アホの子彼氏と監禁ヤンデレ
サッカー部の朝練で木がへこんでいる。選手達はとても速く動き、我が将来の夫は大活躍。
神奈川県某市は片理町、脈窠高校の一幕。月曜日の今日、私、北坂日長は好きな人と一緒にいるためここにいる。グラウンドには旋風。空は晴れ、愛する山坂正陽くんはサッカー部。
山坂正陽くんは私と将来を誓い合うはずの人だ。童顔で、短い茶髪、私と同じ少し低い背丈の人。サッカー部の若きエースで、かっこよくて、世界一の人。単純なところはあるけれど、そんなの私が補佐すればいい。
「おーい、北坂」
正陽くんが練習を終えてやってきた。彼は私を名前で読んでくれない。動き回っていたハズだが問題ないようだ。マネージャーになることは正陽くんに断られてしまった。だからこうして待っている。
「正陽くん、お疲れ様」
彼に流れる汗を指先で絡め取り、舌で舐める。彼のものが私の中に。正陽くんはキリッとした目を丸くさせ、頭をかいた。
「着替えるから」
と言って、逃げてしまう。私はツインテールを揺らしながら彼が戻るのを待った。
ブレザーの学生服に着替えた正陽くんを迎え、並んでクラスへ行く。階段を上り、人が行き交う廊下。先のことなど忘れたのか、正陽くんは快活に笑う。部活での話を遠慮なく話してくれる。おかげで泥棒ネコがいないか探りやすい。
「……で、マネージャーの浮雲がさ」
「あの女がどうしたの?」
正陽くんの表情が固まる。やましいことでもあるみたいに。
彼の手を掴んだ。爪を立てる。私達は廊下で立ち止まった。遠目から生徒達が見てくる。知ったことではないが。
正陽くんは私から目をそらした。
「ごめん、行こ」
「だから、あの女とは何が……」
そう続けようとして、手を掴み返され引っ張られる。恋人繋ぎにされた。決して離そうとせず、力強く握っていてくれる。こんなことで許したくない。けれど、怒りは曖昧になって、彼の体温しか解らなくなる。
私達二人は黙ってクラスへ。何のトラブルもない平和なクラス。入ると、私達を見て騒ぐ。
「お! 坂ップルが来たぞ!」
「今日もお熱いねぇ!」
「早く孫の顔が見たいわい」
やいのやいのとからかわれた。私は否定もせず堂々と進む。正陽くんは困り顔。サッカーに真剣な時からは想起しがたい幼げな表情。これが私だけのものだと思うと、多幸感で生き返りそうだ。
彼は私へ、救いを求めるかのような視線をくれた。HRの鐘の音。みんなが席に座る中、私は彼の首を噛んだ。彼の匂いと味が口に広がる。そして残る歯型。私の印。すぐに退散して、自分の席に座る。私は窓側、正陽くんは廊下側。横目に見る正陽くんは沸騰寸前。私の前で、他の女の話をした罰だ。ご褒美かもしれないけど。
担任の女教師が眠たげにグダグダ言う。その間机の中を探る。授業に必要なものを用意しようとしたのだ。何かの手紙があった。宛名などは書かれていない。封を切り、中を見る。
筆跡からして正陽くんからだ。ボールペンの黒インク。ただ一言。
「いつもありがとう」
今は正陽くんのことを見られなかった。お宝がまたひとつ増えた。窓から差す太陽が手紙を照らしている。
HRが終わり、歴史の授業。正陽くんの言葉に、花道の有頂天を昇る私。大昔の誰が死んだかなんて聞いちゃいない。
チラリと、告白の主を見る。彼は勉強が大の苦手。今も苦戦しながら板書。あとで私が教えるのに。
正陽くんから好意を伝えられるのは初めてではない。直接口に出して言うことは無いが、それとなく伝えてくれる。少し不満だが、私が言えるものではない。私も「好き」「愛している」「私のものになれ」「パパになれ」とは言っていないのだ。
彼が恋心で真剣な目を向けてくれることはまだない。私を落とすあの瞳を。つまり、直接的なことは何も。思わせぶりの可能性もある。
いつの間にか昼休みになっていた。太陽と時計の針は天にある。弁当を持ってすぐ立ち、正陽くんのもとへ。
「正陽くん?」
「よし、行こう」
勉強から開放された喜びか、彼は元気よく立ち上がった。クラスメイトから心地よい視線を受け、中庭へ行く。
中庭。そこには一本の大樹がそびえ立っている。その名も鳥面樹。鳥の顔が木に現れている不思議な木。伝説では、この木には脈窠高校創設者と、その使いたるハトの魂が眠っているという。愛に生きた人と言うから、それにあやかって「恋愛の神」として崇められている。私も、あの木とハトを毎日拝んでいる。
他にもカップルがいる中、ベンチに座る。キジバトが胸を鳴らす。談笑が青空にこだまし、春の風を響かせる。
「正陽くん」
私は包みを開く。大きな弁当箱を見せた。手作りのお弁当。スポーツ男子が喜びそうなメニューにした。もちろん栄養も満ちている。
しかし、彼は人を目で追っていた。短髪でスポーティ。栗色に近い髪色の女。朝の話に出ていた女、浮雲だ。中庭を通っているだけ。
知らぬうちに歯ぎしりしていた。正陽くんの肩を掴む。感情のない瞳が私に向けられた。あの女を見て何を思ったのか。どうやら無感想、それがひとつあった。
「なんであの女を見るの?」
彼はなんでもないように微笑んだ。
「彼女、サッカー部のマネージャーなんだよ。最近入ってさ」
「だからって見る必要はないよね。私がいるじゃん。私だけを見ればいいじゃん」
何に驚いたのか、眉を上げる。首を傾げる。目を背け、悩ましく口角を下げる。ハトの声は聞こえない。
「ねぇ」自身の声の低さに、一瞬だが戸惑う。だが続ける。「なんなの。私よりあの女のほうが大事なワケ?」
彼は答えず、さくらんぼのような顔色になう。彼の思考を知りたくて、語気が荒くなった。醜い表情を見せてしまっているのは解る。
何か言ってよ。そう口にしようとして、正陽くんが動く。
「鈍感」
頬に湿った感触。本能による反射で、心がときめいた。
彼に顔を向けられない。うつむく。ハトが近くまで来た。ただ私達を見上げている。なでしこの花弁がヒザに落ちた。
しばらく沈黙が支配する。
「……ご飯にする?」
ようやく発した言葉がこれだった。正陽くんも小声で「そうする」と言った。弁当を渡す時、彼はしっとりと笑った。
