花嫁行列
1566年正月 宇治 風間秀長
三好義継様や三好長逸様による、足利義輝様への御所巻からの殺害が起こってから半年が過ぎました。三好家の重臣達は将軍殺害の罪に問われる事を案じて近衛前久様を頼り、堺公方である足利義栄様の将軍就任を願い出たのです。
前久様は「三好長慶が出頭して事態の収拾にあたるべし」と言って、若い当主や重臣達では話にならないと義継様らの申し入れを断ったのです。三好長慶様は既に他界されていますが、三好家は長慶様の喪を隠していたため、長慶様の遺言に背いて喪を発することもできず。かと言って事態の収拾に動く事も封じられてしまったのです。
近衛前久様に袖にされた三好様達は、次に二条晴良様を頼り、足利義栄様への後援を取り付けました。しかし足利義秋様を推す、近衛稙家様が待ったを掛けたのです。近衛様は二条様に言われた「武家の争いに介入するべからず」との言葉をそのまま叩き返して牽制したのです。
近衛派と二条派の対立により、足利将軍家の当主が不在のまま、奇妙な静寂が畿内を包んでいたのです。その中で精力的に動いていたのは近衛前久様でした。前久様は幕臣の支持を得ていない足利義栄様でも、信濃に逼塞している足利義秋様でもなく、三淵様らが匿っている周暠様を将軍に擁立するべく、密かに幕臣達に働き掛けていたのです。
「三好家はもう駄目じゃ。長慶公が今の重臣共を見たらどんなに嘆くことか」
「父上様、そんな怖い顔をしていたら慶千代が泣き出しても知りませんよ」
飯盛山城から戻ってきた松山様は愚痴が止まらなくなっておりました。寧々に窘められて慶千代を取り上げられてしまい、松山様は情けないお顔になっております。正月の祝賀会では松永弾正様と三好長逸様が言い争いを始めてしまい、当主の三好義継様が仲裁する事態となったようです。きっかけは三好家の体制を整えるために、長慶公の喪を公表するという話だったようです。
「義継様の裁定で公表する時期が六月と決まったのは良いのじゃが、弾正と日向守(三好長逸)の確執は埋まりそうもないな。義継様では二人を纏めることはできぬ」
「義父上、三好家の方針は足利義栄様を公方様に、という事ではないのでしょうか」
「義継様は迷っておられた。幕臣達が反三好で団結しておるので、義栄様が公方となったとしても幕府の体裁を整えるのは難しいであろうな。弾正は幕臣達が推す周暠様を将軍に推戴し、長慶公の方針を引き継いで三好家から幕臣を送り込み、幕府内で三好家の立場を強化するべきとの意見じゃ。しかし日向守は回りくどいと言って、武威を以って幕臣達を従わせると言い出したのじゃ」
「良く解りませんが、幕臣方の力はそれほど強いものなのでしょうか」
「武力を持っている訳ではないが、幕臣達の持つ経験が無くては混乱を招くだけであろうな。その汚名を被るのは三好家となる。弾正にはそれが見えているということじゃ」
「幕臣方は今どのような動きをされているのでしょうか。相模屋で伝え聞く限りでは、甲賀に逼塞しているようにも見えるのですが」
「弾正は幕臣方の【沼田統兼】と接触している」
松山様のお話は驚くべきものでした。【三淵藤英】様は幕臣達を糾合し甲賀の【和田惟政】の元に潜んでいましたが、伊賀に所領を持つ幕臣の【仁木義政】が加わり六角氏と手を結んだのです。更に【細川藤孝】様を尾張の織田家、【石谷頼辰】様を美濃の一色家、【上野量忠】様を毛利家などに遣わせて、周暠様の将軍擁立の根回しを始めていたのです。紀伊の【畠山高政】様が幕臣方に同心し、密かに幕臣の【一色藤長】様が近衛前久様の了解を取り付けているのだそうです。また幕府の行政を支えていた飯尾・松田・諏訪・治部・中澤といった奉行衆も集まっているのだそうです。
「弾正は近衛様の妹姫の花嫁行列にかこつけて畠山高政と接触を図る考えのようじゃ」
