百十八編
聞いた話。
自分の身に振りかかることが全てではない。
幸運かどうかは分からないが、脇役として名を連ねることもあると聞く。
山道を軽自動車でゆるゆると走っていた。両脇は背の高い森で、夜のせいか暗かった。
ぽっかりと浮かび上がる月を眺めつつ彼女は道を進む。特に急いでいるわけでもなく、気楽な気持ちだった。
カーステレオから流れる歌謡曲を口ずさみながら走っていると、急に人が道路に飛び出した。
「危ないっ!」
ブレキーを強く踏む。
ジーンズ姿の男は車のライトを眩しそうにして目を細めた。近寄り、身振り手振りで何かを叫ぶ。
「…………っ! …………っ!?」
「え、何?」
彼女はカーステレオのボリュームを落とし、泥だらけの服装に目を這わせた。何かを焦っているような酷く不安げな表情。近くで事故でもあったのだろうかと彼女は不安になったが、同時に男自体にも恐怖を感じた。
こんな夜道に、泥だらけの男。非現実的な匂い。
「お化けじゃないよね……」
口からそんな声が漏れた。
男は痺れを切らしたのか、一瞬遠い目で固まり、次に大きな声を上げ、森の中へと逃げていった。
頭がヤバイ人だったのだろうか。
不安な気持ちを覚えつつ、男の消えた方向を窺っていると、一瞬月が消えたのを感じた。視線をそちらに向ける。
何か大きなモノが目の前を横切っていた。
全身が草木に覆われた不思議な生き物だった。森の緑に手足が生えたような、そんな印象。
それは彼女に一瞥もくれることなく、音も立てずにスルスルと男の消えた森へと歩いていく。
すぐにその姿は周りの木々と紛れて見えなくなった。
「あたし、あそこであの人を助けるべきだったのかな」
どこか持て余し気味に彼女はいった。