湿気のある空気の中、正陽くんというからっ風が吹く。彼の調子は元に戻り、私もあの女のことを忘れてしまった。正しくは、思い出したくないということだが。この花園に毒蛇はいらない。
食事を終え、スマホを取り出す。一緒にゲーム開始。二人協力プレイのタイプ。男子の友達とやるべきものだろうに、この人は私を選んでくれている。実際私が見たところ、友人より私と過ごしている時間のほうが多い。
だからこそ、浮雲という女が気がかりだ。正陽くんは私を異性として意識してくれているハズ。だけども、やはり恋に不安は除けないのだ。
その不安解消のため、彼の首に盗聴器を仕掛けった。オクトカム機能により他人にバレることはない。肌色に化け、彼の一部になった。
「クソー、北坂は強いな」
協力ゲームとはいえスコアで競うことはできる。私がまた勝ってしまった。
「正陽くんだって、とても上手だよ」
「スコア差が五倍あるんだけど……}
彼は苦笑しながらそう言って、中庭にある時計を見る。もうすぐ昼休みは終わりだ。片付けをして立って、並んでクラスに帰る。
「じゃあまた放課後な」
「うん」
彼とはいつも二人で下校している。ともかく、まずは授業だ。
午前とは逆に落ち着いて教師の話を聞けた。正陽くんは相変わらず眠そうだ。今すぐ彼の席に行き、寝かしつけてあげたい。それかこっちに来させて陽光を浴びせたい。
そんな妄想は叶えられず、部活の時間が始まる。
「またあとでな!」
正陽くんは私にそう言って、サッカー部のもとへ駆ける。私は校内を行き、文芸部の部室へ行く。部員なのだ。
ガラガラと扉を開ける。殺風景な狭い部屋に部長が一人。目つきの悪い眼鏡の男。偉そうに、入口と向き合う席に座っている。この部屋に賞とかがあるなら威厳もあるだろうが、あるのは机と椅子と、本棚だけだ。本棚には部員達が集めた辞典が並んでいる。
「君は相変わらず、無欠席だね」部長が皮肉を言う。私は「休むワケにはいきませんから」と言い返す。
部長は、ボールペンと原稿用紙という古臭い執筆スタイルを机に広げている。ひと目見ても解る遅筆具合。
私はイヤホンを耳にした。
「他の人はどうしました?」
「休みだよ。一部の連中は彼女さんに引っ張られている。恋人なんてつくるもんじゃないね」
と部長は言っているが、彼にも彼女がいる。しかも重い人だ。私はこの男の監視を、彼女さんから頼まれている。
だがそんなことより。私は荷物を置いて窓に急ぐ。ここは三階。グラウンドがよく見える位置。つまり、正陽くんを眺められる特等席なのだ。このために文芸部に入った。部長から煙たがられているのはこのせいだ。
「昨日もそうだった」部長は愚痴を始める。「危うく監禁されるところだった。彼女の家には原稿用紙がないというのに。それにインクも切れていた。あいつはもうちょっと執筆というものをだね……」
「そうですねはいはい大変ですね」
この人、自分の彼女に盗聴されていることに気づいていないのだろうか。次に監禁される時はさぞ執筆しやすいだろう。
「そういえば、原稿はまだかい。君の文章は中々情緒的だから楽しみなんだが」
これを聞いている彼女さんは、今頃怒りの炎に押されているだろう。「貴方が褒めるべきは私ではないですよ」とだけ言っておく。
こんな男より、正陽くんのことだ。彼は今、走り込みを終えたところ。盗聴器により、ここからでも彼の息遣いが聞こえてくる。にじんだ汗と、その反射が目に見えるよう。少し雲のかかった空も彼を称えている。……彼のユニフォームはどんな匂いがするのだろう。
彼に近付く人間がいる。女。浮雲だ。視認した。
「山坂くん、おつかれ! はいこれ」
「ありがと浮雲」
もし壁に手をあてていたら破壊しているところだった。正陽くんは当然のようにあのメスと語らい、メスは堂々と人のものに手を出していた。スポドリを渡している。あの女……私はマネージャーを拒絶されたというのに。
耐えきれず、三階窓から飛び出す。五点着地によって問題なくグラウンドに駆ける。
いち早く、正陽くんが気付いた。来るのを解っていたみたいで癪だ。
私は浮雲を睨む。
「ねぇ、貴方マネージャーだったっけ?」
「……そうだけど」
女の目には闘志があった。こいつは明確に敵だ。泥棒ネコめ。
「正陽くんとずいぶん仲良いね」
「マネージャーだから」
「ふーん」
正陽くんに目を向ける。彼も私を捉えていて、若干の不満をにじませている。
「ねぇ」自然と圧をかける。「なんで?」
「部活仲間だから、仕方ないだろ」
それは確かにそうだ。だが彼のような天上天下で唯一の存在が、他の女に取られない確証はない。私自身の安心と、この女の排除のため、一考を案じる必要がありそうだ。
「そういう関係じゃ、ないよね」
私はあえて公衆の前で問う。私への愛が本物なら、堂々と言い放てるハズ。
しかし、彼は怒りに言葉を任せた。
「そうに決まっているじゃないか。早く部活に戻れよ」
彼は足早に去っていった。様子を見ていた同輩達と練習に戻る。私はグラウンドの喧騒に取り残された。雲が太陽に目隠しをする。灰色の空が地を照らす。
浮雲は目を背けながら立ち去った。彼女の背中に現れるは悲哀。己の靴が上履きだと、私は今、気づいた。
三階まで壁をよじ登り、部室に戻る。眼鏡の部長はいない。代わりに置き手紙があった。曰く「彼はお持ち帰りしました。貴女も意中の人には気をつけて」とだけある。定期的な誘拐は無視してポメラ(デジタルメモ。主に執筆に使われる)を起動。メスブタを猟奇的に殺害するショートショートを書き上げた。この小説を浮雲に送ってやりたいものだ。
しかし、私は山坂正陽にとって生涯の人。彼の名誉を汚してはならない。ここは真正面から挑んで、あの顔面ごと踏み擦り殺してやるのだ。そんな妄想に励んだ。
完全下校時刻が近付く。物を片付け、部室を閉め、やる気無し顧問に鍵を渡した。
校門にて、正陽くんを待つ。
ちょっと険悪にはなった。でも、ちゃんと来てくれるハズだ。でも、もしかしたらがある。私に愛想を尽かして、浮雲と話しているかもしれない。
暗い曇り空。無風。うつむく私に男子グループの笑い声。雨でも降りそうな空気だ。
