六十二編
聞いた話。
何故、見えるものには見えて、見えないものには見えないのだろうか。
その違いは何だろう。
彼はある日、奇妙なものを見た。それは必ず床が軋むような音を立てて現れた。
襖の片方、柱の影、ちょっとした曲がり角に誰かの指が見えた。覗き込む一歩手前といった感じの指。
それは彼が近づくと引っ込んでしまい、どこかに消える。追いかけても微かな後ろ髪が捉えられるだけで、それは付かれず離れずの距離を保っていた。
彼はそれを父と母に尋ねた。
両親はそれを聞くと急に黙り、真剣な顔で彼に見えているものを聞き返した。
「何って、今もあそこの柱の影に指が見えてるよ」
鶏の骨のようなボロボロで痩せこけた指が柱にしがみついている。
母は泣き崩れ、父は直ぐに祖父母に連絡を入れた。やってきた祖父は両親と何かを話し、祖母は彼に何が起こっているのか説明した。
キシミと呼ばれるタチの悪いものが彼についていること。それは全ての姿を見せる時に命を持っていくこと。
その日の内に彼は古寺に連れて行かれた。古ぼけた狛犬が睨むような顔で彼を出迎えた。
そこで待っていたのは近所の顔役の男と白く濁った目をした老婆だった。老婆は明らかに盲目で、容量の得ない喋り方をした。
顔役の男が彼に優しく喋った。
「あのお婆さんが君を守るから君は日暮れまで、ずっと目を瞑っていればいい」
頭の禿げ上がった男はそういうと寺の鍵を開け、中にお菓子とペットボトルの水、それと鉢巻を置いて両親とともに去っていった。
彼は指示されるがままに鉢巻を目元に巻いて固い床の上に足を崩して座った。対面には老婆が座っていて、老婆はずっと独り言を続けている。
ボケた老人と日暮れまで一緒にいなくてはいけないのかと思うと、違った意味でぞっとした。
「あの、トイレの時はハチマキ外してもいいですか?」
「ええよう」
「…………ん、あれ?」
奇妙だった。老婆の独り言が“聞こえたまま”その了承する言葉が耳に届いたのだ。
不思議な気持ちでいると老婆はしわがれた声で笑った。
「ボクゥ、ばあちゃんはずっと独りで喋っとる。だからボクのお話しにも答えてあげらんねえんだわ。答えたとしたらそりゃ、ばあちゃんの声じゃあないよ」
そう言い切るとまた老婆は独り言を始めた。
その瞬間、彼はどこか楽観視していた気持ちが一気に冷たい何かに変わるのが分かった。急速に心細くなり、ブルブルと体が震える。
よくよく思い出してみると声も目の前からというよりも背中から聞こえた気がした。そしてその時、確かに床が軋むような音が聞こえた。
老婆は彼が何かに惑わされないように、騙されないように独り言を呟いてくれていた。
一体どれほどの時間が経ったのか分からなくなった頃、それは顕著に現れた。グルグルと唸るような獣の声が彼のすぐ側で聞こえた。
二匹の獣は値踏みするかのように床の上を歩く。カチカチと爪が床を叩く音。
生暖かい鼻息が頬を掠める度に彼は逃げ出したい衝動に駆られた。
毛むくじゃらで獣くさい化物が自分を殺そうと垂涎している姿が脳裏に浮かび上がった。老婆は相変わらず独り言。
不意に犬の遠吠えのようなものが耳元で大きく鳴った。すると同時に甲高い声で何かがキャアアっと悲鳴を上げながら離れていく。
どういうことだろうと思っていると鉢巻を何かが取った。彼は慌てて目を瞑ろうとしたが、やめた。
それは老婆だった。
「今、アイツのキャアキャアいう声がしたで、もうええよう」
辺りは獣の毛が落ちているだけで何もなかった。
彼の手を借りながら老婆は外に出ていった。
「ちゃあんと、頭下げてぇ、ありがとうっていうんだ。ボク」
彼はその言葉に慌ただしく頭を下げてありがとうございましたといった。
「俺じゃあねえよ、ボク」
しわがれた声で彼女は笑い、二匹の狛犬の像を愛でるように撫でた。
心なしか彼にはその像の表情が、最初に見た時よりも優しくなっているように思えた。




