九十二編
聞いた話。
あなたは自分が住んでいる家、部屋の前の持ち主、前そこに住んでいた人がどんな人でどんな人生を送っていたか知っていますか?
破格の安さから、そういうことはある程度、覚悟していたつもりだった。彼は家路を歩きながら溜息をつく。
部屋にいると毎晩、誰かが訪ねてくる。戸を叩き、インターホンを押す。しかし、ドアを開けても、覗き穴を見てもその犯人は姿を表さない。もはやそういうものだとしか思えなかった。
幽霊。
超常のもの。
白熱灯に照らされたアパートの廊下を進む。
ふと自分の家の灯りがついてることに気がつく。すりガラスから漏れる白い光り。
「電気消した……よな」
確かに消した。
では誰がいるのだろう。
彼はそっと扉に近寄り、ドアノブを握った。出た後に確認したのと同じように鍵が掛かっている。新聞紙が刺さったポストの入り口から自分の玄関が見える。知らない靴が雑に脱ぎ捨てられていた。扉の向こう側から複数の笑い声と生活音。
「幽霊の次は何だ……?」
そう呟きながら彼はポケットの中から鍵を取り出し、差し込む。ドアノブを開き、大きな声を出して威嚇した。
「オイっ! だれ……だ?」
しかし、部屋は真っ黒だった。しんと静まり返っていて、当然灯りなど点いていない。
あったはずの靴もなく、ポストから容易に見えたはずの玄関はアパートの廊下の光りによって、やっと見えるほど暗く沈んでいた。
生ぬるい風が頬を撫でる。
喩えようのない違和感に彼は扉を閉め、元来た道を走った。
後ろから複数の笑い声と生活音が聞こえたような気がした。