一羽のハトが近くに舞い降りた。私を見上げている。会釈して見つめると、日光が背中を暖めた。ハトは学校へ羽ばたく。私はその先を目で追った。
正陽くんがいた。私を見つけて、目を離さない。彼は一人。ハトは学校を飛び去った。
声をかけようとした。しかし手を取られ、引っ張られる。急ぎ足で彼に追いつく。今度は私に目を向けない。雲はだんだんと晴れていく。
しばらく住宅街を歩く。正陽くんが私の手を強く握った。
「……ごめん」
「え?」
正陽くんは私に謝罪した。彼に顔を向けても、私に横目さえ向けなかった。強引に立ち止まる。彼も半歩先で止まった。手は離さない。
「さっきさ」正陽くんは続けた。「ちょっと、言葉が思いつかなくて」
それは今もそうなのだろう。一言話すのに無限の時を割いている。それがいじらしくて、子供っぽくて、子犬みたいなのだ。
となりにまで進む。彼の顔は夕日と同じ色をしている。
「ねぇ、私のこと好き?」
こんなにかわいいならいじめたくなる。
正陽くんは目を迷わせて、口をパクパクと開けて閉じて、耳まで燃え上がる。この表情も、彼の恋心も、全て私のものだ。
横から正陽くんを覗き込む。私を見てくれた。
「それは、その」
「じゃあ浮雲のことが」
「違う!」
そう叫んで、今度は苦しそうにうつむく。こうやって感情をミキサーのように乱すことに、飛び抜けた愉悦を感じる。浮雲なんぞにはこんな素晴らしいことできまい。
「行こっか」
私の言葉に何を感じたか、肩を安らかに落とし、歩き始める。手を繋いで、並んで。
「今日、文芸部の部長が彼女さんに拐われたの」
「へー、あの眼鏡の人?」
「うん、そう」面識はないけど、正陽くんは知っているようだ。おおかた、私がいつ頃かに喋ったのだろう。
「どんな人?」
「今時手書きで小説書いている変人さんだね。目付きは悪いかな。彼女さんに監視されているし」
「ふーん。やっぱ頭いいんだろうなー」
「そうでもないと思うよ。というか、眼鏡掛けているから賢いと思ったの?」
「文芸部に入っているからだけど」
遠回しに褒められた。
正陽くんの家は私の家から離れている。だから今日も、家まで送られた。よくある一軒家の我が家。その前で別れる。
「じゃあ明日」「じゃあな」
前に私が家まで送ろうとしたら、結構強めに断られた。心配だということだ。正陽くんに守られるヒロインとなるのも、悪くない。でも朝は彼の家に行っているのだけれど。
玄関の靴からして両親は帰っていない。家に入ってすぐ隣の階段を上り、二部屋ある内の奥の方、自室へ。隣は両親の部屋。壁は厚いので色々と心配はない。
ドアを開け中へ。パステルカラーでフェミニンな空気の我が城。かばんを置き、机に向かう。パソコンを取り出して、盗聴の記録を洗うことにする。これをしないと安心できないのだ。
それにしても、不快な記録だった。正陽くんに取り付けた盗聴器から得た音声は、全て保存されている。それを再生しているのだが、浮雲とのエンカウントが多すぎる。殺害意欲が今にも噴火しそうだ。すれ違う電車へあのメスを投げ込んでやりたいぐらい。
スマホが鳴る。メッセージだ。正陽くんから。「お弁当うまかった!」と、ただそれだけ。それだけで、私の怒りは浄化され、船に乗って運ばれた。今までのことを忘れ、正陽くんとのチャットにのめりこんだ。明日の献立とか、サッカーの話とか。
しばらくして、彼はお風呂に入ると言って会話を終わらせた。お風呂の中でもやればいいのに。少しの不満。それがまた不安に戻り、船は汚れて帰還する。やはり、浮雲のことが心配だ。彼があの女のことで怒ったのは、浮気の指摘に怯えたからではないのか。女の名に「浮」もあることだし。
玄関の扉が開く音。足取り、物音から両親であると理解。そういえば晩飯を用意していなかった。謝ろうと下に降り、リビングに行く。
「おかえり」お母さんに言う。お父さんは別の部屋かトイレか。
「ただいま、日長。お母さん達明日から出張だから」
思わず片眉を下げる。「急だね」
「とはいっても数日だけどね。あれ、晩飯なしか。まぁ冷凍でいいか」
「ごめん、忘れてた」
「いいのいいの。今日はさっさと食べて寝たい」
私の両親は共働きだから、いつもは私が料理する。だからお弁当も私の担当だ。出張ならば、今日は二人分で充分だろう。
少し大きなテーブルで冷凍パスタを囲む。食べ終わって、私は明日の準備を台所でする。親の二人はすぐ風呂に入った。子供がここまで育ったのに、両親ときたらお風呂はだいたいいつも一緒だ。喧嘩するところなんて見たことがない。意外にも誇れる親なのかもしれない。
朝ごはんと弁当の用意を終えた。弁当は私と正陽くんの分。両親は出張なので要らない。
落ち着くと、またあの不安がやってくる。正陽くんは浮気をしているのではないか。私への愛は足先まで偽物なのではないか。考えても仕方ないことで、時計の針を幾分か進ませる。その間、台所で立ち尽くした。
「どしたの日長?」
お風呂から出たお父さんが心配してくる。
「なんでもないよ」
「明日から家で一人なんだから、気をつけるんだよ。変な人が来ても入れちゃダメだから。あ、ショットガン持っとく?」
「小学生じゃないんだから……」なんでショットガン? 父はいつも変なことを言う。
明日から家で一人。この不安感で、一人。
自室に戻り、ため息。ベッドに腰掛け体育座り。一人でいるということが、ストレスに燃料を注いでしまう。気持ちと不釣り合いに明るい照明。水の中に閉じ込められたみたいだ。
ふと、昼の会話を思い出す。部長は、あの後彼女さんに監禁されたのだろうか。
監禁。一人。二人になる。
ベッドの上で立ち上がった。そうだ、正陽くんを我が家に閉じ込めればいい。そうすれば浮雲と会わないし、ずっと一緒にいられる。何よりこの不安を消して安心できる。
この閃きは地獄さえ照らすだろう。早速準備に取り掛かる。といっても多くはない。縄と、椅子と、それだけ。彼をずっと座らせて、徹底的に管理してあげるのだ。彼は大好きな私の料理をいくらでも食べられ、そして私がずっとそばにいる。私にとっても天国をしのぐ楽園になるのだ。
