五十七編
聞いた話。
彼女ははるか昔に還暦を迎えていて、その小さな顔にはシワが刻み込まれていた。
初めて彼女と会った人間はその容量の得ない話し方から、彼女に痴呆老人のようなイメージをいだくだろう。恥ずかしながら私も最初はそう思った。
しかしそうではない。彼女はその町にはなくてはならない賢人であり、みんなから慕われていた。
そんな彼女から聞いた話。
彼女は神社のある場所の掃除を頼まれていた。昔からの決まりごとで彼女の家のものがそこを掃除することになっていた。
本殿から離れた古く小さな祭殿。大きな錠前を外し、二重につけられた扉を進むとその部屋はあった。閉め切られていて、ひんやりとした薄暗い部屋。
そこでは目に鉢巻をして掃除をしなくてはならなかった。つまり視界を遮りながらの掃除。
月一の掃除ながらも慣れたもので、彼女にはどこに何があるか手にとるように分かった。
冷たい床と壁、燭台や中心の大きな像。
そして風に紛れて聞こえる声。雑音のような奇妙な囁き。部屋を歩き回る何かにも。
その日は弟と共に掃除に当たった。弟はその日が初めてだった。
一応は説明を受け、見取り図を覚えたが、弟はやはりどこか怖がっていて、固く緊張していた。
地下に着くと無言で作業が始まる。謀られない為に言葉は最小限に抑えねばならなかった。
雑巾で隅々まで床を拭き、萎れた花を変える。そんな簡単な作業の中、それは起こった。
急にバタンという音が室内に響いた。風の流れに扉が閉まったことを彼女は悟った。
弟を呼ぼうと口を開いた。しかし、先に言葉を発したのは弟だった。
「わああ、背中に何か乗ったっ!」
「どうしたの!?」
「あっ、鉢巻が取られた!」
バタバタと弟と何かが格闘している音が部屋に響く。女は弟の元に駆けようとするが、混乱から位置が掴めない。
低く濁った声で「めをよこせ」という声が聞こえた。ぬるりとした声になりきらない声色。
彼女は弟の目を開こうとしている何かの姿が脳裏に浮かんだ。
このままでは弟の目は持っていかれてしまう。助けを呼ぼうにも扉は固く閉じられていて、本殿は遠かった。
だから彼女は。
「そん時に片っぽの、持ってかれちまった」
そういって着物姿の彼女は色の失われた目で笑った。既に年というのこともあって無事だった方の目も今は何も見えないのだという。
私はその時に何を見たんですか、と聞いたが彼女は笑うばかりで決して答えてくれなかった。