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平宰相〜北条嫡男物語〜  作者: 小山田小太郎
武蔵守の巻(1558年~)
91/117

佐渡島遠征

 1566年春 越後国寺泊 鮎川文吾


 シュッシュッと(かんな)をかける音が響いていた。黒滝城近くの山林から大量の木材がどんどん切り出されている。寺泊では湊を埋め尽くす程の勢いで、沢山の船が建造されていたのだ。伊豆水軍の【間宮康俊】殿が造船の采配を振るっており、我等江戸衆は間宮殿の元で造船作業に従事していたのである。


「文吾殿、調子はどうじゃ」


「おう、藤吉郎か。配下の者共も船大工が板に着いてきたようじゃ。山上殿のところの連中は皆、優秀な(きこり)になれそうだとぼやいておったぞ。山が禿げあがるまで伐採しているのじゃからな」


「まあそう言うな。愚痴なら儂がいくらでも聞いてやるぞ。佐渡を獲るための船だと思って辛抱して下され」


「解っておる。江戸衆の手柄の立て処はいつも作事だと諦めておるわ。しかし、あのように禿山になるほど伐採しても大丈夫なのか。地崩れにでもなったら目も当てられぬぞ」


「それは大丈夫。むしろ地崩れしてくれた方が好都合なのだそうじゃ。危なそうな集落は既に移転を済ませてある。あの山は削って川を掘るそうじゃ」


「なんじゃと。途方もない算段じゃな、道理で伐採に容赦がない訳じゃ。どうせ武蔵守様の発案であろう。その内、山ごと崩して城攻めするとか言いかねないな」


「山ごとは流石に無理じゃと思うが、地形を変える戦なら知っておるぞ。城の周りに土手を築いて川の水を曳きこみ、城ごと水没させるという策だそうじゃ。唐の国では実際にあったことだと聞いておる」


「ははは、武蔵守様なら実際にやってしまいそうじゃな。その時こそ我等の腕の見せ所かもしれぬな。与太話はこれくらいにしておいて、佐渡の様子はどうなのじゃ」


挿絵(By みてみん)


 佐渡島を現在支配しているのは本間一族である。本間氏は大仏流北条氏の代官として佐渡に入ったが、地頭の立場から力を付けて幕府の奉公衆となり、佐渡島を支配するまでになっていた。しかし、本間氏総領の雑太(さわだ)本間有泰が亡くなると、総領となった雑太本間泰高を抑えて、河原田本間家と羽茂(はもち)本間家が台頭していた。本間氏の分家は十二家を数え、渋谷氏や藍原氏といった国人衆も含めて、離合集散を繰り返して争っていたのである。


「本間氏の全ての分家や、渋谷氏・藍原氏などにも臣従を促す書状を出しておったが、殆ど無視されておる。上杉家と縁戚であった羽茂本間家だけは上杉家の滅亡に衝撃を受けたようじゃが、佐渡のことは佐渡の者で決めるとけんもほろろであった」


「仕方あるまい。元々流刑の島と言われていたというではないか。一門同士の島内の争いはあっても、態々越後から軍勢を率いて佐渡を制圧する者など、これまでおらなんだのではないかと思うぞ」


「そうじゃな。ただ一家だけ誼を通じたいという家があった。赤泊本間家じゃが、少し問題があるのじゃ」


「ほう、赤泊ならば船団の寄港にも都合が良いではないか。何処に問題があるのじゃ」


「赤泊本間家は既に領地を失っておる。赤泊は羽茂本間家の領するところとなっているのじゃ」


「なんじゃそれは」


 羽茂本間家はかつて、上杉輝虎の父で越後を追われた長尾為景の復権を助けたということで、長尾為景の養女を娶り縁戚となっていた。越後上杉家の後援を得て、佐渡国内で強い発言力を持っていたのである。そして雑太宗家の代替わりを機に領土の拡大を狙ったのである。その最初の標的となったのが赤泊本間家であった。赤泊本間家は家を再興するために北条家を頼ったようなのだ。


