百十七編
聞いた話。
老人は年下の私に丁寧な口調でいった。
「怖い話……ですか?」
「不思議な話でも構いません」
間髪入れずに私がそういう。すると老人は二回ほど頷いて、私の顔をじっとみた。
「不思議な話……なのかはよく分かりませんが、私が不思議に思った話なら一つ」
料亭の主人は信心深い男だった。高い酒をお神酒に使い、毎日神棚を祈ることを忘れなかった。
口癖は「店が流行っているのは神様のおかげ」だった。
下働きの男はそれを聞いて、主人なりの謙遜なのだと思った。主人は近辺では知れた腕前だったし、店の評判も元々悪くなかった。
しかし主人は自分などはまだヒヨっ子だといい、全て神様のおかげだと信じて疑わなかった。それは少し宗教めいていて、一年に二回ほど奇妙な儀式があった。
その日は“それ”以外の客を取らなかった。前日まで下ごしらえを欠かさず、朝っぱらから準備をし、客の来る数分前に料理を特別室に並べた。
「どんな客がくるのだろう……」
それほどまでに料理は豪奢で、料亭とはかくあるべしと言わんばかりの気の使いようだった。普通の客には出さないような皿や掛け軸が出された。
店の者も最低限の人数だけしかおらず、殆どが休まされ、何かあるまではひたすら待機を命じられた。
休憩室で休むも、この日だけは温厚な主人も神経質で、少しでも勝手が違えば怒鳴り散らし、全く休めなかった。
休憩室での話題といえばもっぱら「手順を間違っていないか」と「誰が客に来ているのか」ということだった。年長の男はただ一言「神様が来てるんだよ」と冗談めいた風にいう。
確かにやんごなきお方が来ているのだろうという認識は彼らの中にあった。
しばらくすると時計を睨んでいた主人が顔を出して、客の皿を下げろと若干ヒステリックに言った。
客は風呂に入っているらしく、その合間に次の支度をしろということだった。
料理は骨まで綺麗に食べられている。彼はたいらげたというよりも皿の上の料理がなくなった、そんな感覚を覚えた。
彼はそんな食べ方のする客とは一体どんな人なのだろうと思い、覗いてみたくなった。周りの人間は「親方に殺される。やめた方がいい」と首を振る。
ではどんな様子かだけでもと彼は、休憩室を出て薄暗い廊下を進んだ。止めようとする他のものを年長の男が「放っておけ」といった。
襖越しに室内の白っぽい光が届く。団体客なのは料理の数から分かっていた。
何やら談笑しているらしいが何を言っているのかは上手く聞き取れない。時折、席を立っているのか、大きな影が襖の障子に映り込む。
それは禍々しい姿をしていた。
全身がやけに細長い者もいれば、本当にこの小さな部屋にいるのだろうかと目を疑うような大きな体が影となって横切る。時折、鳥のような羽音も聞こえた。
人ではないことは確かだった。
男は青い顔して部屋に戻った。何を見たのかと聞く周りの言葉も一切頭に入らない。ただ年長の男だけがそれ見たことかと笑った。
次の日、小さな水晶の絡んだ石が部屋の真ん中にぽつりと置かれていた。
それを主人は後生大事そうに神棚に飾り、頭を下げていたという。
「本当に神様が来ていたのかもしれません」
どこか遠い目で彼は私にいった。