足利義周の上洛
1568年夏 宇治 風間秀長
松永久秀様の苦境に一筋の光明が射す朗報が届きました。足利義周様が東国諸将に推戴されて上洛を開始したのです。三好長逸らが推戴する足利義栄様の将軍就任に反発する動きでありました。松永様は義周様の陣営に組したことで、三好勢から圧力を受けていたのです。松山の義父上も松永様の与力として苦しい立場にありました。
「小一郎、筒井に攻められて久秀も苦しそうじゃが、一息つけるかもしれぬな。織田信長が美濃・尾張・伊勢・三河の軍勢を率いて上洛するようじゃ。浅井や朽木といった近江の者達も立つそうじゃ」
「義父上、伊勢貞良様の軍勢も上洛するようです。聞いておられませんか」
「なんじゃと。貞良殿は関東に下っておったのではなかったか。織田の軍勢に加わるというのか」
「いえ、北条家の軍勢と共に上洛するようです。義周様の動きに連動して伊勢から大和に入ることになっているようです」
「なるほど、相模屋は北条家と懇意であるからな。早速、久秀に報せよう奴も喜ぶであろう。詳細を聞かせてくれるか」
北条家の軍勢は一門の北条氏堯様と氏光様を旗頭として八千の上洛軍でありました。駿河・遠江を通り今橋湊から海路伊勢に向かい。雲出川沿いに大和に入るのです。
「そのような大軍を今川や北畠が易々と通すとは思えぬが大丈夫なのか」
「今川家の当主が替わり、北条一門となったのです。今川領内は問題なく通過できると思います。むしろ今川家も与力の者を付けるかもしれません。北畠家は鳥屋尾満栄様が与力として北条家の案内を務めるとのことです」
「ほう、北条と北畠はそれほど昵懇であったのか」
「北畠一門の具親様が北条家に仕えているのですよ。近衛の姫様の行列にも加わっておりましたよ。北条家当主氏親様とは合婿の関係で偏諱も賜わっていると聞いております。北畠勢を加えると一万を超える軍勢となりましょう」
義父上は文をしたためると私に松永様へ届けるように仰せになったのです。松永様の居られる多聞山城は筒井勢に囲まれて籠城戦の最中でありました。私は段蔵さんの手引きで松永様と連絡を取り、松永様配下高山友照様の治める宇陀の沢城にて北条勢をお迎えすることになったのです。
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北条勢一万二千と畠山高政様の率いる紀州勢八千は、多聞山城に籠城していた松永久秀様を救出すると、松永勢も加えて信貴山城の奪還を果たしたのです。
信貴山城の戦いでは明智十兵衛様が目覚ましい活躍でありました。明智隊は六間はあろうかという切岸を西堂流壁登りを用いて登りきり、堀切の高さに安全だと油断していた筒井勢を討ち負かしたのです。この奇襲にて筒井順慶は明智様配下の可児才蔵によって討ち取られました。当主を失った筒井勢は抵抗を諦め降伏したのです。
「明智様、信貴山城ではお手柄でしたね」
「おおっ。小一郎殿か、某の手柄などそれほどの事でもありません。貴殿の兄上ならばもっと容易に城を落としたでありましょうな。風間衆の軽業のお蔭でござる」
都落ちした頃の悲壮な明智殿と比べると、今の明智殿はずいぶん明るくなっているようです。明智殿から江戸の様子や親しい者達の話を聞くことができて、江戸に居た頃を懐かしむ気持ちになっておりました。
「ところで明智様、これからはどちらに軍勢を進める事になりそうですか」
「機密に関わることゆえここだけの話にして下され。堺に向かう意見と京を目指す意見に割れておったが、堺を攻めることになりそうです」
京へ進軍すべしと言っていたのは紀州勢を率いる畠山高政様と北条家の目付として従軍している細川藤孝様であったそうです。織田勢が観音寺城の戦いで六角勢を討ち破り、いよいよ入洛も近いとの報せが届いたのです。織田勢に先んじて入洛し、足利義周様を京にてお迎えしたいとの意向でありました。
一方、堺公方足利義栄様に圧力をかけようと考えていたのは、伊勢貞良様や北条氏堯様らの関東勢と大和国の支配を回復したばかりの松永久秀様です。鳥屋尾満栄殿の「兵站確保のために和泉を抑えるべし」との意見に湯川直春殿。保田知宗殿、津田算正殿ら紀州勢が賛同したことで、畠山高政様も渋々納得したようです。
「南河内の高屋城を落としたら、和泉の岸和田城を攻めて堺を目指す事になろう」
「高屋城は三好康長が守りを固めていると聞いております。松永様とは犬猿の仲ですから抵抗は激しいものとなるかもしれませんね。岸和田城の篠原長房も阿波勢の旗頭として堺公方の擁立に積極的でした。かなり厳しい相手ですが、和泉が平定されれば兵站は楽になると思います」
