怠惰な令嬢、悪役令嬢に転生したけどそういうのはどうでもいいです。
どうやら私は小説の世界、しかも悪役令嬢に転生してしまったらしい。
そう気付いたのは私が三歳のとき。家名も名前も国の名前も、まるで前世で読んだ小説と同じだったから。
そして、私はその小説の悪役令嬢だった。
そう、私には前世の記憶がある。
前世では、私は裕福な男爵家の令嬢だった。要するに、お金で爵位を買った男爵家の三代目当主の娘だった。
成り上がりだと見下されることもあったけれど、成り上がりなのは事実だ。馬鹿にされることもあり、そういうときは当然嫌な気持ちにはなるが、いじめられることはなかったので困ることもない。
ここまで聞けばこう思う人も多いだろう。私はそれを悔しく思い、努力して見返したのではないかと。
それは残念ながら外れだ。成り上がりは何をしたとしても成り上がり。私がいくら努力したところで馬鹿にされるのは変わらないし、成り上がりが高位貴族に嫁げる訳がない。
見返す手段なんてないのだ。
早々にそれに気付いた私がどうしたかというと、とても怠惰な生活を送ったのである。
最低限の常識とマナーだけ身に付け、だらだらと暮らした。
低位貴族も高位貴族も招待されるパーティーなんて滅多にない。実家は爵位こそ買ったものの野心のある方ではなかったので、特に私が何か頑張る必要もなかった。
家族は金銭面には厳しかったが、だらだらしていても怒られない。
そうして出来上がったのが、とっても怠惰な令嬢だった。
私は貴族が必ず通わなければならない貴族学院で、他の令嬢にぶつかられて階段から落ちたのが最後の記憶。
転生しているところを見るに、どうやら私は死んでしまったらしい。
お父様、お母様、先に死んでごめんなさい。
さて、怠惰を極めた私の唯一の趣味が、恋愛小説を読むことであった。
当時の流行は、玉の輿もの。低位貴族のヒロインと地位の高いヒーローが恋に落ち、悪役令嬢と呼ばれるヒーローの婚約者が嫉妬のあまりヒロインを虐め、暗殺未遂までやらかしたことで婚約破棄され、二人は結婚してめでたしめでたし。元婚約者は貴族殺害未遂で貴族籍を抜かれ、国外追放。
私も読んだが、それヒーローがまだ婚約中なのに浮気したのが悪いじゃんとそう思ってしまった。全く共感できなかったためつまらなくて、玉の輿ものは一冊しか読んでいない。
ところが!
私が転生したのはそのたった一冊の小説の、よりにもよって悪役令嬢。
このままでは私は国外追放されてしまう!!何とかしなければ……。
……そんなことを私が思う筈がない。
国外追放されたのは悪役令嬢がヒロインを虐め殺害を企てたからだ。
つまり、虐めず殺害も企てなければ何も問題ないのである。
そして、怠惰を極めた私が虐めるなんていうめんどくさいことをする筈がないではないか。
それに、この小説ではヒーローは第一王子。小説の中で私は王子妃になる予定だった。
しかし王子妃なんて、怠惰とは程遠い。そんな立場あり得ない。
きっと私の本性が分かれば私が王子の婚約者になることはないだろう。
という訳で、私はここが小説の世界であることを全く気にせず気ままに暮らすことにした。
⁑*⁑*⁑
「お前今日ダウエル公爵令嬢のお茶会だったんじゃないのか!?」
「いえ、元々お断りの返事を出しております」
「はぁ……。お前欠席ばかりするから病弱って言われてるんだぞ。本当は健康そのものなのにな!」
「病欠ではありませんので病弱は単なる噂です。家にご迷惑をおかけしておりますか?」
「別にお前が病弱であろうがなかろうが、その程度でうちが揺らぐことはないけれどな?お前はそれでいいのか。嫁にも行けなくなるぞ」
「構いません。私には兄様がおりますし」
「そういうことじゃないんだが……」
お父様は溜め息を吐いて頭を抱えた。
私の今の名前はオリヴィア・カールトン。カールトン公爵令嬢だ。
本当に最悪だ。何と私は高位貴族。教育三昧でだらだらした生活を送ることができないのである。救いは私が生まれつき優秀であること、前世の記憶によって実技に関しては基礎ができていること、カールトン公爵家が野心家ではないことだ。
しかし怠惰な性格というのは治らないものである。治そうとは思わなくはないのだが、治そうという努力をしようとも思えない。ここでも怠惰が邪魔をする。
「とにかく、これを見なさい」
ぽいっと封筒のようなものを投げ渡される。
……お父様、お行儀が悪いですよ?
