表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
平宰相〜北条嫡男物語〜  作者: 小山田小太郎
平宰相の巻(1567年〜)
95/117

尾張の戦国大名

投稿を始めて気が付けば一年となりました。ありがとうございます!

 1567年秋 宇治 相模屋 風間秀長


 女将さんが概ね一年ぶりに帰って来ました。この一年の間に畿内の情勢はどんどん変化し、息つく暇もない有様だったのです。


 細川藤孝様等が擁立する周暠様が還俗し、名を足利義周(よしかね)と改めて将軍になると宣言したのです。足利義周様は近江の六角義賢の支援を受けて、朝廷より従五位下左馬頭に叙任されたのです。


 それは三好義継様が足利義栄様を将軍に就けようとしていた矢先の出来事でした。左馬頭は次期将軍が名乗る官位として慣例化していたのです。義周様の任官に三好家が激しく反発したのです。


 三好義継様は阿波より三好康長と篠原長房を呼び寄せて、阿波衆の率いる大軍の武力を背景にして、朝廷に足利義栄様へ従五位下左馬頭の叙任を求めたのです。

 

 朝廷が足利義栄様にも左馬頭を叙任した事で二人の将軍候補が同格で並び立つ事態となりました。三好長逸の調略により、近江六角家と美濃一色家が中立の立場を取った事で足利義栄様の将軍就任も近いと噂されています。


 身の危険を感じた足利義周様は幕臣の和田惟政と神余親綱の薦めで、尾張に落ち延びたようです。神余親綱は越後屋から資金を調達し、伊賀甲賀の国衆の力を借りて、危険な伊賀越えを成し遂げたのだそうです。



「それで、松永様はどのようにお考えなんだい」



 女将さんの質問に答えたのは御隠居様の風間道雲様でした。この場には呼ばれているのは御隠居様と当主の風間道及様、それに陣内さんに巴太夫といった風間衆の面々です。



「松永様は三好長逸らと距離を取っておられた。義栄様では将軍になったとしても幕府の体裁を整えられぬとお考えであった」


「それで三好家が仲違いしたのなら本末転倒だね。小一郎、松山様も争いに巻き込まれているんだろう」


「はい、義父上も松永様の与力として動員されております。ただ、松永様も争うのは本意ではなかったのです」



 松永様は幕臣の支持の無い足利義栄様では途中で頓挫するだろうと考えて、足利義周様が将軍となっても、幕府に三好家の影響力を残そうとしていました。その曖昧な態度に腹を立てた三好長逸等が、大和の国人筒井氏に働きかけて松永様に嗾しかけたのです。



「三好家の親族衆の傍若無人な様子に、不安を感じた三好義継様が松永様に助けを求めた事で収拾が付かなくなりました。松永様も三好家に対する忠義から断れなかったようです」


「内輪揉してる場合じゃないんだけどね。武蔵守様の頼みで尾張の様子を見て来たけど、拙い事になりそうだよ。伊勢の越後屋が織田家に出入りしているんだよ」



 越後屋は上杉家の滅亡で後ろ盾を失っていたが、織田家の御用商人として力を付けているというのです。更に越後の牢人衆が織田家の与力として一色攻めの一翼を担っていたというのです。



「美濃の稲葉山城攻めで、村上義清勢が手柄を立てていたよ。戦自体は挟撃を成功させた織田方の作戦勝ちだったけど、村上勢の戦ぶりは目を見張るものだったよ」


「女将さん。山浦(村上)国清は武田家に降伏したと藤吉兄者の文にはありました。見間違いではないのでしょうか」


「武田家への臣従を良しとしない信濃衆がいたんだよ。村上義清と村上義則は足利義周様の伊賀越えの警固役を務めたようだ。今では義周様の相伴衆になっているよ」



 女将さんは一色家の滅亡を見届けると急いで京に戻ったのだそうです。織田家は北条家にも劣らない程の鉄砲を所有しているようです。織田家の財力を(うかが)わせるものでした。


 織田家は伊勢湾の流通を一手に握り、肥沃な濃尾平野では小田原式の農法が隅々まで行き渡っているそうです。良いものを直ぐに取り入れられる柔軟性が、織田家躍進の原動力なのかもしれません。



「姐さん、尾張の話しだけじゃなくて、関東の話しもしておくれよ。風間の衆はどんな様子なのかい」



 緊迫した雰囲気を変えるように巴太夫が関東の様子を聞きたがったのです。女将さんも表情を緩めて話題を変えました。



「江戸の賑わいには驚かされたよ。武蔵守様に京に店を出したのは貧乏籤を引かされたようだと苦情を言うほどにね」


「玉ちゃんも元気にしてましたか」

 

