六十八編
私の話。
一般的なことなのかもしれないが、私はポータブルオーディオを聞きながらなら、どんなにオドロオドロしい場所にいても恐怖をほとんど感じない。
思うに何も音がしないということが恐怖を増幅させているのだ。否が応なしに“それらの声”を意識せざるを得ないから。
たまに夜、夢遊病患者のように外をうろつきたい気持ちになる。そんな日は気がつけば外に出ている。
寒い夜だった。空気は凍ったように静かで、延々続いているかのように見える住宅街の細い道は、規則的に置かれた街灯が鎌首をもたげながら、ただ白く道を照らしている。
街灯の光はその一箇所を明るく染めているだけで、私にはそれが逆に闇を濃くしているように思えた。
アイポッドで音楽を聞きながら私は歩を進める。途中、家と家の間に人が一人やっと通れるだろうという道を見つけた。緩やかなカーブを描いているが道は綺麗に舗装されている。
興味本位から私はそこに入った。
少しひらけた場所には事務所のような建物があった。表面はグレーで二階建て。
それは明らかに長い間使われていなかった。建物の周りの元駐車場らしき敷地にはよく分からない草木やツルが所狭しと生えている。
そのすりガラスの窓にそれは写っていた。事務所の出入口のような引き戸のガラス。
肌は青白く、ワンピースのような白い服を着ていて、髪は闇よりも濃い黒。目と口は黒く染まり、後ろの暗闇を映し出しているように見えた。
それを前にしても私は怖くなかった。内心、驚きはしたが音楽のおかげでどこか俯瞰した位置から見ているような、あるいは夢の中にいるような感覚だった。
「できそこない」
だから私は人の形なりきれていないような、二次元的な姿をしているそれにそう言った。それは怒ったのかすりガラスに顔を押し付けて、睨みつけるように私を見た。
少し恐怖が増した。二次元的に見えた彼女はガラスに顔を押し付けることによってとても立体的に見えた。だが音楽を聴いている私には大したことのないものだった。私が帰ろうとするとそれは口を大きく動かして早口で何かいう。
「ん?」
私は片耳だけイヤフォンを外してそれを聞いた。
殺すぞ、と。
真後ろで、耳元で。
囁く声が聞こえた。
低く呪うような女の声で。
直ぐさに振り向くが後ろには誰も立っていなかった。前に視線を戻しても誰もいなかった。
私はイヤフォンを耳につけると、プレイヤーのヴォリームを上げながら足早にそこを離れた。
三月の寒い夜だというのに汗が止まらなかった。