高屋城を守る三好康長は三好長慶様の大叔父にあたります。三好義継様が三好長逸らの元を逃れて、松永様を頼った際には松永様に同心していました。しかし堺公方足利義栄様が立つと義継様を見限ったのです。
「小一郎殿は畿内情勢に詳しいな。長い間、関東に居ったゆえ儂もだいぶ疎くなっておるようじゃ。伊勢様より概ねは聞いておるが細かい三好家の内情までは把握しきれておらぬ。少し指南して貰えぬだろうか」
「明智様のお役に立てるかは解りませぬが私の知る限りの事はお伝え致しましょう」
三好家は長慶様亡き後、派閥争いが起きていました。【大和】に勢力を持ち三好義継様を担ぐ松永久秀様の一派。三好康長の一派は堺公方を擁立した阿波衆の篠原長房と手を組み【河内、和泉】に勢力を張っています。そして三好三人衆と呼ばれる三好長逸、三好政勝、岩成友通は畿内与力として三好家中で重きを成し【摂津や山城】に勢力を持っていたのです。三人衆は堺公方擁立派として松永様と対立しておりますが堺公方の上洛には積極的ではなく三好家中の権力争いで利を得ようとしているようです。
「なるほど、長慶公が健在であった頃の三好家しか知らぬ身からすると驚くことばかりですな。伊勢貞良様の家臣としては三好家に思うところもありますが、盛者必衰の理とは申せども考えさせられる事ではあります」
「そうですね。松永様は三好義興様が若くしてお亡くなりにならなければと惜しんでおられました。皆好き勝手な事ばかり申して長慶様の遺志を蔑ろにしておると歯痒く思っているようです」
「ふふっ。三好討伐の為に松永弾正と轡を並べることになるとはな。関東に下った時は想像もしなかった事です。高屋城攻めも共に励みましょうぞ」
「はい。しかし私は松山の義父上と共に槙島城に詰める事になると思います。三人衆の動きが気になっておりました。全軍で京へ向かうとなればその心配も無かったのですが、堺に向かうとなれば三人衆の動きに対応せねばならないと思います」
三好三人衆が阿波衆の援軍となり和泉・河内に向かうのか、それとも手薄になった京から大和を伺うのか三人衆の出方は依然はっきりとしていません。槙島城は山城から大和へと通じる街道を護る要の城なのです。
「それでは仕方ありませんな。戦場は違えどもご活躍と御無事をお祈りいたしましょう」
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「義父上、織田勢の進軍は殊の外早かったですね」
「六角の敗退で三人衆が腰砕けになったようじゃな。儂も拍子抜けじゃ。弾正たちもようやく岸和田城を落としたようじゃ。堺公方も阿波に逃げてしまったと書状にあった。おっつけ京に戻れるであろうとのことであったぞ」
織田勢が上洛すると、岸和田城の援軍となっていた三人衆が本拠地の摂津を奪われることを怖れて兵を退いたのです。織田勢は三人衆の拠点であった摂津の城を次々に制圧していきました。畿内から足利義栄を推す三好勢が一掃されて、足利義周様を推戴する新たな体制が整えられる事になったのです。
伊勢貞良様は幕府政所執事を拝命し幕府の重鎮となりました。更に所領として丹波船井郡を拝領し丹波守護となったのです。貞良様は明智様を丹波守護代に任命して八木城に入れました。しかし、丹波守護といっても国人衆の勢力が強く実質的な所領は船井郡のみにとどまっているようです。
北条氏堯様は和泉国守護を拝命する事になり、幕府の相伴衆にも任じられたのです。北条宗家から独立したことで関東との軋轢を心配いたしましたが、上洛前から武蔵守様に言い含められて居たようです。守護は拝命する事になりましたが、新たな任官として京職をという公方様の斡旋はお断りになったそうです。
畠山高政様は紀伊守護に加えて河内守護をも望んでおりました。しかし南河内半国守護しか認められず。やや憮然としていたそうです。北河内の半国守護は三好義継様が務めることになったのです。これには松永様の後押しがありました。当初、松永様は山城国南部の宇治の地を義継様の所領として望んでおりましたが、織田信長殿が難色を示したことで妥協案として河内国の分割となったようです。そして、松永様は大和国を実質平定していた事で大和国守護を認められました、しかし河内半国の見返りとして、山城国に持って居た所領は織田家に割譲される事になったのです。