「ええ、玉梓太夫も一座の者達も息災だったよ。主水も評定衆に取り立てられて張り切っていたね。大倉所を任されていて、武蔵守様の命で金貨を作ってるそうだよ」


 江戸の経済活動が活発になるにつれて、貨幣不足が深刻となっていたそうです。武蔵守様は南蛮交易で手に入れた南蛮人の金貨を模倣した【分角(ドゥカート)金貨】と明の永楽銭を作らせているそうです。


 伊豆狩野家の彫金師の手によって作られた貨幣により、銭の不足は解消されたのです。しかし、御用金などの大きな取引に使うための新たな貨幣の需要がありました。武蔵守様は取引の利便性を高める事を重視して、数え易い貨幣を考案したのだそうです。


 武州金・武州銀と呼ばれているこの貨幣は薄い円柱の形状をしており、大きさは一寸三分(約4cm)、十枚重ねた時の高さが丁度一寸となるように作られているそうです。表面には北条家の家紋【三つ鱗】、裏面には替紋である【対い蝶紋】があしらわれているそうです。


「主水に数える様を見させて貰ったんだけどね。あれには驚かされたよ。一々数えるんじゃなくてね、手に持った感覚だけで二十枚掴んで、それを半分にして十枚づつ積み上がっていくのさ。まるで手妻を見せられた気分だったよ」


 武蔵守様が言うには、目の感覚は騙されるけれども、指先の感覚は一分一毛の違いも感じ取れるのだそうです。貨幣の大きさを揃える重要性を強調しておられたとの事です。今後は相模屋でも扱うそうですが、私は数え易い貨幣というものに興味を惹かれたのです。




 1567年秋 三河国 長篠城 樋口兼豊


 喜平次様の初陣が決まったのは目出度い事であったが、難しい戦となりそうで心配になります。今川家と松平家の合戦に与力する事になったのです。


 江戸城の武蔵守様旗下には四つの備があります。太田輝資(てるすけ)殿の率いる本隊とも言われる旗本衆、山上氏秀殿の率いる関東足軽衆、明智光秀殿の率いる上方足軽衆、そして某が旗頭を務める越後衆の四隊です。


 今川家の救援には明智殿と某の部隊派遣が決まりました。越後衆の主力は上田衆が固めております。我等の出陣を知った喜平次様は、武蔵守様に初陣の許可を願い出たのです。当初は十一歳の若さでは早いと武蔵守様に却下されておりましたが、武蔵守様の許可を得るまでは動かぬと城門の前で座り込みを始めたのです。


 呆れた武蔵守様は喜平次様の願いを聞き入れて、宇佐美殿の指示に従うことを条件に初陣が許されたのです。喜平次様は早速、元服も済ませて【長尾景勝】と名乗ることになりました。


 武田家の情勢が不安定という情報もあり、太田隊と山上隊は多摩と秩父にて情勢を伺うようです。多くの兵を割けない中でも越後衆に遠藤三兄弟の鉄砲衆が与力として付けられました。越後上杉家では鉄砲を重視していなかったので、鉄砲を扱う経験が不足しておりました。


 北条家の軍役には一割の鉄砲が課せられており、多くの鉄砲足軽が在籍しています。鉄砲衆は戦場にて鉄砲足軽を率いる鉄砲組頭の役目を請け負っているのです。


 今川家と松平家の合戦の発端は三河国長篠城主【菅沼貞景】の寝返りでした。長篠城が松平方になったことで睦平鉱山を松平家に奪われてしまったのです。今川氏真様は直ぐに飯尾連龍と井伊直元殿に命じて長篠城を包囲させました。ところが長篠城は籠城に備えて兵糧を蓄え、二百丁もの鉄砲を織田家から配備されていたのです。


 松平家康と佐久間信盛は長篠城の救援に向かいましたが、急戦を避けて設楽ヶ原に野戦陣地を構築し持久戦の構えを取り、美濃を制圧したばかりの織田信長に援軍を求めたのです。信長の出陣を察知した今川方は決戦に臨むべく一万七千の軍勢を動員したのです。


「樋口殿、せっかくの若君の初陣だというのに、長篠城の抑えとは歯応えがないのう」


「宇佐美殿、某は抑えで安堵しておりますよ。此度はかなり大規模な合戦となるようです。我等の目の届かないところに行かれるよりはと安心しております」


 設楽ケ原へは今川家の主力が向かいましたが我等は井伊直元様と三浦氏員様と共に長篠城の包囲に残されたのです。明智殿は今川家の後詰めとして設楽ケ原に向かっていました。



「心配性じゃのう。若君は言葉数こそ少ないが、儂等の話しを良く聞いて状況を理解しておるぞ。己の役目として夜警の兵を労ったりもしているようじゃ。中々良き武将になるであろうの」


