっていた彼女の頭にも、ことの異様さが巡ってくる。それは小さな戦慄きに変わり、大きな悲鳴に変わった。
「きゃああああああああああああ!」
腰の抜けた足取りで彼女は逃げる。後ろを窺いながら、傘など放り投げて逃げる。一瞬、また男が街灯に照らされる。ムンクの叫びのように口をぽっかりと開かせて、こちらに向かって走っている。走りながらも体は崩れ落ち、口はそれに対して無声で悲痛な叫びを上げる。
落とした泥の塊には目もくれず男は彼女の方向に走った。距離がゼロに近づく。男が手を伸ばし、彼女の悲鳴がより一層濃くなった。
しかし、悲鳴は雨にかき消えて誰にも届かない。目の前の黒い手から助けてくれる人はいない。
彼女が諦めかけた瞬間、男の体が完全に崩れ落ちた。ぐしゃりと音を立てて地面に零れる。
ただの泥に変わった。
「な、なんなのよお……っ!」
雨の日はその時のことを思い出すと彼女はいった。