宛名はお父様と私の連名。既に開かれている封筒をぱっと裏返し、私は盛大に顔を顰めた。
「王族から?何ですかこれ」
「招待状だ」
確かに仲に入っていたのは招待状だった。
「は、お茶会?」
「第一王子の婚約者を選ぶお茶会だ。高位貴族の令嬢が全員集められている。お前もな」
「嫌です、行きたくありません」
私はふるふると首を横に振った。
お茶会なんてごめんだ。それも王族と高位貴族の令嬢だけのお茶会だなんて。どう見ても王子の婚約者探しではないか。
令嬢のお相手が面倒だったし、――何より、他の令嬢と王子が先に婚約してくれれば私は何もせずとも王子の婚約者でなくなることができるのだから。
「お前はそうだろうよ。だが王族からの招待状だ。それに、今回行かなければどうなるか知らんぞ」
お父様が口角を下げて軽く私を睨む。
「無理です、行けません。当日私は寝込むので」
「熱がない限り出席は確定だ」
ふんっと鼻を鳴らし、お父様は私の手に招待状を残して書斎に入っていった。
手の中の招待状を見下ろし、私は苦々しく溜め息を吐いた。
「お嬢様、36.6℃でございます。ご準備を」
「いえそれは体温計がおかしくなっているのよ。別の体温計を持ってきて頂戴」
「屋敷にある体温計はこれが最後にございます。10本左右全て36.6℃でしたでしょう、お諦め下さい」
摩擦などのずるをして頑張って熱を上げようとしたのに、平熱ど真ん中。
侍女にベッドから引っ張り出されてドレスを着せられ化粧を施され髪をセットされた。げっそりしながら見た鏡の中には、気の強そうな美少女が座っている。
まだ小説の挿絵程の悪役顔ではないな、とぼんやり思う。
「お前のドレス姿を見たのはいつぶりだ?」
「一ヶ月ぶりです」
「嘘を言うな。お前が最後に社交に出たのは半年前じゃないか」
「覚えていらっしゃるのに問われたのですか?」
「嫌味に決まっているだろう……」
お父様は右手でこめかみを押さえて頭を振った。
「自分でも分かっていると思うが、お前には王族の妻は無理だ。絶対に婚約者を持ち帰って来るなよ」
「勿論ですわ、お父様。私がそんなヘマをするとお思い?いくらお父様でも見縊りすぎですわ」
「いいや、お前はやらかしかねん。外面だけはいいからな。上手く他の令嬢に紛れておくんだぞ」
「言われなくても分かっております」
お父様が疑わしそうに目を細めて私を見る。
自他共に認める怠惰令嬢である私だが、上手くやり過ごすのは得意なのだ。
「お話し中失礼致します。お嬢様、そろそろ」
「分かったわ。ご心配なさらず、お父様」
「はぁ……」
溜め息を吐いて私を見るお父様に鉄壁の微笑みで応え、私はでかでかと紋章が描かれた馬車で王城へ向かった。
うわ、イケメン。
第一王子殿下を見た私の感想はそれだった。
殿下を目にした瞬間、私を含めその場にいる全ての令嬢が見惚れ、慌ててカーテシーをした。
まだ11歳である彼は既に光り輝いており、そこにはさらにポテンシャルが秘められている。私?現在9歳ですが何か?
まるで人間とは思えないような天上の光を纏わせた王子が、令嬢達を見渡す。
「面を上げて。今日は私達のために集まってくれてありがとう。サンドフォード王国第一王子のルシフェル=サンドフォードだ」
そういえばそうだった。天使様だった。
因みに第一王子殿下のルシフェルというお名前、後に堕天使となることと、低位貴族のヒロインに堕ちることとを掛けているのだとマイナー雑誌の筆者インタビューにこそっと書かれていた。
「君達も分かっていると思うが、この茶会は私の婚約者を見定めるためのものだ。それをきちんと踏まえた上で、この茶会を楽しんで欲しい」
第一王子がすっと目を細め、牽制のような鋭い視線を令嬢達に向ける。数人の令嬢がびくりと肩を震わせた。彼女達は脱落だ。
「さあ、解散にしよう。皆好きな席に座ってくれ」
一番近くのテーブルに第一王子が座り、さっと令嬢が散らばる。
身分を気にせぬように円型のテーブルがセッティングされているが、これも試験の一つ。実は席が一つ足りない。
席に着くときのマナーとして、順は自由で特に爵位は関係ないが、もしも席が足りなければ爵位の高い者から座るというものがある。
王族主催だから数は正しいだろうと憶測で踏んで先に席に着いた侯爵令嬢と伯爵令嬢達は、残念ながら脱落だ。
王子妃の座を狙う公爵令嬢がまず王子のいるテーブルを選び、私はそこから近くも遠くもないテーブルを選んだ。そして近くにいる王城の使用人に声を掛ける。
「萼を一つここに」
「失礼致しました」
萼とは席の隠語。座る貴族を花に喩えているという訳だ。
使用人が席をセッティングするのを待って、私の友人達が同じテーブルに着いた。
この友人達とは、あまり会うことはないが文通で繋がっている。勿論私が欠席しているからだ。だが、たまに参加する社交は基本的には彼女達の家が主催のものだ。
「ご無沙汰しております、オリヴィア様」
友人達が口々に挨拶をしてくる。
「お久しぶりね。皆さんお変わりなく?」
「ええ。オリヴィア様もお変わりなさそうですわね。体調も問題なさそうで良かったですわ」
「ありがとう。父にこのお茶会には必ず参加するようにとずっと言われていたからかしら」
「そうかもしれませんわね」
くすくすと友人達が笑う。そのうち一人が、扇で口元を隠しながら小声で尋ねた。
「皆様は、名乗り出るのです?」
「私は名乗り出ないわ。王子妃なんて大変なこと、とんでもないもの」
私は同じく口元を隠して小声で返す。こら貴女達、まあそうよねみたいな顔で見るのはやめなさい。
「私もオリヴィア様と同じく」
「私もです」
「私もですわ、とんでもありません」