畠山家は紀伊河内の守護を務めた三管領の家柄です。三好家と激しく抗争しており、三好実休様を討ち取ったのも畠山高政の軍勢でした。河内の畠山領であった高屋城は三好家が占領しており、畠山高政は紀伊に追いやられていたのです。その仇敵ともいえる畠山家と弾正様は手を結ぶというのです。
「事態が表面化するのは長慶公の葬儀の後になるであろう。それまでに体制を整えたいという弾正の考えじゃ。弾正の片棒を担がされるようで気に入らないが、慶千代のためにも弾正を支えねばならぬ。長慶公が生きておったら、このような事態にはならなかった筈じゃ。つまらんのう」
松山様は愚痴を言いながらも、花嫁行列の宰領を相模屋に頼むと仰せになりました。近衛前久様の妹姫の輿入れの護衛で、かつ武蔵守様への任官勅使の西洞院時当様も、同行することになっております。更に志学院の教授となる僧侶や師範となる武芸者も同行するため、相模屋としても協力を惜しむつもりはないのです。行列は相模屋の先陣五百、松山様の本陣八百、そして松永様から付けられた与力の柳生宗厳様が率いる、後詰五百の大行列になるとのことです。
◆◆
近衛様から正式に依頼があり、相模屋が花嫁行列の宰領をすることになったのです。
「相模屋が宰領を任されたのは名誉な事だけど、畿内のこの様子だと気が抜けないね」
「はい、松山様からも先陣の纏め役を仰せつかりました。宰領の手助けに【本多正信】殿を付けて貰えましたから、かなり楽をさせてもらえそうです」
「小一郎、あたしも小田原への一行に加わるので、そのつもりで準備しときな」
「女将さん、態々京都を留守にしてまで小田原まで行くことはないと思いますよ」
「まあそうなんだけどね。久々に里の者達にも会いたいと思ったのさ。武蔵守様とも直接お話して、今後の見通しを聞いておかないといけないからね。ただの旅じゃないことも承知の上さ。ところで大和の国人衆への根回しは済んでいるのかい」
大和は武家の守護が居ない珍しい国でした。大和国の守護は【興福寺】というお寺が務めていたのです。足利将軍家が地方の有力者を守護として治めさせたように、大和国では興福寺が有力国人衆を【宗徒】として、僧侶の資格を与えて治めさせていたのです。宗徒同士の争いは勿論ありました。応仁の乱では筒井氏が西軍、越智氏が東軍に属して激しく争いましたが、興福寺を抑えて守護になろうとする国人衆はいなかったのです。
興福寺には一般の寺社と違う特殊性があったのです。法相宗という聞き慣れない宗派の興福寺は摂関藤原北家との関係が深く、手厚く保護されていました。大和一国ほとんどの荘園を領していたため、武家の入り込む余地が無かったのです。寺の周囲には塔頭と呼ばれる多くの子院が建てられており、その中でも特に、一乗院と大乗院は皇族や摂関家の子弟が入る門跡寺院として、強大な権力を有していたのです。
その興福寺の大和支配を崩したのが松永久秀様なのです。松永様は興福寺を見下ろす山の上に、多聞山城を築いて興福寺を抑えると筒井氏を倒し、古市氏を従えて大和盆地北部を制圧しました。南部の箸尾氏が誼を通じると越智氏、十市氏、楢原氏を降して武家による大和の統一を成し遂げたのです。
「国人衆の根回しについてですが、筒井氏の残党が蜂起するのではないかとの噂もありました。けれども近衛様が一乗院を通じて、興福寺に働き掛けを行って下さいました。行列に手を出した者は興福寺から破門されるとの噂が出てからは、変な動きは治まっているようです」
「それなら大和国内は安心だね。紀州の方はどうなんだい」
「大和国から紀伊国に入り紀ノ川沿いを進みます。紀ノ川の上流から伊都郡は高野山、那賀郡は根来寺と粉河寺、最下流の名草郡と海部郡は雑賀衆の勢力範囲になっております。雑賀衆の佐々木党と良好な関係ですので問題ありませんが、高野山と粉河寺、根来寺には関役を支払うことで話がついております」
