百三編
聞いた話。
恨みがあるから霊になるのか。生に執着しているから霊になるのか。
私には彼らは自分というものが生きていたということを知ってほしいが為に現れるように思う。自分のことを忘れてほしくないのだと。
街中の小さなトイレに美女の霊が出るのだと彼は聞いた。泣いている美しい女の霊。
見たという者に話しを聞くと誰もが口を揃えていった。
「うわべはいい」
カラオケの帰り、彼はそこへと足を運んだ。建物と建物の、店と店の間に作られた小さなトイレ。地元の人間ではないとまず分からないだろうという場所。
周りは人が溢れているというのに、その道に一歩踏み入れただけで喧騒は遠のき、夜らしい暗さが包んだ。
あまり清掃がされていないのかタイル張りのトイレは汚い。窓ガラスはなく、せいぜい入れても二人が限度だろうという幅の広さ。隣は女子便所。
とりあえず用を足した彼は手を洗おうと洗面台に移動して蛇口を捻る。曇り、黒いゴミのようなものがこびりついた鏡。
「んん?」
水の出が悪い。丁寧に手が洗いたいわけではなかったがそれに彼は固執した。
妙に冷たい水でジャブジャブと手を洗い、蛇口を固く閉める。水を手から払い落とし、顔を上げて鏡を見た。
血に濡れた白いワンピースを着た女がこちらを見て泣いていた。
「うう……ぐずっ」
振り向く。
いない。
鏡に目を戻す。
いる。
鏡にしかそれは写っていないようだった。女はグズグズとすすり泣くような声を上げて、目から黒い涙をドロドロと零した。頬が黒い線に汚れる。
すうっと女は手を動かして自分の青白いアゴを掴んだ。
そしてそのまま。
「おいやめろ! やめ、ああっ!」
ビリビリと、あるいはブチブチと音を立てながら己の顔の皮を剥いでいく。悲しそうな目はいつまでもこちらを見続け、黒い涙を流した。ボタボタと零れる顔の血が、その痛々しいまでの凄惨な姿が恐ろしくなった彼は鏡から視線を外した。逃げようと後ろを振り向く。
女がいた。
彼はのけぞるように洗面台にもたれかかった。
まだ顔を剥いでいる。顔の下から男の野太い笑い声。
「……ははははははははははっ!!」
「わああああああああ! わああああああああ!」
彼は叫んだ。
女じゃない。
これは女の皮を被った何か別のものだ。
しかし、それに気がついたところで何も変わらない。
皮の下から覗く血走った目と視線が交差した。
もう限界だった。転げ落ちるようにそこを出た。
「うわべだけは良かったよ」
彼は私にそういった。