「私もあり得ないですわ」
「やはり皆様そうなのですね。私も名乗り出るつもりはありませんけれど」
類は友を呼ぶ。怠惰の塊である私の友人の性格は押して知るべしである。
ちらりと第一王子殿下を見遣ると、金髪を似合っていない縦ロールにしたご令嬢が必死で話しかけていた。その瞳には紛れもない好意が混じっている。彼女の方が私よりもよっぽど悪役っぽいではないか。
こっそりと見た筈だったのに、第一王子殿下と目が合う。ぱっと目を逸らすが、些細な視線にすら気付くとは恐ろしいことだ。
「今第一王子殿下がこちらのテーブルに目を向けていらしたわ。もしかして聞こえていたのかしら」
視線なんて向けていませんよというように友人達に言うと、皆がびくりと肩を震わせた。
「まさか!口元は隠しておりますのに」
「けれど殿下なら違うと言い切れないのがまた……」
既に超人認定されているらしい。
皆でこそこそと話していると、殿下が近づいてくるのが見えた。
「皆様静かに!殿下が」
「そうそうこの前貴族街に新しいお店ができましたでしょう?」
こそこそ話などなかったかのような顔をして一人がさらりと話を変える。
「香水のお店だったかしら」
「皆様行ったことはありまして?」
「私はありますわ」
私を含め殆どの令嬢が首を振る。
貴族が買い物をするときは、家に商人を呼ぶ。外で売られているものを買いたいときは、使用人を遣わせる。自らが外に出て買い物をすることは滅多になく、特に高位貴族ならば顕著だ。
そんな中で令嬢自ら買い物に出るのは、令嬢が退屈して外に出たいと思ったときだけであり、新しくできた店ならば行ったことのある令嬢の方が圧倒的に少ない。
「まあ!マーティナ様から見て、どうでしたの?」
「良い香りでしたわ。ですが商人から手に入るレベルですわね。様々な価格のものが混ざって置かれておりましたので、低位貴族も高位貴族も手に取りやすい内装ではありました。私達が買うようなものは少なかったですわね」
高位貴族なんて滅多に来ないという考えだろうし、実際そうなので数が少ないのは仕方ない。
「ですが、香水瓶のデザインがとても綺麗でしたの。私は一本購入してインテリアのように置いていますわ」
「まあ!そんなに良いのですか」
「普通の香水は、ねぇ」
香水瓶は基本的にただのスプレー瓶だ。香水を使い終われば捨てられてしまう瓶に気を遣っている香水は殆どない。
それが当たり前ではあったが、確かに香水瓶が可愛いものは流行るかもしれない。
「百聞は一見に如かず。買うにしろ買わないにしろ、一度訪れてみるのも良いかと」
「今度街に出たときに寄ってみますわ」
見てみるだけなら、と令嬢達が頷く。
と、にゅっとテーブルに影が現れた。気配が、全くなかった。
背筋にぞわりとしたものを感じながら影の主を見上げ、私は顔を引き攣らせた。
「楽しんでいる?」
「勿論でございます、殿下」
第一王子は王子が座るために設置されている空席に腰を下ろす。
注がれたお茶を飲む姿でさえ絵画にしたいほどに美しい。
「それはよかった。ところで、ここの席は一人分多いね?誰が?」
きゅっと殿下の口角が上がる。友人達の視線が私に集まった。
「私でございます。勝手なことを致しました。申し訳ございません」
「いいや。空席がないところを見ると、どうやら君のお陰で席が丁度になったようだ。こちらこそ礼を言わねばならないね。ありがとう」
「いえ、友人達と同じテーブルが良いという私の我儘ですのでお礼を言われるようなことでは」
「それでも、だ」
わざとのくせに、と思いつつ私は微笑と共に目を伏せる。
「カールトン嬢で合っているかい?」
「はい」
「良かった。じゃあ私はこれで。楽しんで」
にこにこしながら殿下が去って行く。使用人が殿下のいた席を片づけた。
殿下が遠ざかったのを確認して、友人達がずいっと身を乗り出して来た。
「オリヴィア様!これは不味いですわよ!」
「確実に目をつけられておりますわ!」
かっと目を見開く友人達に気圧されて私は少し仰け反った。
しかし私の唇も少々震えていた。迂闊だった。
「貴女達と比べれば記憶に残ったかもしれないけれど、それだけよ。いらっしゃった時間も短かったし、婚約者まで行く筈がないわ」
「それなら良いですけれど!失礼は承知で申しますが、オリヴィア様はぱっと見理想的な淑女ですのよ!」
ぱっと見。
間違ってはいないが、なんかちょっと……。
「私達はオリヴィア様のことを多少は深く存じているつもりです。ですので、失礼ながらオリヴィア様が……いえ、オリヴィア様より王子妃、王妃に向いている方がいるということも理解しております。しかし、殿下方は違います」
「高位貴族の令嬢が受ける淑女教育なんて似たようなものよ?」
「ですが他のご令嬢をご覧下さればお分かりになるでしょう。殿下方を前にしていつも通りにきちんと振舞えている令嬢がどれだけいますか?一握りでしょう」
言われて辺りを意識すると、王子のいるテーブルの令嬢は皆頬が紅潮し口をはくはくとさせている。淑女の微笑みを浮かべられている令嬢など確かに殆どいない。
「確かにそうね。でも貴女達だって同じでしょう?」
殿下が来たとき、彼女達のように挙動不審になっている者は一人もいなかった。皆鉄壁の微笑みを崩していなかったように思う。
「それはオリヴィア様と同じです。王子妃になりたいという気持ちが一切ありませんので魅力が半減しているのです」
「そ、そう」
随分な言い方だが、確かにそれはその通りだった。半減しているというよりは、芸術作品を見ているような気持ちになるという方が近いかもしれないが。
他の友人達もうんうんと頷いて同意を示す。
