百十一編
聞いた話。
今日すれ違った人は死んでいるかもしれない。今日見た鳥はどこにも存在しないものかもしれない。
今日見たものは次の日には無くなっているかもしれない。
この世は不確かだ。
神代の狭間という場所がある。森に挟まれた暗い一本道で、昼だというのにその場所は暗かった。
奥には美しい泉がある。日の出が映り込む泉の景観は美しく、知る人ぞ知る秘境のような場所だった。
男はバイクでその道の前まで来た。目的は朝日の映る泉の写真を取るため。
日の出前だからか道は暗く、不確かだ。一応、舗装されてはいるが森が夜空を覆い隠しているせいで、酷く不安定な道に見えた。
バイクを走らせる。聞いていた以上に道は長く、続く森も長かった。ライトを照らしても先が見えない。真っ直ぐの道だと聞いていたというのに道は曲がりくねっていた。
何かがおかしい。
そんな気持ちでふと横の森を見た。
何かが、大きな何かが森の中をバイクと同じ速度で駆け抜けていた。
「わっ!」
悲鳴に反応してそれがこちらを向く。暗いのにその顔はよく見えた。
真っ黒の顔にギョロリとした目。自分を飲み込むことなんて簡単そうな大きな口と丈夫そうな白い歯。四つん這いの太い腕と足。
それが音も立てず森の中を進んでいる。男はスピードメータに視線を這わした。四十キロ。
そんな速度で森の中を走ることのできる生き物がいるだろうか。
「――――っ!!」
男は恐ろしくなってスピードを上げた。ぐんと上げると黒いそれも速度を上げて追ってきた。ちらりと先の道が明るい。男はしめたと思って更にスピードを上げた。出口は迫る。
横をおっかなびっくり盗み見ると、黒い何かはいつの間にか消えていた。
「……な、なんだったんだ」
出口に差し掛かった。
その瞬間、横から大木のような手が伸びた。草木をかき分け、闇よりも黒い手が彼に向う。
巨大な手は背中をかすめ、向かい側の草を引きちぎりながら闇に消えた。
男はそのまま出口から出たあとも走り続けた。しばらく走ってからあらん限りの声で叫んだ。
「ちょっと走っててさ、すぐに気がついたんだけどね。俺、入り口に出てたんだよ。真っ直ぐ走ってたはずなのに、気がつけば逆走してたんだ」
「へえ、面白いですね」
「それでね、明るい時にその道を見たんだ。そしたらね、その道、二、三百メールしかなかったんだ。真っ直ぐの道で、入り口から出口が見える位の距離だったんだよ。……有名な場所だっていうのに写真が少ない理由が少しわかった気がする」
夜には魔物が住んでいると彼は真顔でいった。