縄を物入れから持ってきたところで、別の予感に縛られる。
浮雲だ。あのビッチは男を逃がすだろうか。執念で攻めてくるのではないだろうか。学校で見た目付きに敗北主義者はいなかった。我が家を突き止め、救世主面で相対してくるかもしれない。あの女に惑わされた正陽くんが、甘言で狂わされない保証もないのだ。
パソコンをスリープから覚まさせ、ネットへ。情報は百戦の長。まずは浮雲について調べないと。
とはいえ難しいことはない。所定の方法であるサイトに入る。名は「ザクロ・ネット」と言う。神奈川県某市の個人情報なら何でも手に入る闇サイト。サイト主の「調査屋ザクロ」に、浮雲について依頼。送金を終え、すぐに情報が来た。
本名は浮雲憂日。脈窠高校の1ー5、サッカー部所属。兄がいて、元サッカー部。生まれつき運が悪い。しかし意思は強く心も強い。だが恋愛は未経験。筆跡も来た。その他、あらゆる情報の羅列が続く。必要なのは先述のものぐらいだ。ようするに、潰すなら大火力で、ということ。正陽くんの隣に立つのは誰がふさわしいか、脳髄に叩き込んでやる必要がある。
ここで一つ、私は己に条件を課した。あの女を負かすにしても、それは正面から堂々と勝利する、ということだ。別に慢心からではない。山坂正陽と愛を交わす人間として、暗闘や卑怯は慎まなければならない。もしそんなことをしたと彼が知れば、失望させてしまうから。
闘志とわずかに昇る怒りを胸に、今日は寝た。
翌朝。出張に行く両親を見送り、私も家から出る。朝練に合わせるため早い。山坂家の合鍵を手に、心地よい足取りで行く。住宅街の中に私達の家があり、故に静かだ。
数々の家を通り過ぎ、「山坂」という名が刻まれたプレートの家へ。彼の両親も共働き。しかも朝早いお仕事だ。だからこの時間にはいない。お義母さんに許可をとって(正陽くんにはとらず)作った合鍵を差し、開ける。
家に入って右手に階段。左手さらに奥のドア、その先がリビング。特に名乗りもせず入室。ソファやテーブルのある想像しやすいリビング。荷物を置く。いつも通り二階にいるのだろうか。だが行く必要はない。普段なら降りてくれるから。
しかし待てども来ない。なので二階へ。彼の自室は階段すぐそば。ドアをノック。「正陽くん?」返事なし。
開ける。ベッドの上で爆睡している正陽くんがいた。彼が寝ている時に来るのは初めて。
そばに忍び寄る。少年らしい童顔。整ったまつ毛。寝相の悪さで荒れた布団。引き締まったお腹の見えるめくれたパジャマ。
改めて、彼のこんな姿は、嬉しいことに初見だ。
私の左手は彼の腹部に伸びた。触れると、冷たい。筋肉の硬さとこの部位特有の柔らかさが手の平を走る。彼が呼吸する度に膨れ、縮まる。正陽くんの肉感が息を介して伝わり、皮膚以外の情緒が目に飛び込む。
左手は下腹部へ。その下へ。熱を求めて流れていく。心拍の音が頭の中で残響する。
ズボンに触れ、止まる。親指がズボンのゴム部分に当たっていた。この布をどかしてみたいという邪心が、心に手を添えた。
唾を飲み込み、左手を進ませる。
左手首が掴まれた。
「おはよ」
声に対し、汗と共に振り返る。正陽くんが顔を赤めながら笑っていた。どう反応すればいいか判らず目が迷う。
「……おはよう」
絞り出したのは朝の挨拶。謝罪ではなく。
「昨日は遅くまで起きちゃってさ」
と彼は言っていたが、手の平の感覚がリフレインして記憶は定かではない。いつの間にか外にいた。登校中のようで、正陽くんが話しかけてくる。私は幸福と衝撃で思考が追いつかず、何と返したか憶えていない。
学校に着いた。彼との会話という地球遺産を記憶できなかった。その悔恨に舌を噛みつつ上履きを取る。
「何これ?」
正陽くんが素っ頓狂な声を出す。見ると、何らかの手紙。
これまでの桃色は頭から消えた。敵の発見に身構える。すぐ近寄った。二人で文字を追う。これはラブレターだ。告白の要件はないが、好意を示しているのは間違いない。昨日見た情報からして、浮雲の文字。メスブタへの屠殺感情が限りなく高まった。
「……オレ、朝練に行くよ」
口角だけは笑顔の形をして、正陽くんは逃げるように去った。ラブレターを持ったまま。なぜ目の前で捨てなかったのか。私への誠意の証明はどうしたのか。あの女め。彼をたぶらかす売女め。
1ー2、私の教室へ。不快感に表情を歪ませながら今日の準備。そして、浮雲を潰す心を定める。どうせサッカー部にいるのだろう。私がいかに彼の隣に立つにふさわしく、己が消えるべきなのか。理解させてやる。
あの女の意志が強いならば、私からは逃げまい。逃げるなら、そもそも私の敵ではない。
廊下に出て、いつものようにグラウンドへ足を進める。1ー5から人が出てきた。茶髪、女子用の制服。
「おはよう、浮雲憂日さん」
私が声をかけると、小動物みたいに縮みあがった。そして警戒の目付きで私を捉えた。
「……おはよう、北坂日長さん」
「これから部活? 私も着いていくね?」拒否権はないぞ。
「う、うん。いいよ」
隣に立ち、あえて歩速を落とし、たっぷりとお話をする。
「貴女って、サッカー部のマネージャーさんなんだよね」早速話しかける。「やっぱりお兄さんの影響?」
「なんで、それを?」
「正陽くんの『知り合い』だからね。仲良くなりたくて」
「そ、そうなんだ」
「正陽くんの調子はどう?」
「え? ……いいと思うよ」
「そうだよね。この市のサッカーってありえない動きすることあるけど、難なくついていけている。彼は昔から強くてね。別にサッカーを推していないこの高校に来たのは不思議だよ」
「強かった? 山坂さんはいつ頃から彼と?」
「小学生の頃。彼がサッカープレイ中に見せた、あの顔を見た時から」
「幼馴染だったんだ」
階段に着く。踊り場の窓が、私達の背中を照らす。
「うん、幼馴染。私はずっと、彼を見てきた」私は踊り場で立ち止まる。
「幼馴染なら」浮雲の語気が強くなる。彼女は階段を下り終え、止まる。「なんで彼の中学の話に、貴女が出てないの?」
「ふーん、そういう話もしたんだ」
「答えてよ」