「弾正も冷たい男じゃ。宇治は織田領となるゆえ、織田に従うか嫌なら大和に所領を宛がうゆえ家臣になれと放言しよった。儂は如何なっても構わぬが慶千代の事を考えると宇治から離れとうは無いのじゃ」
「慶千代は私がお護り致します。御心配には及びませんよ。義父上が宇治の領主であれば心強い事ではありますが、相模屋の子として不自由なく暮らす事もできます。慶千代が武士になりたいと望むのであれば佐渡にも身内が居ります」
「そうであったな。しかし、宇治にて慶千代を護りたいというのが儂の願いじゃ。織田に頭を下げよう」
こうして義父上は織田信長に宇治の所領安堵を願い出る事になったのです。
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「弾正忠様、こちらに控えますは、槙島城主松山重治殿と相模屋の風間秀長殿、茶商の上林久重殿でございます。宇治の所領安堵を願い出ております」
弾正忠様とは織田信長様のことです。これまで尾張守を名乗っていたそうですが、上洛の貢献が認められて正式に従五位下弾正少忠に任官されたそうです。我等を紹介してくれたのは、織田家の申次を務める塙直政殿です。驚くことに塙直政殿は他家の申次の経験がなく我等の申次が初めてだというのです。
織田家は急激に勢力を拡大したために家中の体制が整っていないようでした。所領安堵を願い出るにも伝手を探すところからとなったのです。なんとか松永様を通じて塙直政殿を紹介されましたが、馬廻衆から吏僚に抜擢されたばかりだというのです。
書状を託してもお目通りが叶うかと不安になっておりましたが、信長様はいきなり来いと呼び出して来ました。破天荒だとは思いましたが、信長様は果断な方だとの噂を聞いておりましたのですぐに準備をして参上したのです。
義父上がお目見えの挨拶を終えると「であるか」と甲高い声が返ってきただけです。機嫌が良いのか悪いのかさっぱり解りません。驚きながらも顔を伏せたままでおりました。信長様は丹羽長秀殿という側近と二言三言話をすると裁定を告げたのです。
「槙島城は京の南の守りに必要じゃ。代わりに飯岡城を遣ろう。松山家は三好筑前殿の懐刀であったそうじゃな。儂の息子【帯刀】を遣わすゆえ養子とせよ。そなたには商家に嫁いだ娘がいるそうじゃな。離縁させて帯刀と娶せるが良い」
なんとも無茶苦茶な言い分であった。槙島城を取り上げた上に松山家を乗っ取ると平然と言ったも同然なのです。これには義父上も唖然とし、慌てて「怖れながら」と宇治が本貫地であると訴えたのですが「くどい」と一言で断られてしまいました。
私は寧々と離縁されるかもしれないと必死に頭を巡らせたのです。女将さんより聞いた信長様の為人の噂を思い出しました。頭脳明晰であるがゆえ、回りくどい言葉を嫌い簡潔な意見を好むというものです。信長様の京支配の戦略に置ける槙島城の位置づけを想像しました。
「怖れながら、京の南の守りは伏見に城を築くべきかと存じます」
発言を許されていない立場でしたが、打ち首覚悟で意見しました。寧々と離縁など受け入れられなかったのです。近習達が気色ばむ中、信長様は「ほう」と声を出すと丹羽長秀様に山城国の地図を持って来させるように命じたのです。生きた心地がしませんでしたが、信長様は少し考えると私に面を上げるように命じたのです。
「槙島より伏見が優れている理由を申せ」
女将さんの簡潔に言葉を選べという言葉が脳裏を掠めます。
「巨椋池が溢れると京と分断されます」
槙島城は北西に巨椋池という大きな池があります。梅雨の時期などは良く氾濫が起こり京への道が困難なものとなるのです。一方伏見は巨椋池の北側に位置し、東の山科方面へも睨みが効く要衝の地でした。小高い小幡山があり城郭とするにはうってつけだったのです。
「であるか。ならば何故、槙島に拘る」
信長様の質問は意図が良く解らないです。先ほど義父上が本貫地だと訴えたばかりではありませんか。頭を巡らせて信長様の意図を必死に読み取ろうとしました。信長様の視点からの疑問が何であったのか、理解できた自信はありませんでしたが即答を好むとの言葉を思い出したのです。
「分相応を望むからです。伏見は身に余ります」
「ふっ、つまらぬな。そなた名は何と申す」
周囲がざわつく中、風間小一郎秀長と名を名乗り、松山重治の娘婿であると伝えたのです。
「娘婿であったか、離縁の話は取り下げよう。代わりに伏見に城普請を命ずる。重治、良い婿を持ったな。槙島の所領は安堵いたす。だが養子の話は呑んでもらうぞ」
こうして嵐のような信長様との初対面は終わったのです。