真田昌幸の処遇
1568年春 江戸城 北条氏親
「真田昌幸と申します。お呼びと伺い罷り越しました」
武田家を出奔した真田昌幸が真田俊綱を頼り落ち延びて来た。武田義信の更迭に異を唱えて信玄の不興を買ってしまったのだ。
俊綱からの報せを受けて、すぐに江戸に呼び出した。真田昌幸は武田信玄の近習を務めた側近で、武田家の戦略や信玄の為人を知るにはうってつけの人物であった。
真田昌幸は小柄ながらも鍛えられた体躯である。面長な顔と鋭い目付きで叔父に当たる真田俊綱と良く似た男であった。同席した相談役の三人も同様の印象を持ったようだ。
「義信殿の事は残念であった。飯山でお会いして中々の人物と感じたものじゃ。其方も辛いところじゃな。妻子は無事なのか」
「はい、某は直江津の代官を務めておりましたゆえ、妻子も直江津に居りました。出奔を決めた際、配下の者に命じて柏崎に逃れるように手配したのです」
一応裏付けは取ってあるが、昌幸が間者で無い事の確認が必要である。昌幸の妻・山手殿と三人の幼い子供たちも真田俊綱に保護されたようだ。
「義信殿に対する折檻状の内容は北条家でも把握しておる。されど言い掛かりのような印象を拭えぬのじゃ。信玄公は如何なる思いで廃嫡を決めたのであろうか」
「大殿様のお考えを推し量るのは難しゅうございますが、北条家を怖れたのではないかと感じております」
「それは異な事じゃ。我等は武田家との盟約を重んじておる。手を携えて共に栄える心算であった。義信殿の奥は我が妹ではないか」
「言葉足らずでした。大殿様が怖れたのは北条家の政のあり方にございます」
昌幸の感じたところでは、信玄は北条家の寺社に対する政策を苦々しく思っていたようだ。板部岡江雪斎の宗教改革によって少なくない数の行人が甲斐に流れていたのだ。
仏教に深く帰依していた信玄はその全てを受け入れ「北条家は寺社を軽んじておる。仏罰が下らねば良いがな」と零していたそうだ。
しかし、江雪斎の改革は厳しくはあるが、理不尽なものではなかったはずだ。学侶の生活を保証し、溢れた行人達の再就職先も斡旋していたからだ。甲斐に流れた行人は贅沢を覚えた者達が多かったのかもしれない。
「大殿様はお屋形様が甲斐で楽市を興した事に対して、寺社の門前町の衰退を招くと苦言を仰せでした。仏罰を怖れておられたのやもしれませぬ」
「なるほどな。信玄公は頭脳明晰で武家の棟梁でなかったなら智徳の優れた名僧となったであろうとの噂があったが……。北条家の政とは相容れぬな」
「はい。大殿様は北条家の政を模倣しようとしたお屋形様を危ぶんでおりました。甲斐国衆が反発した事が廃嫡への後押しになったのだと思います」
「残念な事じゃ。儂から見れば義信殿は新しきものを貪欲に取り入れようとする良き為政者だと思えた。お竹も大事にされていて良き義兄弟だと思っておったのじゃ」
信玄の考えを識り、はたと気がついた。信玄から見た北条氏親は得体の知れない化け物の様に映っているのではないか。人は理解できない相手に対して色々な感情を持つ。興味・困惑・無関心・嫌悪・恐怖などだ。信玄は北条家との同盟に利を感じながらも複雑な感情を持って相対していたのかもしれない。
「昌幸。儂に仕えよ。儂は家中の者達からも破天荒だとか、突拍子も無いとか、常識が無いと言われる事があるのじゃ。常識人である信玄公ならどう考えるのか儂に指南して欲しい。其方なら打って付けじゃ」
「勿体ないお言葉ですが、某を召抱えて武田家と北条家の関係を悪くするおそれもあるかと存じます」
「其方一人の事で関係が悪くなることもあるまい。名を変えれば解るまい。其方に名を与えるつもりじゃ」
「そこまでして頂けるとは思いもよりませんでした。武蔵守様の意に従いましょう」
こうして真田昌幸は北条家の家臣となった。断絶していた福島家の名跡を与えて、真田昌幸は【福島幸村】と名を改めたのである。
◆◆
真田俊綱らが退出すると相談役の三人が居残り、近々行われる大評定での議題に関する情報交換が行われた。最初に発言したのは伊勢貞良であった。
「尾張におられる足利義周様の使いとして細川藤孝殿が参られました。我が屋敷にて逗留しております。某も返事を保留しておりますが、武蔵守様のお考えをお聞きしたいのです」