私は浮雲を見下す位置にいる。自分の影が彼女を覆うのがよく判る。
彼女は知っただろう。私は小学生の頃から正陽くんを追いかけているのに、彼の過去に爪痕も残せていないと。高校に入ってようやく会話を初め、それまではただのストーカーだったと。これを正陽くんが知ったら、私への信頼、信用はなくなる。北坂日長は彼の隣に立てなくなり、立つのは浮雲憂日となる。
これは、マズイ。
……と思っているなら手を叩いて笑ってやる。この私はこのことで何かと思うほど脆弱ではない。むしろ、誇り高き日々だったと回想する。
「貴女は」沈黙に勝機でも見出したか、浮雲は一歩踏み出した。「昔からずっと山坂くんをストーカーしていたんだ。そうやってずっと、人のことを盗み見ていたんだ」
「そうだよ。とても楽しい日々だった」
「山坂くんにとってはそうじゃない!」
「じゃあ、いきなり正陽くんの家に行っても驚かれずに受け入れられた話でもする? 初対面の彼は私を知っていたよ」
浮雲は明らかにたじろいだ。
この女とは、正陽くんと共にいた時間が違うのだ。彼と私とは運命である。この木っ端とは違う。
さて、次だ。
「ねぇ浮雲。貴女は正陽くんのこと好き?」
私の笑みに何を感じたのか。自身の足元を見る。恥じらいが頬に現れる。しかし眼差しは弱々しい。
「……うん」彼女は肯定を示した。
「この私達の仲を引き裂くつもりなんだ」
「でも付き合っていないじゃん!」
「じゃあ告白しに行くよ。来る?」
またも沈黙。朝の空気は少し冷たく、背中の太陽だけが暖めてくれる。私の影に隠れる浮雲に温度はあるだろうか。
歯を上下噛み合わせ、目を細め「私も、告白する」と浮雲は言った。
「そっか。じゃあグラウンドに行こうね」
階段を降り、進む。浮雲が一歩後ろに続く。
グラウンドに出た。サッカー部はまだウォーミングアップの途中。話しかけても問題なさそうだ。
「正陽くーん」
手を振って、彼を呼ぶ。大きな声だったので、他の登校生徒の耳に届く。1ー2のクラスメイト達は「また坂ップルだ」「おあつい」とからかう。サッカー部の人々も「山坂の嫁が来たぞ」「さかはさかでも盛ってる」との声が挙がる。
正陽くんは汗をかきボールを持ちながらやってきた。この健康的なユニフォーム姿に官能を覚えたのは、これで何度目か。
「どうしたの。その、浮雲も一緒で」
「突然なんだけどさ」
正陽くんが好き。と言おうとして、言葉が詰まる。
いきなり恥ずかしくなった。
愛している家族に対して、改めて愛を伝えようとすると現れるあの羞恥が、舌と唇を固定した。正陽くんも察してくれたのか、頬を指先でかいた。
「私ね!」パニックに近しい状態で彼の片腕を掴む。ボールが転がる。「正陽くんのことが……」
彼の人差し指の腹が、私の唇に触れた。彼も真っ赤だ。ここまで赤いと不安になるぐらい。私だって汗を感じるほど頭が熱い。彼の指が私の唇に。このまま食べてしまいたい。
正陽くんは目を合わせて言った。
「言わなくても解るよ、鈍感」
彼が指先を離そうとしたので、思わず掴んでしまった。そのままパクリと咥える。もはや衝動だけで動いている。
しばらくそのままだった。
口から指を離す。私は彼に言った。
「お昼、一緒に食べよ」
いつもの誘い文句。なのに淫猥さが隠しきれなかった。
「うん、昼に」
彼はグラウンドに去った。サッカー部員にからかわれている。
クラスに戻ろうとして振り返る。遠い目をしていた浮雲がそこにいた。そういえばこいつもいたのだった。敵でなくなった瞬間、別の気持ちが湧いて出た。咳払いし、威厳を取り戻す。
「人の男、狙わないでよね。そういうことしたら不幸になるよ」
警告と、わずかな心配で、私は言った。流石にかわいそうになったのもある。意気消沈している彼女をそのままに、クラスへ戻る。朝練の観戦ができるほど落ち着いてはいなかった。
1ー2。窓からの太陽を浴びながら机に突っ伏す。
正陽くんは告白を実質受け入れた。浮雲は完全に打倒した。これ以上の幸せがあろうか。彼への熱情が止まらず笑みが洪水となってしまう。顔を上げてしまったら、だらしない姿が晒されてしまう。
ここまで来ると、監禁なんていらないんじゃないか。理性はそのようなことをかんがえる。しかし、絶頂を経験しても、人はその上を飢えて欲するのだ。彼を私の家に入れて、ずっとそばにいて、彼の全てを管理して。幸福の頂きは己で立てる。このバベルの塔を神は祝うハズだ。
彼を家に入れたらどうするかを妄想していたら、昼休みになっていた。視線を感じ、正陽くんを見る。彼の心拍音がここまで届くかのよう。立ち、彼のもとへ。互いに何も言わず、二人して中庭に行った。
いつものベンチに座り、鳥面樹を前にする。ハトが私達の近くに集まり、サボテンの花を持ってきている。不思議に思う間もなく、正陽くんにお弁当を渡す。
「ごめんな」正陽くんが謝ってきた。いきなりなので不安が生まれる。「味わえないかも」不安が死んだ。
彼が食べているさまをうっとり眺める。運動部が満足する量で、必ず眠くなる塩梅。
「ごちそうさま……」
もう眠そうだ。いい薬だったろう。私を見る目にも、トロリと色気がある。
「ここ」太ももを軽く叩く。「いいよ」
彼は耐えきれず、私の太ももに。膝枕だ。彼の心が、彼の体が、彼が今、私の手の平に。
少しギザギザした髪を撫でる。この快楽に囚われていたいが、今は計画の遂行だ。
お嬢様抱っこをして、立つ。職員室へ。早退の手続きをして、学校から出た。今から行くはバージンロード。正陽くんを完膚なきまでに私のものとする。
嬉しさのあまり町を全力疾走し、玄関を経由せず直接窓から帰宅した。あれからお姫様抱っこし続けた彼を椅子に降ろし、四肢を固定した。感涙に溺死するような事実として、今はまだ昼。この部屋で正陽くんとずっと一緒だ。愛する人と、ずっと一緒。
それから、彼の体を吸ったりなめたり頬ずりしたり見つめたり嗅いだり噛んだり口付けしたり愛を囁いたり抱きしめたりそばにいたり髪をしゃぶったりと、色々していたら夕方になった。