「昨夜、井伊直元様から伺ったのですが、どうやら織田勢が現れたようです。今川方は直ぐに軍議を開いたようですが、織田方の野戦陣地の様子に戸惑いを隠せないようです。明智殿からの連吾川を堀に見立てた城郭だとの指摘を受けて攻城戦の心構えで戦うようです」


「俄か仕立ての土塁であろう。城郭とは大げさではないか」


「織田家は鉄砲の扱いに優れているそうです。遠藤三兄弟も堀と土塁があれば、野戦であっても鉄砲で進軍を抑え込めると申しておりましたから油断は禁物でしょう」



挿絵(By みてみん)

 織田松平連合軍と今川軍の戦いは夜明けの銃撃戦で幕を開けた。連吾川を挟んで双方の陣地に向けて発砲し合ったのである。東側に陣取る今川勢は左翼に朝比奈泰朝や飯尾連龍などの遠江衆、右翼に駿河衆という布陣であった。織田松平連合軍は最右翼から水野勢、松平勢、織田家直臣衆、佐久間勢と並んで今川勢に相対したのである。


 双方とも鉄砲を撃ち合いにらみ合う状態が続いた。連吾川の渡河地点は三か所想定されているが、敵陣に近づこうにも弾幕の中に飛び込まねばならないのだ。最初に動いたのは松平家康の三河勢である。


 まんじりとも動かない戦況に痺れを切らしたのか、弾薬が足りなくなるのを怖れたのか、連吾川を押し渡り今川方に斬り込んだのである。


 松平勢の突撃に一度は怯んだものの、左翼の統率を任されていた朝比奈泰朝はすぐさま対処した。空いた穴を自ら埋めて松平勢を受け止めて、最左翼の飯尾連龍に松平勢の横腹を襲わせたのだ。


 松平勢の突撃を忌々しく思っていた者がいた。織田信長である。信長は鉄壁の野戦陣地に今川方を引き付けて、銃撃にてより多くの損害を与えるつもりだったようだ。松平勢の突撃は総力戦への呼び水になる行為であったのだ。


 信長は「まだ、早い」と呟くと、稲葉貞通率いる西美濃衆に松平勢の援護を命じた。更に自らの本隊から鉄砲衆を引き抜き、丹羽長秀・佐々成政・塙直政に命じて松平勢の抜けた野戦陣地を再構築したのである。


 松平勢の勇足となった突撃であったが、今川勢が織田陣地に向かって突撃を決断させる呼び水になったのだ。今川氏真が突撃を命じた事が戦の命運を分けたのである。


 今川勢は竹束を抱えて、連吾川の渡河を敢行したが限られた渡河地点にて、織田鉄砲衆の十字砲火の餌食となったのだ。騎乗のまま突撃して銃弾を浴びた【松井宗信】が旗頭級の最初の戦死者であった。


 次々と届く有力武将の討死報告に今川氏真は焦り、本陣をも前線に繰り出した。しかし、戦況は既に散々たる有り様となっていたのだ。そして、今川氏真の本陣を認めた織田勢が総攻撃を仕掛けてきたのである。


 ◆◆



 井伊直元様の本陣にて城攻めの打ち合わせをしていたところ、急使が飛び込んできた。

 

「明智家家臣、可児才蔵と申します。設楽ケ原にてお味方大敗。我が殿は今川様を助けて殿軍を申し出ました」


 第一報でお味方の敗戦が伝わると次々に敗報が届いた。今川氏真様も負傷し退却中であるとの事だ。直元様は直ぐに三浦氏員殿に使いを出していた。


「直元様、すぐに救援に参りましょう」


 井伊家家臣の小野玄蕃殿が叫んだが、直元様は腕組みしたまま、地図を覗き込んでいた。島津親弘殿が地図に碁石を並べて報告毎に戦況を伝えていた。


「玄蕃、慌てるな闇雲に出て行っても混乱するだけじゃ」


「三浦様が到着されました」

 

 三浦氏員殿が案内されて入って来たが、顔色が悪い、大敗と氏真様の負傷が伝えられているようだ。


「直元殿、状況はどうなっておる。すぐに救援に行かねばなるまい」


「三浦様、今暫くお待ちください。少ない軍勢で救援せねばなりませぬ。情報が足りませぬ」


 三浦殿が苦渋に満ちた表情で地図に視線を移すと新たな伝令が飛び込んで来ました。


「お館様は設楽ケ原を離脱してこちらに向かっております。朝比奈泰朝様と明智殿が殿軍として食い止めておりましたが、松平勢が朝比奈勢を突破し、本陣に迫っております」


挿絵(By みてみん)


