四十六編
聞いた話。
人は昔、海に得たいの知れない世界を感じ取った。
確かに夜の海は全てを飲み込んでしまいそうなほど不気味だ。そこに何らかの恐怖を感じ取ってもおかしくはない。
ある漁師は声を荒げて私にいった。
「夜はどの漁師も滅多なことじゃ漁はしない。したとしてもちゃんと“手順”を踏む。なんでか分かるか?」
ある小さな港町。そこでは夜に漁に出てはいけないという。
明かりを灯し、機器をしっかりと見ておけば危険な目には遭わないと若い者は思うのだが、年長の者達はそれを良しとはしない。
もしも夜に出ることになっても、しっかりと海の神様に挨拶してから漁をするのが決まりだった。
新入り漁師のある男は祟りだとか海の決まりごとなんてものをこれっぽっちも信じていなかった。それに従うのも、船に乗る前に酒を飲むのもタダ酒が飲めるから、という理由でしかない。
彼はある日、酒を飲まずに漁に出てみようと思った。年配の男がみんな飲んだか、と聞くのを飲んだと答える。安っぽい船のお守りは遠の昔に取り外してあった。
海に出ても何も変化はなかった。嵐でも来るのだろうかと思っていたが海は静かだった。
「こんなもんだろう」
なんてこともない、結局は迷信だったのだ。
わざわざ一人で船に乗ることもなかったな、と彼は思いながら漁を始めた。明かりを灯し、網をかける。複数でやるならばなんてこともない作業も一人でやるとなると重労働だ。
彼は船の淵に座って煙草をふかした。
「ん?」
そこで奇妙なことに気がつく。
先程まで側にいた仲間の船が見えなくなっていた。灯台の光も届いていない。
船には大きなライトがついていて夜でも十二分に明るい。故に仲間の船がどこにあるのかは計器で確認しなくても分かった。しかし、それが見えない。つい先ほどまで見えたはずのそれがない。
奇妙な焦りに口の中が粘つく。
煙草の火をもみ消して、男は計器を確認した。計器に反応はなかった。無線で連絡を試みるが無しの礫だった。
何がどうなっているんだ、そんな言葉が漏れる。
「うわっ!」
どんと何かが船に当たり、大きく船体が揺れた。彼は甲板に顔を出し、辺りを覗く。
奇妙な光景だった。古めかしい木製の屋形船が自分の船に船体をぶつけてきたのだ。
ひと気はなく、海の底に似たぼんやりとした暗闇がその船にはあった。
不意にどこかでばしゃりと何かが水に落ちる音。そちらを窺うと同じような屋形船がゆっくりと、しかし確かな速度でこちらに向かってきていた。
ドンと船体にぶつかる。そしてばしゃんという音。
気がつけば自分の船は奇妙な屋形船の群れに囲まれていた。船は何故か動かず、ライトの無機質な明かりだけが彼の頼みの綱だった。船の明かりを絶やした瞬間、屋形船の中から闇が這い出してくるような奇妙な恐怖があった。
そうこうしている間にも無人の船がどんどんその一帯に溜まり続けていく。すでに灯りの届かない向こう側にまでその連なりはあった。
流石に気のせいだといっていられなくなった彼はタバコを線香がわりに、念仏を唱えた。神にもすがる気持ちで何度も念仏を唱える。
船の真正面の屋形船が急に沈没し始めた。ぼこぼこと音を立てながらゆっくりと暗い海に飲まれていく。
彼は今しかない思い、船のエンジンをかけた。緩やかにエンジンはかかり、船は進む。船の一帯からなんとか逃れた彼は後ろをちらりと窺った。
水の中に無数の青白い何かが笑ってこちらを見ているのがみえた。
「そいつが見つかったのは明け方よ。んで、あいつ何があったかずっと黙ってたんだがよ、プロペラに女の髪がごっそり絡んでりゃ誰でも気づくわな」
漁師はそういった。