夕日が正陽くんの顔を照らしている。部屋の真ん中にある彼の椅子は、陽光を浴びるのに最適だ。ベッドはきちんと片付けられ、本棚にはほこりなく、机は整頓されている。そして私は正陽くんの写真を大量に撮っていた。スマホの容量はもう限界だ。情けない電子機器め。ベッドに座る。
ピクリ、と正陽くんの眉が動いた。薄くまぶたが開かれ、斜陽が目に入っていく。最初に訪れたのは疑問符なのだろう。寝起きの唸り声にはいささかの訝しみを含んでいた。
「おはよ、正陽くん」
ベッドから聞こえた私の声に素早く反応。目と目が合う。彼の眼に恐怖はなかった。私の学生服を一瞥。彼も学生服のまま。
「ここは?」彼は尋ねた。
「私の家」
「なんで?」
「監禁するため」
「なんで?」
「一つは浮雲との関係が不安だったから。一つは……もう我慢できなくて。こう、幸福指数限界突破ってやつ」
「じゃあ……いいや」
彼は苦笑で事を終わらせた。
これには少し驚いたが、なんのその。受け入れてくれるなら、それ以上はない。
これから共同生活が始まる。まずは食事からだ。
「ねぇ」両手を頬に当て、顔を近づける。「何が食べたい?」
「そっか、夕方か」彼は首を傾げ「生姜焼きがいいな」と言った。
「すぐ用意するからね」
思わず出た満面の笑みで答える。彼を見ながら後ろ歩きで扉を開け廊下へ。今にもステップしそうな足取りで階段を降りて、台所へ。
受験勉強をゴミ扱いできるほどの気合いで料理した。気合いを入れすぎて作りすぎた。豆腐とわかめの味噌汁(家族分)、大量生姜焼き(千切りキャベツとトマトを添えて)、ポテトサラダ(もはや作り置きの量)、卵焼き(無駄にデカい)、ほうれん草のソテー(普通の量)、ご飯。どうしよう多すぎる。
トレーに乗せて二階へ。扉を器用に開けると暗闇。しまった、夜になっていた。浮かれて電気を点けるのを忘れていた。
点けると、正陽くんの困り顔。罪悪感で及び腰になる。
「ごめんね」
「いいよ別に。それより、それ……」
「うん、作りすぎちゃった。おかわりまだあるよ」
私も椅子を出して向かい合う。彼は手も動かせないから、私が食べさせてあげることにする。
まずはほうれん草のソテー。
「はい、あーん」
「生姜焼きのほうが……」
「ダメ。野菜から食べるほうが健康にいいんだよ?」
「いやぁ、メインディッシュを……」
「あーん」
彼は口を開けて受け入れた。
生姜焼きを選ぶ。
「キャベツと一緒がいい?」
「お願いするよ」
「はい、あーん」
彼は黙って口を開く。
「はい、あーん」
「いや開けているけど」
「はい、あーん」
「……あーん」
彼は恥ずかしそうに言って食べた。その顔は至宝だ。
難しい表情のまま飲み込んだ。彼は遠慮がちに言う。
「なぁ北坂。手枷を外してくれないか」
顔面を笑顔に固定して返答する。「なんで?」
「いやその。これだと白米食べられないじゃん」
私の緊張はすぐ解けた。確かに、おかずを口にしてさらに米を口にするのに「あーん」は適さない。
いや、咀嚼中の口の中も正陽くんのなら……
「私は……」
「いやオレが困るから。あーんは嬉しいけどそれはダメだから」
ムッと歪ませた面持ちの私にも屈しない。正陽くんはジト目だ。
「……あーん!」
「いややらないよ」
仕方ないので手枷だけ外した。もしかしたらを恐れて睨みつけてしまう。しかし正陽くんは気にせずご飯を進ませた。とても美味しそうに食べるものだから悩むのもバカバカしい。私は彼の食事風景を飽きることなく眺めていたのであった。おかわりも対応した。
「ふー、ごちそうさま。もう食べられないよ」
「お粗末さまでした」
「北坂は食べないの?」
「あとで食べるよ」それに、正陽くんでお腹いっぱいだ。
彼は立腹気味な顔になる。
「北坂も食べろよ。オレがあーんするから」
「したかったの?」
「……悪いかよ」
そっぽ向く姿の愛らしさといったらない。
言うことを聞いて、食べさせてもらった。彼の箸やスプーンが私の口に運ばれる。気恥しそうにする正陽くんは絶景という他ない。
二人の食事が終わる。片付けて、彼をうしろから抱きしめる。
「ねぇ。一緒に寝よ」
「その前に風呂に入りたい。なんでか体がべたべたする」
「……それ、不快?」
意図せず鋭い口調になってしまった。彼は気にすることなく、
「まぁ、ちょっと」
と言った。これは私に付けられてと知らないからだ。だからこの発言は許容しよう。だから、次のは受け入れてもらう。
「じゃあ二人でお風呂に入ろうか」
「え、いや、え?」
「二人で、入ろう?」
戸惑う彼に手錠をかけ、私と繋げる。足と腰の枷も解き、彼は歩けるようになる。自由を困惑しながら受け入れ、正陽くんは立ち上がった。
「せめて水着つけてくれ」
「私の裸見たくないの?」
「……こっちは男で、その、学生で、つまりは獣だ」
「それは私にも言えるよね?」
「だから節度ってやつを……」
「ふーん」
彼の強情さにお腹がムカムカして、口角が下がる。彼の手を奪い私の右胸にあてた。私だってそこそこ大きいんだ。学生服の上からでも、彼を満足させることができる。
正陽くんの手の平の肉感が、右の胸から伝わってくる。少し動く硬い手。指先が乳房の上部をなでた。私のやわらかな部位が愛する人の手中にある。正陽くんは驚きと興奮で黙ってしまった。段々と理解できる現状に、私でさえ血が湧き上がる。
正陽くんの熱い目を直視できなくて、目を斜め下に向ける。体も顔も熱い。
「北坂……」
スイッチが入ったのか、私は抱き寄せられた。遠慮して呼吸を止めようとする。彼はそんなの気にせず、お腹を撫でた。下腹部へ至る。
「待って!」
彼を離そうと少し押す。どうせなら誘惑したい。後ろへ下がる。だが手錠に繋がれていることを忘れていた。体勢を崩し、背中から倒れた。つられて、正陽くんも倒れる。
痛みは少なかった。正陽くんが支えてくれたのだ。
私は今、彼の下にいる。押し倒されたように。
彼の手が、私の後頭部から離れて、広げられた私の手の平に重なる。
彼の目には私の目が映っている。
「お風呂に」目をそらす。「行こ?」
「手錠だと」鎖を掴んでいる。「流石にね」