細川藤孝は伊勢貞良に幕臣に復帰して欲しいと伝えてきた。伊勢氏が更迭された後、幕府の政所は全くといっていいほど機能していなかった。朝令暮改ともいえる裁定を行い混乱したのである。また、伊勢家を通じて北条家の支援を期待しているようだ。
「正直な気持ち、関東では足利の権威を必要と感じておらぬ。今のままでも領内は平穏無事に治まってはおるが、足利義周を擁立する織田信長の事が気になっておるのじゃ。今川相手に一歩も引かず、美濃の一色家を平らげた。更に武田家と誼を結び、伊勢湾の流通を牛耳っておる。侮れぬ相手じゃ」
「武蔵守様は事ある度に織田家を気にしておられましたな。此度の上洛計画も大和の松永、近江の浅井、河内の畠山等の後援を受けておりますが、主力は織田の軍勢となりましょう。ただ、三好家や六角家もおります。簡単に事が進みましょうか」
「三好長慶や六角定頼が亡き後、三好家も六角家も当主の求心力が無く家中はまとまっておらぬ。三好家は四国勢と畿内衆・松永派と分裂しておるし、六角家も蒲生氏など有力家臣の言いなりじゃ。儂は案外容易に上洛が成し遂げられるのではないかと思っておる」
「なるほど。仮に上洛が果たされたなら、織田家が最大の功労者となります。今川家の後ろ盾となった北条家としては面白くありませんな」
「そうじゃな。足利義周殿や幕臣達は織田信長に推戴されての上洛と考えておるようだが、足利家の力だけでは上洛出来ないという見方もできる。信長を利用するつもりで、信長に利用されてしまうやもしれぬ」
史実の信長を鑑みると、京の警護を名目に上洛した大内義興や朝倉宗滴とは方針が違うのだ。三好長慶と同様に上洛の過程で勢力を拡大する事になる。更に足利家の権威を利用して畿内に覇を唱えることになるのだ。
「もしや、武蔵守様は上洛をお考えですか」
「上洛も考えたが北条家の利になるとは思えぬ。足利家は北条家と織田家を天秤に掛けて漁夫の利を狙うように立ち回る事になろう。それに大内義興の例もある本国の統治を疎かにしては本末転倒じゃ」
「ならば静観するおつもりですか」
「いや、織田家への牽制は必要じゃ。氏堯叔父上を名代として上洛の軍は催したい。貞良殿にも幕臣として復帰して頂きたいと考えおります。光秀もお返し致しましょう」
「面白い、承りましょう。どれほどの事ができるかは分かりませぬが、北条家から受けた恩を返す良き機会です。細川殿にも良き返事ができて安堵しました」
こうして足利義周の上洛に与力することが決まった。総大将を北条氏堯として久留里衆と明智隊の総勢七千が上洛軍となり、北畠具親殿を案内役として、遠江から伊勢に渡り雲出川沿いに京へ進むこととした。織田家との競合を避けたのである。
◆◆
次に発言したのは原胤貞である。軍事の顧問として、支城の軍団との申次を務めているのだ。特に利根川の東遷と越後信濃川の分水事業が行われている。利根川には結城衆と美浦衆、信濃川には長岡衆と本庄衆、河越衆が動員されており、どの軍団も休む暇もない有様であった。
「利根川東遷の通水に失敗したとの報告がありました。合ノ川の締切は問題なく行きましたが、二里に渡り新たな川を掘削して常陸川へと繋げたものの川幅が狭く通水出来なかったようです」
「そうであったか。容易には行くまいと思ってはいたがやむを得ないな。川幅は七間であったな。幅だけが問題ではなかろう深さも必要じゃ。川幅を三間広げて、最も深い川床を更に三間掘るようにせよ。一度通水してしまえば水流によって削られて河川も安定しよう。信濃川はどうじゃ」
「弥彦山の南西を切り崩しておりますが難儀しているようです。切り出された土砂も多く、山を削りきる前に切り出された土砂で通水予定地の堤防が先に完成してしまう始末です」
豪雪地帯でもあり、思うように進んでいないようだ。それでも山の高さが半分程になっているそうだ。
「春になれば雪崩の心配もある。樹木も焼き払っておるゆえ地崩れにも注意せねばならぬな。されど分水がなれば越後中郡は生まれ変わるであろう。今年は儂も視察に行くつもりじゃ」
関東の石高は二百五十万石と言われていた。小田原式農法と荒川の西遷や上野国の治水によって、今では四百万石まで発展しているのだ。武蔵国に限っても六十万石程であった石高が八十万石を超えている。利根川東遷によって百二十万石までの試算がなされていた。越後は更に大きい。今は四十万石と言われているが、中郡の広大な湿地帯が全て田畑になれば八十万石を超える新たな耕作地が生まれるのである。