二周目はなかったようで、第一王子が再び来ることはなくお茶会は終了した。
四日後。
いつも通り持ち前の優秀さで教師に褒められながら授業を終えて私がだらだらしていると、お父様に呼ばれた。
「オリヴィア様がいらっしゃいました」
「入れ」
お父様の書斎に入ると、ソファーに座るように手で示される。お父様は書斎の椅子から立ち上がり、向かいのソファーに座った。
「お父様、ご用件は」
「ヴィア。私はお前が王家主催の茶会に行く前に、お前に何を言った?」
「婚約者だけは持ち帰るな、と。それが如何なさいました?婚約者は持ち帰っておりませんが」
嫌な予感に、冷や汗が背中に伝う。
「ああ、その日はな。だが、それならこれは何だ」
お父様がテーブルに封筒を滑らせる。王家の紋章が入ったその封筒を恐る恐る手に取り、中の便箋を取り出した。
手紙を読み、私は戦慄いた。
『オリヴィア嬢へと第一王子であるルシフェルとの縁談を打診する』
そう書かれていた。
「そんな筈は!」
「あれだけ目立つなと言ったのに。ヘマはしないと言ったのは誰だ」
「それは」
確かにあれは私の失態だった。自覚はある。
「ですが婚約者に選ばれるとは思いませんでしょう!?」
「だがこれが現実だ」
がくりと私は項垂れる。
「お断りすることは?」
「あくまで打診だから辞退はできる。だが辞退したからといって降りられるとは思わない方がいい」
辞退したところで脅され丸め込まれるのがオチだ。
いくら何でもあれだけで、と思いながら私はお父様に辞退を頼んだ。
結果として、辞退はできなかった。
打診であった筈なのに、王命とされてしまったからだ。
これで悪役令嬢としての土台が整ってしまった。
「決まったものは仕方ないわ。穏便に解消に持って行かないと……」
私はベッドに転がって溜め息を吐く。
「幸いまだ婚約発表はなされていないわ。私が怠惰であることを分かってもらわないと」
正式な婚約と殿下との顔合わせは明後日。
自分が王子妃には向いていないことを私の口からきちんと告げ、なかったことにしてもらおう。
上手くいく訳ないよなぁとぼんやり考えながら、私は眠りについた。
「よく来てくれた。では早速婚約の書類を作成しようと思うのだが構わないだろうか」
挨拶をして早々、陛下はにこにこと笑んで婚約の書類を応接室の机に広げた。
王命での婚約なので、その場で断ることはできない。
婚約書類を読んでサインをした後、両親は帰宅し私だけが王宮に残った。殿下との顔合わせのためだ。
私はサロンに案内された。
「それじゃあ改めて自己紹介をすることにしよう。私はサンドフォード王国第一王子、ルシフェル=サンドフォード。名前で呼んでくれると嬉しい」
「分かりました、ルシフェル様。私はカールトン公爵家長女、オリヴィア・カールトンと申します。オリヴィアと呼び捨てにして下さいませ」
「分かった、オリヴィアと呼ばせてもらうよ。オリヴィアは私に聞きたいことがあるみたいだね?予想はつくけど、まあ何でも聞いて。婚約者になる以上私のことはきちんと知っておいてもらわないといけないから」
殿下――ルシフェル様の口からオリヴィアという言葉が飛び出したとき、私の心臓が跳ねた。
そして私は気付く。私は小説の設定通り、或いは小説の強制力のようなものによってルシフェル様を愛してしまうのだと。
冷静に私自身の気持ちを探れば、私はまだルシフェル様を愛してはいないことが分かる。
「ではお尋ねさせて頂きます。何故私を求めるのです。教育すれば大体の高位貴族の令嬢ならば王子妃として求められる水準など達することができるでしょう。何故私なのです」
つい責めるような口調になってしまった。
そんな私を見てルシフェル様がくくっと笑った。
「そういうところだよ。顔だけで私に惚れる者は必要ない。私よりもっと良い顔の者が現れたときに心移りする可能性があるからね。心移りだけならば構わないけど、それ以上の関係になられるのは困る」
王家の醜聞になる。そしてもし体の関係を持たれれば、子供が王家の血を継いでいるのか分からなくなる。また、王家の弱みを漏らされる可能性もある。
恋に溺れた人間は、何をするか分からない。それが例え、そんなことを決してしないような者であっても。
しかし私はそれを聞いて眉を顰めた。
「では私が貴方に一目惚れをしていない保証はどこに?」
「まずあのとき様子が一切変わっていなかった。後、君が婚約を辞退したことで確証を得たって感じかな」
賭けだったらしい。
そしてルシフェル様は賭けに勝ったということになる。
「分かりました。しかし様子が変わっていなかったのは私のテーブルの者も同じでしたでしょう。その中で私を選んだ理由は何ですか?」
「オリヴィアも分かってるでしょ?」
「席云々で印象に残ってしまいましたか?」
「そう。後は顔の好みも含めてね」
ルシフェル様がにこにこと笑う。
可愛い系ヒロインに恋をしていたからそちらが好みなのかと思ったが、特にそんなことはなかったらしい。
私は溜め息を吐いた。
「これから顔なんてどうとでも変わっていきますわ」
「素材が良くないとね」
友人達も素材は良かったと思うのだが、とにかく私の顔が一番好みだったということだろう。
好みは人それぞれ。何も言うことはできない。
「ああそれともう一つ。早く私を好きになってね。私も君を好きになるから」
「それは閨が理由ですか?」
「な!?君、もうそういうことを教わっているの!?今9歳だよね!?」
ルシフェル様が驚いて体を仰け反らせる。大袈裟な。
「具体的なことはまだですが、ぼんやりとは。大体ルシフェル様ももう学んでいらっしゃるでしょう?」