「成る程。事情は理解したが、それでは赤泊本間家とやらは頼りにならんのではないか。態々肩入れする必要もないとは思うがどうなのじゃ」


「実際には我等のみで戦うことになるのは同じじゃが、赤泊は山に遮られて北風の影響が少ない良港だそうじゃ。佐渡侵攻の足掛かりとしては最適かもしれぬ。それに赤泊本間氏は本間を名乗ってはいるが、元の本姓は【風間】だそうじゃ。そこも悪くないと思うのじゃ」


 赤泊本間氏の祖先は信濃国の諏訪一族であった。諏訪神社から【風間神社】に派遣された者達が風間氏を称して、北信濃に勢力を拡大していたそうだ。その後、風間氏は木曽義仲に滅ぼされて散り散りとなってしまったが、佐渡に渡った風間一族もいたようだ。佐渡の地で五所神社を建立してその神職となり、本間氏の縁戚となって赤泊領主となっていたというのだ。


「意外な所で同族の風間一族がいたものじゃな。これこそ諏訪大明神の導きかもしれないと思ったのじゃ。佐渡の領主を本間から風間に塗り替える口実にもなろう」


「こじつけにしか聞こえぬが、後々の統治のために島民の協力を得るのは大事なことじゃ。良き巡り合わせとしたいものじゃな」


 ◆◆


 佐渡遠征軍は総勢九千の江戸衆である。風間隊の三千が先発隊となり、間宮水軍衆が折り返し軍勢の輸送を受け持ち、山上隊、樋口隊が順次佐渡に上陸する手筈となったのだ。樋口隊は越後牢人を集めた新設部隊である。制圧後の統治を風間隊が受け持つことになっているので、陣代は先鋒の風間秀吉となっていた。


「藤吉郎、まさかこれほど容易に上陸できるとは思わなんだぞ。赤泊の城は(もぬけ)の殻じゃ」


 北条勢の船団を見た敵方は数の多さに驚き、逃げ出してしまったようだ。それもその筈で、赤泊の守りを固めていたのは五十人程の小勢であったというのである。


「義長の試算では佐渡は六万石程の石高だそうじゃ。多く見積もっても三千の軍勢を整えることは出来ぬと申しておった」


「なんじゃと、それならば我が隊だけでも十分ではないか。勝ち進めば寝返ってくる者も出てくるだろうし、鉄砲なども満足に揃えているとは思えぬぞ。九千もの大軍を動員するまでもなかったのではないか」


「武蔵守様は制圧に関してはそれほど心配されてはおらなんだ。実際九千の軍勢であれば二月程で制圧できるであろうと仰せであったが、問題はその後の統治にあるとのことじゃ」


 武蔵守様の構想では佐渡島を全て北条家の直轄地として、風間衆に治めさせるつもりのようだ。そのため佐渡の国人衆達に対して所領安堵を認めず、転封を条件としなければならないのだ。直轄地とする理由は佐渡の金山開発を本格的に行う計画があるという。佐渡の金山は伊豆や常陸の金山を超える規模があるという話であった。



 ◆◆

 赤泊城を拠点として構築し、すぐに羽茂(はもち)城の攻略に行動を移した。間宮水軍は後続の山上隊を迎えに行くとして越後へ戻って行き、佐渡には我等だけが残されたのである。栗林義長の策を採用し、軍勢を羽茂川上流の五所神社に移動させ、羽茂川沿いに下って羽茂城を目指したのである。羽茂城の城主本間高信は、領民をも城に入れて籠城の構えを見せた。


 しかし籠城していたのは領民を合わせても三百程しかいなかったのだ。風間衆三千に囲まれた羽茂城は落城必至と思われた。ところが本間高信は最後まで抵抗を諦めず、城を枕に討死したのである。本間高信の妻は長尾為景の養女であったことから、上杉家に殉じたのかもしれない。


 意外にも強い抵抗を受けたが、大きな被害も無く羽茂城を制圧することができたのだ。山上隊も赤泊に到着したとの報せが入り、(ささ)やかながら羽茂城を落とした戦勝の宴が行われたのである。