結局、ロープで互いを結んだ。正陽くんが先にお風呂へ。浴室の扉は少し開けられている。私は脱衣所で体育座り。ロープは彼が動くたび引っ張られる。だから私の腕も動く。シャワーの音と相まって、触れていないのに生々しい。
私も入浴。彼は時々わざと引っ張って困らせてくる。ここまで積極的なんて、想定していなかった。着替え中も、彼は求めるかのようにロープを引く。
でもおかしなことに、自室に戻っても襲われることはなかった。
いっぱい期待した。たくさん待った。けど、彼は楽しそうに雑談するだけ。何かおかしいことをしただろうか。私の恋慕を弄んでいるのか。
「ねぇ」だから話す。「ベッドで、寝よ?」
彼は優しげな瞳で、ベッドに座る私を椅子から見た。
「先に寝てていいよ」
「一緒に……」
「椅子に座らせてよ。元々、そういう監禁だろ?」
なぜ強情を張るのか。解らないからこそ苛立ち、安心が崩れていく。
「もしかして、逃げるつもりじゃないよね」
怒気が吹きこぼれ、彼を睨む。正陽くんは面食らったようで、眉をひそめた。
「逃げる理由なんてないじゃん」
「ウソ。じゃあなんで一緒に寝てくれないの。もしかしてまだ浮雲と繋がっているの? 他に女がいるの?」
彼のこめかみにシワが寄る。図星だから怒ったのか、なんなのか。それが判る暇もなく近づいてくる。彼の表情からは暴力が連想された。おそらく頬に来るであろう衝撃に身を固める。目を閉じる。
しかし来たのは暖かい感触だった。目を開けて飛び込んだのは、正陽くんが私の頬に触れ、じっと覗きこんでいる光景だった。
「そんなに、オレが信じられないの?」
「じゃあなんで」
「キミを先に寝かせたいのは、キミの寝顔が見たいからだよ。オレだけしか見られてないじゃん。鈍いなぁ、もう」
言い終わるにつれ、紅潮の意味合いが変わっていった。
静寂が場を支配した。秋の焚き火のような熱っぽさ。
頬に触れる彼の手に、私の手を重ねる。狂愛に溶けた眼差しを向け、私は縋るように言った。
「不安、なんだ。貴方がどこかに行かないかって」
正陽くんは私の顔から手を離し、となりに座る。肩に手を置き抱き寄せて、密着。いつもの幼さは、今の彼に見えない。
「じゃあ、一週間ここにいるよ。その間、オレとキミはオレ達のものになる」
感情の昂りに任せて、正陽くんの肩に頭を預ける。
夜。死んでもいいぐらいに月が綺麗だった。
「じゃあ寝ようか」
二人してベッドに横になる。私のベッドに正陽くんがいる。先の話の通り、彼は私の寝顔を見るつもりだ。だからじっと見つめてくる。私は眠るまで、ずっと撫でられた。
次の日。ここからは幸福の専制主義が私の思考を占領した。学校に行くのは正陽くんに勉強を教えるためで、もはやそれ以外ない。クラスメイトからは彼の消息を尋ねられた。もちろんただの休みだと答えた。だが私が心配していないことから察しはついているのだろう。特に言及はされなかった。
恋の成就を報告しに、昼、鳥面樹に行った。そこでは浮雲がハトにいじめられていた。足先を突っつかれ、袖は引っ張られている。人の恋路に割り込もうとしたバチだろう。流石にやりすぎなのでハトをおっぱらった。彼女は実に複雑そうに感謝してきた。
文芸部なんて断りもいれずにサボってやった。どうせ部長一人だが知ったことではない。帰りの途中でスーパーに行き買い物。家では正陽くんに勉強を教え、ご飯を食べ、動画を見たりくっついたり。掃除も掃除も私がやろうとしたが、彼はかたくなにやりたがった。曰く「ヒモにはなりたくない」とのこと。ヒモ。ありだ。とてもありな選択肢だ。彼を養うのも悪くない。しかし、これは果たして監禁なのだろうか。もうなんでもいいが。
これが三日続いた。この間、彼はこう言っていた。
「キミをマネージャーにしたくなかったのはさ。他の男に絡まれてほしくなかったんだよ。キミはかわいいし美人だし。これぐらい、いえばよかったね」
またある時は中々衝撃的なことを言う。
「ねぇ、これ盗聴器?」
「え?」
正陽くんは前に首につけた盗聴器を見せてくる。何であるかを問われれば言い訳もできる。しかし直接的に告げられるとは。
少しの冷や汗を見て、正陽くんは快く笑った。
「別にいいよ。不安だったんでしょ? 流石にオレはここまでできないけど。あ、そうだ。今夜は耳元で色々囁こうか? イヤホンみたいな」
もしかして、正陽くんは私のこと、かなり好きなのではないだろうか。そのような幸せに包まれた三日間であった。
そして、四日目。金曜日。監禁開始は火曜日。一週間までまたある。その上休日を挟んでいるのだ。もしかしたら、もしかしたらがあるかもしれない。
この日も私はすぐに帰った。リビングでは正陽くんが掃除をしている。この事実だけで倒れそうだ。私は晩御飯を作る。今日はオムライス。
冷蔵庫から玉ねぎを取り、ふと正陽くんを見る。私のスマホを覗いていた。適当に投げ置いたものだ。見られて困るものは入れてないが、やはり恥ずかしい。なので少し言葉をかけようとした。
「なぁ」彼にいささかの怒り。「部長って、文芸部の部長のことだよな?」
「そうだよ?」連絡帳を見たようだ。
「男なんだよな?」
「うん。……あぁ、そんな関係じゃないよ。あの人には彼女さんがいるし、だいたいあんなのに」
「でも、オレは直接、キミ達の関係を見たことはない」
彼の顔を見ることはできない。うつむいて、あえて背けているからだ。恋ではない激情から、手が震えている。当たり前だが文芸部でやましいことはない。そのことを伝えようとして、
「北坂。キミはこいつと何をしている?」
この威圧で妨げられた。
「何もしていないよ。本当に部長部員ってだけ。それにここ最近は部室にすら行っていないよ。嫌な気持ちにさせてごめんね。すぐに消すから」
「キミは」私の話を聞いていない。「日中を学校で過ごしている。オレはその間のことを知ることはできない」
「じゃあいつでも聞けるように」
「今から対策しても、今までの疑惑は消えないだろう」
正陽くんは拳を握りしめ、スマホを投げ出す。そして私へ向いた。心に風穴を開けるような暗い瞳。彼のもとへ歩もうとする足に縄をかけるには充分な力だ。