具体的に何をするかは嫁入り前に母親から、母親がいなければ侍女から教わることになっている。しかし、教育の課程でぼんやりとは教わる。その時期は各家の裁量だ。
だがまあ前世で読んだ本の中にはそういう描写がある本もあったので、普通に知ってはいるのだが。
「私はもう11歳だから!オリヴィアはまだ9歳なのに!」
「たった2歳の差ですし、そもそも各家の裁量でしょう。まあそれは置いておいて、他に理由があると?」
「うん。愛していれば裏切る可能性が減るでしょ?」
「そうですか」
普通に納得した。まあ裏切るなんていうリスクがあって忙しいことを私がする筈ない。
「現時点でお尋ねしたいことは以上です。そしてですね、ルシフェル様、私は貴方に言っておかなければならないことがあります」
「何?」
「生来私は怠惰を極めた性格です。必要最低限のことしかしたくない性格です。なので、適当に理由をつけて婚約解消をして頂きたいと思っております」
「それは難しいね」
真顔で訴える私に、殿下はあっさりと首を横に振った。
「理由を聞いても?」
「君が王子妃として条件が最も良かったからだよ。容姿、家柄、教育、態度。オリヴィア、君が最も優れていた」
『惚れていない者』を前提としたとき、それらの基準を用いて最も優れた令嬢は確かに私だっただろう。反論できない。
「納得してくれた?まあそういうことで、オリヴィアは私と婚約して結婚することは決定事項なんだよ」
私は項垂れた。
そしてはっと思い出し、付け加えた。
「それと、もう一つだけ。私はルシフェル様が側妃を迎えることになった場合、それを拒否することはありません。その方に何か悪意を持った行動をすることもございません。どうか惑わされないで下さいませ」
さっさと諦めた私は、必死で王子妃教育に努め、早々に修了を言い渡された。ぐうたら生活のためである。
ルシフェル様とは良い関係を築けていたと思う。
恥ずかしながら私はルシフェル様に恋をしてしまい、ルシフェル様からも愛しているという言葉を貰っている。燃えるような恋ではなかったが、お互いに確かな愛と信頼関係を築いた。
だから私は油断していたのだ。
この世界が、小説の世界であることを忘れていた。
⁑*⁑*⁑
「も、申し訳ございません!」
銀の髪が美しいその令嬢は、日替わり定食をのせたトレイを近くのテーブルに置き、だらだらと汗、多分冷や汗を流しながら跪いて謝罪した。
彼女が私と共にいたルシフェル様にぶつかり、ルシフェル様のコーヒーが割と大胆に零れてしまったのだ。幸いトレイの中で収まり制服が茶色になることはなかったが。
「……いや、大丈夫だよ」
私は、ルシフェル様が彼女に見惚れたのを見逃さなかった。
「それより、ここは学院だ。校則にあるよね?『学院の敷地内に於いて、学院生は全て平等である』って」
「勿論覚えております!」
「ならそれは少し違うと思わない?」
「は、はいっ」
令嬢は恐る恐るといった態で立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。
「すみません」
「気にしないで。学院じゃコーヒーは飲み放題だ」
ルシフェル様は令嬢にパチリとウインクを飛ばす。破壊力抜群の行動に令嬢の顔が僅かに赤く染まった。
「そういえば君の名前を聞いていなかったね。分かっているようだけれど一応、私はルシフェル・サンドフォードだ。君は?」
「メロディ・プリムローズと申します!」
プリムローズ男爵家の娘だ。何の変哲もない、特別貧乏でも裕福でもない地方の男爵家。妹が二人いる。
「メロディ嬢、と呼んでも?」
「へあっ!?あっ申し訳ありません!どうぞお好きなように!」
こくこくとプリムローズ嬢が何度も頷く。小動物のようで何とも可愛らしい仕草だった。
これが、ヒロインの力。
「ありがとう。私のこともルシフェルと呼んでくれると嬉しいな」
「はえっ!?そんな!恐れ多い!」
「構わないから、ほら」
「る、ルシフェル様」
窺うようにルシフェル様を見るプリムローズ嬢だが、それは所謂上目遣いというものだ。
ルシフェル様は少し硬直し、破顔した。
「うん。昼ごはんも食べないといけないし、それじゃあまたね」
「はい、また!……また!?」
焦るプリムローズ嬢に再度笑いかけてルシフェル様は彼女に背を向ける。
フォローするように私はプリムローズ嬢に微笑みかけ、そしてルシフェル様に目を向ける。
彼の頬は、柔らかく緩んでいた。
それから、ルシフェル様は私のいない場でプリムローズ嬢と会うことが増えた。
自分の知らない、田舎での暮らしを楽しそうに聞いている。
――結局、覆らなかった。
私に愛していると告げた彼は、恋を知った。
王妃になるのは私。プリムローズ嬢では色々と足りない。
しかしきっとルシフェル様は、側妃としてプリムローズ嬢を迎え入れるのだろう。
湧き上がるのは醜い嫉妬。
私はぐっと歯を噛み締める。悪役令嬢オリヴィアの気持ちが痛い程に分かった。
原作のオリヴィアは、我儘令嬢だった。だから、ルシフェル様に愛されなかったのも納得できた。
しかし私は違う。ルシフェル様と想い合っている筈だった。それなのに。
「――ヴィア?オリヴィア?」
「ぁ、申し訳ありません、考え事をしておりました」
「最近どうしたの?様子がおかしいよね」
ルシフェル様が小さく首を傾げる。心底心配しているというようなその表情が、嬉しくて憎い。
誰のせいでこうなったと思っているのか。
「そうですか?特に心配して頂くようなことはありませんのでお気になさらず」
少し突き放したような言い方になってしまった。ルシフェル様の眉が下がる。
罪悪感が湧き上がり、私はにっこりと微笑む。