「赤泊の本間八郎にごじゃいましゅ。勝ち戦おめでとうごじゃいましゅ」


 戦勝の宴に現れたのは赤泊本間家の当主を名乗る幼児の【本間八郎】であった。歳を聞くとまだ五歳ということであった。傍には八郎殿の母親お福殿も一緒である。八郎殿の父親は羽茂高信に攻め滅ぼされて討死しており、幼いながらも当主とならざるを得なかったようだ。


「八郎殿は幼いながら立派である。其方の父御の仇はこの風間佐渡介が討ち果たした。赤泊本間家の本姓は【風間】だと聞く。これも何かの縁じゃ。其方の面倒は同族として儂が観る故、安心するがよい」


 藤吉郎は八郎殿に風間の姓を与えて【風間八郎秀家】と名乗るように命じたのです。八郎殿の母であるお福殿も泣いて喜んでおり、藤吉郎に何度も頭を下げていたのです。赤泊本間家の女中達が華を添える形で、戦勝の宴は遅くまで続いたのです。


 ◆◆


 背後では剣戟の交差する音が響いている。僅かな手勢を引き連れて藤吉郎がいる奥の間に踏み込んだ。


「藤吉郎、無事か。夜襲を掛けられたぞ。兵糧蔵が火の海じゃ」


 藤吉郎は赤泊の後家お福殿と同衾しており、素っ裸でぽかんとしておった。


「なんじゃと。見張りの者は如何したのじゃ」


「見張りはやられたようじゃ。喜八がすぐさま向かったが様子が解らぬ。敵が何人おるかもまだ解っておらぬのじゃ」


 そこへ栗林義長が駆け込んで来た。


「御報告いたします。兵糧蔵を襲った敵はあらかた討ち取りましてございます。しかしながら宮田光次殿は討死されました。今は皆で兵糧蔵の火消の最中にございます」


「なんじゃと。喜八が討死しただと……」


 藤吉郎が茫然とした表情で義長を見据えていた。


「儂が油断したばかりに、喜八を失ってしもうたのかもしれぬ」


 佐渡の国人衆は小勢であった故、大軍で楽に制圧できると奢りがあったのは確かである。敵地であるにも関わらず、宴を行っていたのは褒められた事ではない。少し酒を振る舞う程度でも良かった筈だ。藤吉郎は目から大粒の涙を零し、鼻水を拭うこともせず、子供のように泣き崩れてしまった。


「藤吉郎、泣く暇があったら性根を据えろ。本間勢を平らげて喜八の仇を取ってやるのじゃ」


「すまぬ、文吾殿。喜八と儂とは一心同体とも言える友なのじゃ。儂が敵を侮り油断しておった。儂が喜八を殺したも同然じゃ。儂は性根を入れ替えるぞ」



 藤吉郎の様子を見て回りの者達も肩を震わせて(うつむ)いている。儂も藤吉郎の顔をまともに見ることができずに(うつむ)いてしまった。必死に()()こらえていたのだ。



「とーきちろー。その言葉、確かに聞いたからね。忘れるんじゃないよ」


 現れたのは紫紺色の忍び装束を身に纏った【お吟様】である。言わずと知れた藤吉郎の奥方にして、知る人ぞ知る五代目風魔小太郎様でもある。お吟様の登場で藤吉郎の顔色が一瞬にして真っ青になり、慌てて取り繕おうとするが、今さら素っ裸で何を言っても説得力が有る訳もなく、滑稽である。もう笑いを堪えるのは無理であった。


「お吟が何でここにおるのじゃ」


「そんなことはどうでもいいじゃないかい。とーきちろー、ここは敵地のど真ん中だ。あんたは一体何をやっているんだい」


 ここから先は決して勝ち目の無い戦いが始まるようだ。我等が与力しても、藤吉郎を救うことはたぶん無理だと思われた。栗林義長と共に手勢を連れて引き下がることにしたのだ。藤吉郎を見捨てて「被害を最小限度に留めることも将として必要な心得である」との義長の言葉に噴出してしまった。



 お吟様が佐渡に渡ってきたのには理由があった。武蔵守様から佐渡一国を風間衆に任せるとの意向を受けて、風間衆総出で藤吉郎を支援する為であったのだ。山上隊に同行して佐渡に着いたばかりであったが、休む(いとま)も惜しんで羽茂城に駆けつけたのである。