 いよいよ正念場のようだ。直元様がどの様な指示を出すか、皆が固唾を呑んでいる中、景勝様がぼそりと呟いた。


「釣り野伏せ」


 大きくない声であったが不思議と響く声で、皆が景勝様を注目したのである。直元様は覚悟を決めたように穏やかな表情で景勝様を見つめて頷いた。


「そうじゃな。それしかあるまいな」


 聞き慣れない作戦を理解し、頷いたのは島津親弘殿だけであった。釣り野伏せは味方を囮にして敵を誘い込み、包囲殲滅する作戦だそうだ。早雲寺の図上演習で偶に見られる作戦なのだそうだ。


「本陣が退却する道筋は進軍の逆となろう。我等は追撃する松平勢を討ち果たす」


 ◆◆


「だいぶやられたようじゃのう。樋口殿、味方を手助けせずに良いのか」


「井伊様からは追撃する松平勢が姿を現わすまで、姿を隠して動いてはならぬと言われております。進退は景勝様の指示に任せると仰せでした」


「経験の浅い若君に任せても良いのか。そなたが機を見る方が良いのではないか」


「若君が井伊様から請け負ったのです。若君を信じるつもりです」


 景勝様は口数少なく退却してくる今川勢を見つめておりました。追撃する松平勢が現れても若君は動きません。飛び出したくなる気持ちを抑えて堪えます。


 松平家康の旗印が視線に入った途端に景勝様が動きました。軍配を上げてサッと振り下ろしたのです。


 ダダダーン


 松平勢の横腹目掛けて、遠藤兄弟が鉄砲の一斉射撃を叩き込み。それを合図に全軍による突撃をかけたのです。景勝様の声が響き渡ります。


「狙うは家康の首ただ一つ、者共続けー」


「「「応っ」」」


 松平勢は統制の取れない追撃中に、急襲を受けて軍勢としての体制は取れていません。大将と思わしき武者を目掛けてひた走ります。


 先頭を走る景勝様の前に銃弾を浴びて血塗れになりながらも主君を守ろうする馬廻の武者が立ちはだかります。


「本多平八郎が居るうちは殿に指一本触れさせぬわ。蜻蛉切りの餌食となれ」


 しかし、銃弾を浴びた身体は思うように動かなかったようです。宇佐美殿が景勝様を守るように前に出て、槍で本多某を突き飛ばしました。流石に馬廻の者達は手強く、必死に主君を守っていました。


「景勝殿、見事な采配じゃ」


 井伊直元様が井伊勢を引き連れて突撃して来たところで敵将の命運は尽きたようです。井伊家家臣の朝比奈泰寄殿が傷を負いながらも松平家康の胸に槍を突き刺したのです。


 設楽ケ原では大敗したものの、織田方の追撃を退けて今川勢は軍を収めたのです。


〜人物紹介〜

三好長逸(?)三人衆。一族の長老格

三好政勝(?-1569)三人衆。元細川晴元の側近。長慶に対する有力な分家

岩成友通(?-1573)三人衆。長慶の有力家臣の畿内衆。

三好康長(?)阿波衆。笑巌

篠原長房(?-1573)阿波衆。


堺公方を熱心に擁立したのは阿波衆かもしれません。三人衆は三好家での立場を強化するために松永久秀の排除を狙ったか?


ドゥカート金貨はヨーロッパで長期間安定していた通貨のようです。北条家での扱いは切り金と同じく重さによる価値かなってくらいで厳密に決めていません。


武州金のモデルはカジノのチップ。ディーラーさんの手際がいいんですよね。金銀だとかなり重いとは思います。


本多忠勝(1548-1610)出落ちの平八郎。

菅沼貞景(?-1569)家康が独立した際、氏真に処刑された妻がいます。十三本塚

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点] まさかの家康退場か! やっと独立できたのに当主討死で、三河を巡ってまた争乱が始まる…三河者が可哀想になってきた笑 忠勝君出てきたけど、いきなりの出落ちで笑いました笑 でも、忠勝君なら…
[一言] 松平家の出落ちモブは、酒井忠次を筆頭として、平岩親吉、鳥居忠吉または息子の元忠、三方ヶ原で討死した面子(夏目吉信・蜂屋貞次など)、本多重次、或いは小田原絡みで大久保忠世などを妄想していました…
[良い点] あくまで主役は北条家だから家康の早期退場は良い判断だと思うね。 家康は経験値をしっかり貯めて大成した晩成型であるし、短慮や失敗も多い。若い時は結局の所、信長に良いようにあしらわれてたのが現…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