「本当に何もないのです。ありがとうございます」
「なら、いいんだけど」
困ったようにルシフェル様が私を見る。予鈴はまだ鳴らない。
「それより。ルシフェル様はプリムローズ嬢をお迎えするつもりですか?」
「え?」
ルシフェル様はぱちぱちと目を瞬かせる。
「そういうのは、特に考えていなかったけれど……どうして?」
「側妃としてお迎えするならば、正妃程ではなくともある程度の教養が必要となります。プリムローズ男爵家では少々教育が厳しいでしょうから、私が今のうちにある程度は身につけておかせてあげることができればと思ったのです」
思ってもいないことを口走ってしまった。のんびりぐうたらが大好きな私ならば絶対にあり得ないことなのに。
ルシフェル様も私の言葉に驚いた様子を見せた。
「いや……必要ないよ。オリヴィアはオリヴィアの生活を送ってくれれば良いから」
「そうですか?ではそう致します」
「うん」
側妃か……というルシフェル様の呟きを、私は聞かなかったことにした。
それからしばらくして、プリムローズ嬢への嫌がらせが始まった。
ヒロイン力の高いプリムローズ嬢は、男女問わず愛されていた。当然犯人捜しがなされた。
犯人はなかなか見つからなかった。証拠が一切残っていなかったのである。
そして、犯人は私ではないかという推論が、どこからか挙がった。
勿論、決して私は犯人ではない。
初めは皆が否定した。私がそんなことをする筈がないと。
しかし、嫌がらせが続けば続くほど、私への疑いが強くなった。
面と向かっては誰も言わない。しかし疑念は日に日に強まってゆく。
ある日、ルシフェル様に呼び出された。
「話とは、何でしょうか」
「メロディ嬢への嫌がらせ、君が犯人っていう噂があるんだけど……」
「存じております。ですが、事実無根です」
私がきっぱりと否定すると、ルシフェル様はほっとしたように口元を緩めた。
「そうだよね、良かった。私もまさかオリヴィアがする訳ないとは思っているんだけど、一応ね」
ルシフェル様は、私が犯人かもしれないと思ったのだ。だから、私を呼び出した。
何が『オリヴィアがする訳ないとは思っている』だ。嘘つき。
ルシフェル様は、プリムローズ嬢と昼食を共にするようになった。
日が経つにつれ、私は話に入ることなく頷くだけ、添え物のようにその場にいるだけになっていった。
嫌がらせは酷くなり、プリムローズ嬢を守るためと称してルシフェル様は休み時間はできる限りプリムローズ嬢と常に共に行動するようになった。
そして、いつの間にか私は邪魔者になり。
『オリヴィア。本当に君じゃないんだよね?』
『オリヴィア。私は君のことを信じていいのかな?』
『オリヴィア。火のない所に煙は立たぬって言うでしょ?』
『オリヴィア。メロディ嬢に嫌がらせをするの、止めて欲しいんだ』
ルシフェル様は碌に反論させてくれない。私がいくら否定しても、ルシフェル様は私に疑いの目を向け、最後には私が犯人だと決めつけた。
ルシフェル様と行動を共にすることが減り、いつしか私は一人になった。
「オリヴィア様!」
「……マーティナ、様」
私に声をかけてきたのは、怠惰同盟の一人である侯爵令嬢だった。
険しい顔に、彼女が友達でなくなったことを確信した、その時。
「ごめんなさいっ」
マーティナ様が、私に抱きついた。
耳元で啜り泣きが聞こえる。
「マーティナ様」
「私、オリヴィア様のこと助けてあげられなくて。オリヴィア様が犯人じゃないことなんて、私が一番知っていますから。なのに、全然噂を止めることもできなくて。ほんとに、ごめんなさい」
――味方、だったんだ。
体の力が抜ける。
「私はちゃんと分かってますから。殿下がオリヴィア様を疑っても、私はちゃんと分かってますから」
「マーティナ様……ありがとう」
ぽろりと涙が零れた。
その日、私はマーティナ様に食堂の二階のサロンに案内されていた。
このサロンは予約制で、ルシフェル様が私を呼び出すときに使っていた場所でもある。
サロンで待っていたのは、怠惰同盟ことあの婚約者選定のお茶会で同席したメンバーだった。
「……直接お会いするのは久しぶりですわね」
「ええ。私達も、先日マーティナ様に集められた前は全く。それで……先日、私達は作戦会議を致しました」
「作戦会議?」
「ええ。婚約解消大作戦、です」
おっとりとした口調で、伯爵令嬢が言った。
「オリヴィア様。オリヴィア様は今、ルシフェル殿下を愛しておりますか?」
「……ええ」
「そうですか。婚約解消については如何お考えですか?」
婚約解消、と私は口の中で呟く。
ルシフェル様と、婚約を解消する?
「したいですか?したくないですか?」
「そ、れは」
「今なら殿下の有責でオリヴィア様から――破棄とはできないでしょうが――解消はできるでしょう」
王命だけど、今なら、解消、できる。
できてしまう。
「解消、したいなら全力でご協力致します」
私は解消したいと思っているの?
それとも。
「私、は……」
黙ってしまった私に、マーティナ様が話しかけた。
「オリヴィア様は王子妃になりたくないと仰っておりましたね。どうしてなりたくなかったのですか?」
「それは、王子妃としての仕事が面倒で」
「では今婚約を続け王子妃になりたいのは何故ですか?」
「私が、ルシフェル様を愛しているから」
「殿下が他の女性を側妃に迎えそちらに寵愛を傾けても?それでも、愛されない正妃となったとしても隣にいたいですか?」
言葉は刃となって私に突き刺さる。
ルシフェル様はプリムローズ嬢を側妃に迎えるつもりだ。マーティナ様の言葉はきっと現実となる。
他の女を愛する男に立場を振りかざして醜く縋るの?