 しかし羽茂城に到着してみれば、戦勝に浮かれて大騒ぎで宴会を楽しんでいる藤吉郎の姿があった。お吟殿は軍紀の緩みを見逃すことが出来なかったようだ。儂等も宴会の最中に呼び出されて「敵を侮って宴会騒ぎなど論外だ」と、こっ酷く叱られたばかりであったのだ。


「戦は極限状態の中だから、藤吉郎が御陣女郎を引き込むくらいは大目に見てあげるよ。でもね、家名存続に必死な後家を手籠めにしようとする様子はいただけないね。聞けば同族の風間を名乗る家らしいじゃないか。後々の家同士の繋がりも大事に考えて貰わないとね」


 お吟殿はそう言うと一計を案じ、藤吉郎に灸を据えるために今回の狂言となったのである。喜八はすぐに顔に出るという事で、藤吉郎の前には出さずに討死役となったのだ。翌日、幽鬼の如くやつれた藤吉郎の姿があった。お吟様に大分絞られたようである。



 ◆◆

 山上殿と合流して軍勢は六千となった。全軍にて本間氏宗家の雑太城を囲んだのである。彼我の戦力差を見て抗戦を諦めたのか、雑太本間泰高はすぐに降伏の使者を寄越してきた。藤吉郎は降伏を受け入れると、再度島内の国人衆に向けて降伏するよう使者を出したのである。しかし島外への転封が降伏の条件に含まれており、降伏したのは藍原氏とその分家である名古屋氏、新穂本間氏の僅か三家であった。


「文吾殿、本間宗家が降伏したというのに、思っていた以上に反応が鈍い。やはり全て根切りとなるまで抵抗されるのであろうか」


「羽茂と雑太が落ちたと言ってもまだ河原田家が健在じゃ。義長の予想では河原田が落ちれば諦める国人衆も出てくるのではないか、と言っておったぞ」


「そうじゃな。加茂郡の渋谷氏も降伏してくるかもしれぬ。もうひと踏ん張りじゃな」


 河原田城の攻防はこれまでで最も多くの兵数が籠もっていた。羽茂・雑太の陥落によって、本間一族が河原田本間氏を中心として団結したのである。河原田城には沢根・石花・和泉・北方・久知・潟上といった本間一族に加えて、土屋氏・足立氏など二千の軍勢が籠城したのである。しかし藤吉郎は落ち着いていた。義長の策を入れて、樋口隊の到着を待って総勢八千の軍勢で、河原田城を包囲したのである。


 河原田城の本間勢は意気軒高であったが、急な籠城であったので兵糧の蓄えが殆ど無かったのである。半月もするとたちまち兵糧不足に陥ったのだ。藤吉郎は包囲を固める一方、宮田喜八と宇佐美定満に千の軍勢を付けて、潟上城や久知城などの加茂郡の城を攻めさせたのである。


 宮田喜八らの働きで久知本間正泰と潟上本間秀敏は、河原田城に籠城している内に本拠地を奪われてしまったのだ。両名はとうとう夜陰に紛れて河原田城を抜け出し、北条方に降伏してしまう。おまけに抜け出す機会を作るために残った兵糧に火を付けたというのだ。


 兵糧の枯渇によって河原田本間貞兼は打って出る決意を固めた。包囲陣に向かって突撃を敢行してきたのである。だが、包囲の間に北条方も遊んでいた訳ではなかった。包囲陣の前面に掘を穿ち土塀を盛っており、乱杭や逆茂木を並べて突撃に備えていたのである。本間勢の突撃に対して火縄銃を並べて一斉射撃を加えると、勝負は一瞬にして付いてしまった。先陣を切っていた河原田本間貞兼が銃弾を浴びて討死したのである。本間勢は武器を捨てて降伏したのであった。


 ◆◆

「とーきちろー。羽黒城の渋谷氏も、降伏したいって雁首揃えてやって来ているよ」


「お吟、今更降伏してきても遅いぞ。首を刎ねたら良いのではないか」


「転封を受け入れるって言ってるんだから認めればいいじゃないか。態々軍勢を差し向けるのも手間だよ。それより佐渡の仕置きを終わらせて、金山の開発や湊の整備を急ぎたいんだ。とっとと会っておいでよ。それとも文句があるのかい」