「解ったよ。ただこれだけの行列となると軍勢としても大きなものだ。間違いが起こらないとも限らないから細心の注意を払うんだよ。宇治から大和、紀州との交易路が確立したら堺や大山崎を経由せずに済む。大した量は運べないかもしれないが、万一の助けになると思う。小一郎、しっかりやるんだよ」
◆◆
近衛家姫君の花嫁行列ということで、街道沿いの宿場はお祭り騒ぎとなっておりました。花嫁行列を一目見ようと、近隣から見物人が集まってきていたのです。先陣を務める相模屋は完全武装の行軍となりました。物見を先行させて見物人を遠ざけるのも先陣の役割です。更に宰領として行く先々への根回しもあり、宿所となる寺社に人を走らせて、受け入れ体制の確認もしなければならないのです。
「風間殿は商人と聞いておりましたが、行軍の宰領も慣れておるのですな。見事なものです」
「本多殿の助けがあればこそですよ。それに相模屋の者達も商品の護衛に慣れております故、助かっております」
宰領の補佐をしてくれているのは、本多正信という三河出身の元鷹匠の者です。三河では吉良家方の武将として活躍されたそうですが、松平勢に敗れて松永様の元に身を寄せていたのだそうです。武辺一辺倒と言われる三河武士とは少し様子が違いますが、言葉こそ少なめですが、こちらの意志を読み取り的確に進言してくれるところなど、好感が持てたのです。そうこうしていると、先行していた増田仁右衛門さんが戻って来ました。
「小一郎様、宿所の確認をして参りました。問題は無いようです」
「仁右衛門さん、御苦労さまです。藤左衛門さんと交代して、本陣の松山様に報告して下さいな」
仁右衛門さんも行軍中ということで、お侍のような言葉使いになっています。今度は石田藤左衛門さんに先行させて、見物人達を追い払うようにお願いしたのです。松山様の本陣は主役の花嫁がいることもあって見物人も多く、護衛として緊張を強いられるようでした。花嫁と勅使様の乗った腰輿は、まだ少し寒いこともあって板で覆われたものでしたが、小窓からちらりと花嫁のお顔が見えるとの噂が広がり、見物人が後を絶たないのです。
輿の前後を松山様、加藤教明殿、伊奈忠家殿、伊奈忠次殿らの騎馬武者が守り、新陰流の免許を持つ北畠孝憲様を始めとする武芸者が脇を固めていて、とても物々しい雰囲気なのです。輿の前方には長槍隊、後方には鉄砲隊と弓隊が続き、勇壮な行列となっているのです。後詰の柳生様の軍勢は少し趣が異なっております。嫁入り道具の長持ちや軍勢の兵糧も運んでおり、普段なら相模屋が受け持つような行軍となっておりました。
「風間殿は行軍の宰領をどちらで学んだのですかな」
「商人をする前は北条家に仕える兄者の手伝いをしておりました。兵糧を運んだり河川の改修などをしていたのです」
「成る程、それで手際が良いのですな。某も三河では兵糧方でござった。武芸に劣る故、武辺者共にはだいぶ嫌われたものでござる。風間殿も北条家では辛い思いをされたのではありませんか」
「いえ、皆に良くしてもらいましたよ。弾薬の管理も我等の務めでしたから、北条家では後方支援のお役目も大切なものだと教えられたのです」
「なんと、国によって扱いが段違いなのですな。兵糧方は商人と接する機会も多い故、役得があると疑われる事も多かったのです。真摯に努める程、融通が効かないと責められました」
最前線で戦っている者達が不自由しないようにするのが裏方の役割ではありますが、出来て当たり前と見なされる裏方の仕事は苦労も多いのです。同じ苦労を経験している本多殿に親近感を抱く行軍となったのです。
~おことわり~
近衛前久の立ち位置が史実と変化しております。
~人物紹介~