想像して、ぞわりと鳥肌が立った。
「正妃となって仕事と子供だけを望まれながら、他の女性を堂々と愛する殿下の隣に立つことは、面倒な王子妃の仕事をこなすことよりも大切ですか?」
正妃は愛されないくせに仕事をさせられ義務として子供を望まれる。
側妃は愛されながら仕事も殆どなく愛の結晶として子供を望まれる。
――何それ。
それを甘受してまで正妃の立場に居続けるのは、嫌。
「マーティナ様、皆様」
私は集まってくれた友人達を見回す。
「私は、婚約解消をしたいと思います」
「よく、ご決心して下さいました」
友人達がぎゅうぎゅうと私に抱きつく。
嬉しくて、笑みが零れる。
「王子妃の仕事なんて、怠惰な私にはやはり無理ですもの」
私がしたのは、ただ一つ。陛下に王家の影をつけてもらうことだった。
適当に理由をつければあっさりつけてもらえた。学院長は少し渋ったが、王子と未来の王子妃のためだと王家に言われれば拒否はしづらい。
これで王家が証人となったこととなる。
私はこれまでと変わらず過ごした。
一つだけ変わったのは、休み時間を友人達と過ごすようになったことだ。
友人達と笑い合っている日々を過ごし続ければ、ルシフェル様と遭遇することも減り、彼への気持ちも徐々に薄れていった。
向かいから殿下とプリムローズ嬢が楽しそうに歩いてくる。
通りすがるとき、いつもルシフェル様は私を見ると苦々しい顔をする。そんな顔を向けられることが、ずっと辛かった。それでも目を離せなくて、ずっと目で追っていた。
けれど、もうどうでもいい。好きな人にそういう顔をされたから辛かった。でも、もうどうでもいいのだ。
今日も私とルシフェル様の視線が絡む。ルシフェル様はいつものように苦い顔をする。
私はふいっと目を逸らし一緒にいた友人達との話を続けた。友人の話で私達の間に笑いが弾けた。
視界の端で彼が目を見開くのが見えたが、もう私は気にしない。
いつしか、通りすがっても目が合わないようになった。
⁑*⁑*⁑
そのまま日は経ち、卒業パーティーを迎えた。
流石に私をエスコートするのはルシフェル様だ。婚約者をほっぽらかして他の女性をエスコートする訳にはいかない。それは小説でも同じだった。
卒業生は全員パートナーをつける必要がある。一方で在校生は卒業生に婚約者がいない限りパートナーをつけない。私もルシフェル様も、去年は一人で入場した。
学院は4年制で、プリムローズ嬢は私の1つ下なのでパートナーはつけない。
ドレス一式を贈るのはパートナーの男性と決まっている。色は決まっていないが、婚約している場合は相手の色を身に纏うことが多い。
しかし贈られたドレスは、彼の色は刺繍に使われているのみだった。
だから、入場した瞬間会場が僅かに騒めいた。
ルシフェル様が寵愛しているのが私ではないことは全校生が知っている。だが、ここまでするとは思わなかった。小説よりもまともだと思っていたから。
小説の中で、ルシフェル様は卒業パーティーで私を断罪する。
稚拙な嫌がらせで気に入らぬ者を排除しようとする者を王家に入れる訳にはいかない、と言ってオリヴィアとの婚約破棄を宣言する。
そしてプリムローズ嬢を正妃とし、プリムローズ嬢は正妃としての厳しい教育に耐えて無事に結婚する。
私は小説同様に断罪されるのではないかと警戒していた。
しかしルシフェル様はパートナーとして普通の振る舞いを続け、何事もなくパーティーは終了する。
正直拍子抜けだった。
卒業パーティーの翌日、私とお父様は王城を訪れていた。
陛下には予めアポイントメントを取り、ルシフェル様の同席を求めている。
時間より少し早くに二人は応接室に入ってきた。人払いをして陛下が口を開く。
「この場では自由に発言を。して、オリヴィア嬢。話とは何かな?」
「ルシフェル様との婚約解消をお願いしたく参りました」
私はにっこりと笑みを浮かべた。陛下が眉を顰める。
「オリヴィア嬢。この婚約は王命ではなかったか?」
「承知しております。その上で婚約解消を申し出た理由を申し上げたいのですが」
「……許そう」
「ありがとうございます。私がルシフェル様と婚約を解消したいのは、今後些細なこと、大きなこと、何かあれば全て私が為したようにルシフェル様に誤解されると考えられ、混乱を招くと考えたからにございます」
陛下は数秒黙って私の言葉を咀嚼した後、根拠は、と簡潔に尋ねた。
「メロディ・プリムローズ男爵令嬢が学院にて嫌がらせを受けていました。私が犯人ではないことは影が証言して下さることでしょう」
ルシフェル様が私を犯人だと決めつけた、と私は言わなかった。しかし勿論陛下は私の言いたいことに気付き、ルシフェル様に視線を向けた。
「どうして決めつけたのだ、ルシフェル」
「……学院生が噂を。火のない所に煙は立たぬと申しましょう。オリヴィア嬢ならば動機も明確です」
ルシフェル様は顔を青褪めさせ狼狽えたが、微かに震える声で言う。
陛下はルシフェル様の言葉に唖然とし、ルシフェル様を怒鳴りつけた。
「お前は証拠もなしにオリヴィア嬢を犯人だと決めつけたというのか!」
「っ、それは」
ルシフェル様が口籠る。それを見て陛下が溜め息を吐いた。
「……影」
「は」
陛下の呼びかけで、どこからともなく黒い装束を纏った人が現れた。
「学院でのルシフェルは」
「メロディ・プリムローズ男爵ご令嬢と共に」
「オリヴィア嬢ではなく?」
「はい。カールトン公爵ご令嬢はご友人と共に。殿下のお心はプリムローズ男爵ご令嬢の元に」
「違う!私がメロディ嬢と共に行動していたのはメロディ嬢への嫌がらせを防ぐためです!」
ルシフェル様がいきり立つが、陛下は手でそれをあしらった。仕方なくルシフェル様が黙る。
「影。オリヴィア嬢が嫌がらせをしていたという事実は」
「ございません」
「そうか、分かった」
陛下は影に下がるよう命じ、影が消えるのを待ってルシフェル様と向き合った。
「ルシフェル。私のつけた影はこう申しておるが」
「……わ、たしの、勘違いだったようで。オリヴィア嬢には申し訳ないことを致しました」
ルシフェル様は私とお父様を見る。