「はひ。会ってきます」


 加茂郡を治めていた渋谷氏も、当主自ら出頭してきたのだ。渋谷氏は羽黒・加茂・歌代・梅津と、四家に分かれて佐渡の覇権争いに加わっていたが、梅津渋谷家は久知本間家によって滅ぼされていたので、降伏したのは残りの三家である。本間諸氏や藍原氏と同様に、渋谷三家にも転封が言い渡された。二百石程の知行を与えられて武蔵国、上野国、上総国に散り散りに配置されることになったのだ。


 そして佐渡の仕置きが【風魔小太郎】様によって行われた。藤吉郎はまるで操り人形のように知行割りの御触れを出したのである。


 羽茂郡(南部)

 赤泊城主 間宮康俊(間宮海賊衆頭領)

 羽茂城主 間宮綱信


 加茂郡(東部)

 羽黒城主 風間吉房(藤吉郎の姉婿)

 久知城主 風間吉高(吉房の兄)

 潟上城主 風間吉久(吉房の弟)


 雑太郡(西部)

 雑太城主 鮎川文吾

 河原田城主 風間秀吉

 沢根城主 風間吉成(藤吉郎の妹婿)


 南部の羽茂郡は間宮海賊衆が治める事になり、赤泊の湊を整備することになった。越後の寺泊にも間宮康俊の所領として、佐渡水軍を形成することになっているのだ。東部に配された風間吉房三兄弟は、藤吉郎に付けられた風間党の者で、藤吉郎が旗頭となった時に藤吉郎の姉を娶り一門となった者達である。妹婿の風間吉成は伊豆金山衆の猪俣党の出で、相川周辺の金山開発を担うことになっている。藤吉郎が城代を務めた越後の黒滝城には秋元景朝・長朝親子が入り、信濃川分水の総指揮を執ることになっていた。こうして佐渡の支配体制が確立したのである。

~人物紹介~

◆佐渡国人衆

本間泰高(?-1587)雑太本間家。本間家総領ながら没落中

本間貞兼(?)河原田本間家。羽茂本間家と争う

本間高信(?)羽茂本間家。室は長尾為景の養女(姪?)河原田本間家と争う

小ネタ:某有名漫画では【羽茂本間高茂が河原田城に籠城して】ひょっとこ斎達と戦う場面があります。調べ始めると色々な気付きがあり面白いです。

本間氏・渋谷氏・藍原氏・土屋氏などは大佛北条家の家臣として佐渡の統治を任された家のようです。

本間氏の一族からは北前船貿易で財を成した酒田本間氏が出ています。


◆風間衆

吉房・吉高・吉久・吉成:史実でも藤吉郎の親族衆。今作では出自を風間衆の者に変更しております。


◆間宮海賊衆(佐渡水軍)

間宮康俊(1518-1590)鶴岡八幡宮の造営奉行の一人。後に伊豆海賊衆を統括。史実では息子達(康次・康信・信高・元重)は今川水軍衆の船大将となります。樺太探検家の間宮林蔵の一族とも。


◆赤泊本間家(架空)

本間八郎:モデルは宇喜多秀家

本間福:本作三人目のお福殿。モデルは宇喜多直家の妻。

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― 新着の感想 ―
[一言] 本間様には及びも無いが、せめてなりたや殿様に。の本間様ですねー。 この秀吉は女遊びしようとしたらキッチリ締められるので、史実ほど女癖悪い評価は付かないのかな(笑)
[一言] 佐渡制圧で日本海航路も、ある程度の目途がたちそうですね。 間宮氏は宇多源氏佐々木氏流で、風間(風魔)の祖は鉢屋衆と同じ飯母呂一族ということで連絡を付け、月山富田城落城寸前の尼子氏を(朝廷を介…
[良い点] 佐渡は今でも本間さんだらけなんですよね〜  結構国人の苗字って地元に根強く残ってたりしますよね
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