「北坂」ふるえる私へ言葉が来る。「オレは自分がやましいことをしていないという証明のためにここにいる。キミへの好意を明らかにするためにここにいる。キミの不安の解消のために、ここにいる」
罪を数える審判者のようだ。
「でもさ。今度はこっちも不安になったんだよ。キミはもしかしたらオレ以外とくっついているかもしれない。オレは便利屋扱いかもしれない」
私は反論できなかった。彼を不安から閉じ込めた私に、そもそも反論の権利なんてないのだ。
でも、彼にしか好意はなく、他の人なんかに関わっていないことは本当なのだ。彼が納得できずとも、彼が知らずとも。
涙が頬を伝う。何とか口を開く。
「貴方の思うようなことは、一つもないよ……」
正陽くんは私の言葉なんて聞かずに来る。怖くて、壁まで下がる。背中がつき、正陽くんは眼前。私の頭部すぐ横を殴りつけた。大きな音が耳元で鳴る。胸の上に両手をあてて怯える私に対し、彼は言う。
「オレはもう充分証明したと思う。だから、次はキミが証明をすべきだ。あの部長とやらと何も関わりがなく、オレだけを好いているということを明らかにするんだ」
私が浮雲について問い詰めている時の正陽くんの気持ちが、ようやく理解できた。どうして解ってくれないのか、その苦しみ。なんて愚かだったのだろう。彼の気持ちを知ることなく、一方的に追い立てて。それなのに彼は私を受け入れた。それなのに、疑わせてしまった。
彼の不安を取り除くためには何ができるだろう。追い詰められた現状で思考は正しく回転せず、あらぬ方向へ結論を求めてしまう。
私は服に手をかけた。脱ごうとする。その手を、正陽くんは力強く奪った。
「そうじゃない! そういうのを求めているんじゃあない!」
「……じゃあ、何をすれば」
そう言うと、初めて困ったかのように身体を引いた。どうして欲しいのか考えていなかっったようだ。でも実際、そうやって白色の証を立てればいいのか。私にも解らなかった。
正陽くんはそのまま身を引き、私から離れる。過ぎてみると良い時間だったのではないかと思える。彼に言い寄られるなんて中々ないから、落ち着いた時に楽しみたい。それにあんな壁ドン。なんて、状況と乖離したことを考えてしまった。
「オレは、昔からキミが、日長が好きだった」正陽くんは語り出す。「キミはいつもオレだけを見ていてくれていた。小学生の頃も、中学も、今も。今の高校を選んだのは、恋愛についていい話がいっぱいあったからだ。そして、キミが選びそうだったからだ。結局、キミは話しかけてくれた。とても嬉しかったよ」
まさに、愛の告白。私がすべきだったこと。彼はずっと私を……どうして気づけなかったのか。
「だからさ」
我が鈍感の罪なのか。彼が口にした言葉は、
「家に、帰らせて欲しい」
という、極刑判決だった。
帰る。家。家に帰る。帰宅。正陽くん、帰宅。正陽くんは家に帰る。
正陽くんが家に帰ってしまう。
息を吐くと、途中で止まる。少し吸って吐いて泊まる。それが続く。胸の上下が止まらず、どうにかしようと深く吸って、しかし犬のように荒い息遣いとなる。壁に押し付けられた背中がずるずると下降し、いつの間にやら座っていた。冷たいフローリングの硬さが臀部から伝わる。胸を抑えてどうにかしようとしても、呼吸はどうにもならない。
正陽くんが近寄る気配がする。目を閉じている私には確かなことは解らない。だめだ。来てはダメだ。彼にとってこれは決別。彼のことが心の底の下より好きなら、罪悪感で楔を打ってはならない。
息を、吐ききった。
「いい、よ、帰って、いい、よ」
涙声で、そう言った。
床を蹴る音が数回響く。正陽くんは走って去ったようだ。家に残る音は、私の泣き声だけだった。
そんなに、嫌だったのか。そんなに、私と離れたかったのか。そんなに、私が嫌だったのか。
ならば、そんな気持ちを持っていた彼を閉じ込めていた私は何だ。なんて奴なのだ。満足していたのは私だけ。彼に山となるほど不快感を抱かせた。
私はとんでもないクズだった。彼の気持ちに気付かなかった。最上の好意にさえ。
もう、消えてしまいたい。こんな自分、消えてしまいたい。
ただ泣き伏して、来ない未来を待ち望む。
玄関で物音がする。誰だろう。誰でもいい。私を消してくれるなら誰でもいい。
「……日長!」
幻聴か。正陽くんの声がする。本物だとしても、その顔には鬼の怒りがあるハズだ。
「日長!」
なつかしい暖かさが私の肩に触れた。気になって、顔を上げる。
汗をかき、肩で息をしている正陽くんがそこにいた。
「ごめんな、日長。久々の運動はキツくてさ。休みなしだったし」
私は、正陽くんの意図が理解できないが故の困惑で、泣き止んでしまった。
彼はポケットから何かを出した。輪っかで、取り外し可能なリードがある。片手で私の顔を伝う水滴を拭いてくれる。
「怒鳴って、怖がらせて、悪かった。キミが一人学校にいるってことは、他の男と関わっているのかって考えて、イライラして……」私の瞳から何を感じ取ったか、さらに目を伏せる。「ごめん、言い訳なんて」
私は彼の頬に両手をやった。
「ごめんね、正陽くん。気付くべきだった。悪いのは、私だから。なにか、私にやりたいことあったら……好きにしていいよ」
「じゃあ」
彼は先の輪っかを見せた。よく見たらチョーカーだ。
「これを、首に着けて欲しい」
受け取り、見る。目立つ赤い革製。裏側には「山坂正陽のもの」と書かれていた。彼のチョーカーに目を向ける。「北坂日長のもの」と書かれている。
「……貴方が、つけて?」
上目遣いで、ねだるように言う。彼は喜んで着けてくれた。心地よい圧迫感が、心に幸福を凝縮する。
「オレにも」
私は正陽くんにチョーカーをつけた。同じく赤色。私のものである証。
「……北坂」
「日長って呼んで」
「日長」
彼の手が背に回り、私の手を彼の背中に回す。力強く抱きしめて、永遠を確かめあった。
正陽くんの手が私の髪をすく。撫でる。
それが、朝まで続いた。
オムライスは作り忘れた。
ヤンデレのほうが攻められてタジタジになる話が少なすぎるので書きました。