最後に発言したのは島津忠貞である。東蕃の開発が軌道に乗り始めたようなのだ。これまでは屋久水軍に任せきりであったが、いよいよ北条家としても本腰を入れて進出する計画なのだ。
「我が息、島津親久を領袖とする船団を東藩に派遣致します。新納忠光と連携を取り入植地も選定済みです。南東部のタオ族の島を拠点とすることになります。ここはイスパニアの交易の拠点であるルソン島やセブ島に最も近く交易の要衝となります」
島津親久を領袖としたのは東蕃進出の先駆者である島津尚久殿と同族であったからだ。更にイスパニアがマニラ進出を果たしガレオン貿易が開始される頃だ。新大陸からメキシコ銀と共に多くの救荒作物が持ち込まれる。いち早く導入する事が目的の一つなのだ。
「ところで武蔵守様、本当に竹王丸様(北条三郎)も同行させるのでしょうか。それならば親久ではなく竹王丸様を領袖とするべきかと存じますが……」
「領袖は親久のままでよい。領主となれば気儘に航海に出ることも叶わぬ。竹王丸には海賊衆として独自に動いて貰いたいのじゃ」
1568年春 江戸城 北条竹王丸
「竹王丸、そなたを元服させようと思う。西堂丸達より遅くなってしまったがすまぬな」
「望外の事にございます。ありがとうございます」
幼い頃に兄である武蔵守様に引き取られて、長く小姓を務めていた。武蔵守様の事は感覚としては兄というよりも父に近いかもしれない。引き取られてすぐの頃は私を人質に出すために兄上が引き取ったのだと思っていたがどうやら違ったようだ。二人きりになると兄上は八幡菩薩様から得たという知識を教えてくれるようになったのだ。
耶蘇教徒達は本国ではカトリックとプロテスタントに分かれて争っている事や女王が治める国がある事、明国の情勢や南方にある豊かな島々の事など。兄上の頭の中では日の本だけでは収まらず広い世界のことを考えているようなのだ。
「儂は北条家の棟梁として。気儘に海に乗り出す事が出来ぬ。竹王丸には儂の代わりに広い世界を見て来て欲しいのじゃ」
幼き頃から兄上に言われてきた言葉を思い出した。元服するからにはいよいよ海の向こうの国に乗り出す時期が来たのである。兄上は私に島津親久殿と共に東蕃に向かう船に乗るように言われたのだ。元服の際に【北条丈次郎氏景】という名を賜わった。そして南蛮人と渡り合う為にと秘かにもう一つ名を賜わった【ジョージ・タイラーノ】という南蛮人風の名前である。元服にあたり兄上から三人の供を付けられることになった。
「武蔵守様、丈次郎様、お初にお目にかかります。風間衆の杏と申します。こちらに控える者は同じく風間衆の健斗と亜蘭です。我等は京の南蛮寺でカスティーリャの言葉を修めました。お役に立てるかと存じます」
驚くことに供の一人は妙齢の女性であったのだ。しかも男衆の上位者として挨拶したのである。兄上は機嫌良さそうに三人を観ながら声を掛けていた。
「杏はお絹殿の縁者であると聞く、丈次郎の事を頼むぞ。はなむけに皆に陣羽織を贈ろう。この緋色の陣羽織には燕尾服という名を付けた。船の上でも目立つようにしてあるぞ。杏には南蛮風の着物も用意しておる。秩父絹製の軽い着物じゃ。南蛮人と会見する際に身に付けるとよいぞ」
兄上が立ち去ると四人が残された。緊張していたのか三人の空気が緩み、杏が値踏みするように私を眺めて問いかけてきた。
「丈次郎様はいくつなんだい。まさか子供の相手をさせられるとは思ってもみなかったよ」
「お嬢、気を抜きすぎです。丈次郎様は我等の主となる御方なのですよ」
慌てて言葉を挟んだのは健斗であった。
「ふふふ、お嬢は取り繕っても、すぐに地がでるから意味があるまい。年頃になってもお転婆の性質は変わりませぬな。丈次郎様もお気になさいますな。口調は悪いですが心根は優しい娘なのです」
亜蘭に窘められて杏は口を尖らせて不機嫌そうにそっぽを向いたのだ。三人のやり取りを見て思わず吹き出してしまった。なんとなく上手くやれそう気がしたのだ。歳を聞くと健斗と亜蘭は十九歳で、杏は儂より二つ上の十六歳という事が解った。更に彼等にも【カザマソン】という南蛮風の家名があるそうだ。三人ともお絹様の期待に応えられるように必死なのかもしれない。私も兄上の期待に応えなければならないな。