「オリヴィア嬢を犯人だと決めつけたこと、申し訳なかった」
「謝罪を受け入れます」
お父様は私と目を合わせてからルシフェル様に言った。
しかし私には付け加えることがある。
「……ですが、ルシフェル様が私ではなくプリムローズ嬢を側に置いたことによって私は名誉を傷つけられました」
私は陛下に目を向ける。陛下は小さく頷き、ルシフェル様に声をかけた。
「ルシフェル。プリムローズ嬢を妃として迎えるつもりか?」
「……はい。側妃として」
ルシフェル様は逡巡したが、陛下の目を見てきっぱりと言い切った。
そうか、と陛下は口の中で呟いた。
ルシフェル様の潔いところが、好きだった。今は、憎い限りだけれど。
「オリヴィア嬢、婚約解消を受け入れよう。王命は撤回する」
「有難く存じます」
陛下の表情が苦い。
嬉しいのに、何だかぱっとしない。
「父上!それでは私の正妃はどうなるのです」
「お前には二つの選択肢がある」
「選択肢……?」
陛下が目を眇め、指を一本立てた。
「一つ目。オリヴィア嬢以外の高位貴族の令嬢を妃に迎える。王妃足りうる令嬢は売り切れておるだろうから、プリムローズ嬢を迎えることはないだろうがな」
つまり、ルシフェル様――いや、ルシフェル殿下がこの選択肢を選んだ時点で殿下が王太子となることはなくなる。
そして、側妃を迎えることが許されているのは国王のみだ。
殿下は震える声で二つ目を催促した。陛下が指をもう一本立てる。
「二つ目。プリムローズ男爵家に婿入りする。但し、結婚が成立した時点で王族籍は抜く」
この国では、結婚しても籍から抜けることはなく、籍を掛け持ちするという形をとっている。結婚と離縁の時の手続きが楽だからという理由だ。勿論子供はその家の籍しか持たない。
なので、王族籍から抜かれるということは、『ルシフェル=サンドフォード』という人間は存在しなかった、『ルシフェル』は生まれたときから平民だったということになる。
王族ですらなくなるが、プリムローズ嬢と結婚することはできる。
殿下は唇を戦慄かせながら暫く陛下を見つめていたが、やがて俯いた。
「一週間時間をやる。その間は部屋にいるように」
「……分かりました」
事実上の謹慎だ。
陛下は私とお父様に声を掛けた。
「カールトン公爵、オリヴィア嬢。ルシフェルが申し訳なかった。オリヴィア嬢の名誉を傷つけてしまったことに関しては、きちんと賠償させてもらう。それからオリヴィア嬢、この場で申したいことがあれば申せ」
「それでは陛下、ルシフェル様と二人きりで話がしとうございます」
「分かった。サロンを用意させよう」
サロンは私と殿下が初めて二人きりで話し、その後もよくお茶をしていた場所だ。愛していると言い合った場所でもある。
美しい思い出のまま残しておきたい気持ちはあったが、仕方がない。
私と殿下は連れ立って、しかし無言でサロンへ向かった。
殿下が力なく席に座る。
侍女が紅茶を淹れてくれた。
「……オリヴィア、すまなかった」
「……殿下。私は、初めて貴方と二人きりで話した日、あることを言いました」
「あること?」
「『殿下が側妃を迎えることになった場合、それを拒否することはありませんし、その方に何か悪意を持った行動をすることもありません。どうか惑わされないで下さいませ』と。覚えていらっしゃらないのでしょうが」
殿下は少し考え込んだ後、曖昧に笑う。
「きちんとは覚えていないけれど、そんなことを言っていたような気もするよ」
「このような事態になる可能性を考えて予め申し上げておいたのですが、無駄だったようですね」
殿下がゆっくりと笑みを消した。
「オリヴィア。君は私を愛していた?」
「ええ、怠惰を極め必要最低限のことしかしたくない私が、王子妃になることをやめたくないと考える程度には」
そっか、と殿下が泣きそうな顔で呟く。
「私が証拠を残さないように立ち回ってまで嫌がらせをするだなんていう面倒なことをする筈がありませんのに」
「……それもそうだ。私はどうして君を信じることができなかったんだろうね」
「プリムローズ嬢が私が犯人だと言ったのでは?」
「はは、そういえば彼女は君が犯人だとは一度も言わなかったよ。あくまで噂だから鵜呑みにするべきじゃないとしか。――庇っているのかと思っていたけれど、違ったんだね」
殿下は背もたれにもたれて天井を見つめた。
「君は面倒くさがりだもんね。私のために頑張ってくれていたから完全に忘れていた。今までありがとう、オリヴィア嬢」
「私こそ、ありがとうございました」
王城のサロンでアフタヌーンティーができるのなんて、王族かその婚約者だけだから。
殿下は結局婿入りを選んだ。
プリムローズ男爵家には娘しかおらず、長女であるメロディ嬢が婿を取り家を継ぐ予定だったが、婚約者がいなかったため学院で見繕う予定だったそうだ。
なので殿下の婿入りによって跡継ぎ問題でプリムローズ男爵家が混乱することはなく――王子が婿入りしてくるという点に関しては大わらわだったらしいが――、無事に丸く収まった形となる。
後から聞いた話だが、メロディ嬢は側妃になるつもりはなく、殿下とは単に学生の間の友人関係だけのつもりだったらしい。もし側妃を打診されていたとしても、王命でない限り跡継ぎであることを理由に断っていたそうだ。
婚約者を失った私がどうなったかというと、ルシフェル殿下の弟であるラファエル第二王子殿下の婚約者になるなんてことはなく、マーティナ様の兄であるリチャード様と結婚した。
一目惚れではなかったが、穏やかに恋をし、愛し合う結婚をした。
息子が一人生まれ、今お腹の中にはもう一人赤ちゃんがいる。
リチャード様は宮仕えではないため、私はたまの社交以外に仕事はない。
だらだら怠惰な生活を送っていた私だが、子供が生まれてそれは一変した。
できるだけ自分で世話をしたかったから乳母をつけなかった。
そのせいで、怠惰とは無縁な生活になってしまった。
私は怠惰だけれど、怠惰ではないこの生活が幸せだ。
お読みいただきありがとうございました。
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