親王宣下
1565年冬 井伊谷 お虎
瀬名姫様から恙無く暮らしているとの文が届きました。松平元康様が今川家を見限り謀反してから、瀬名様には辛い日々が続いていたのです。
松平元康様は義元公からの偏諱を捨てて家康と名乗り、瀬名様に離縁の文を寄越したそうです。竹千代君と亀姫様をも見捨てたのです。家を守る為の苦渋の決断だったのかもしれませんが、妾には許せる事ではありませんでした。
そもそも、氏真様が三河衆を駿河に呼び出さなければ良いのに、と恨み事を言いたくなったものです。いえ、何度かは口に出しておりました。
氏真様がその時期に駿府を離れられなかった訳を、瀬名様の文で最近知りました。当初氏真様は吉田城まで出向いて、三河衆の挨拶を受ける予定でした。ところが嫡男の龍王丸様が、流行り病で寝込んでしまったのです。
龍王丸様を心配するが故に駿河に留まったのです。最悪の結果を招くとは、思ってもいなかったことでしょう。悪い事は重なるもので、松平様が謀反するのと前後して、龍王丸様が身罷られたのでした。
「許せぬ。三河衆の人質は悉く首を刎ねよ」
氏真様は嫡男を失い気落ちしておりましたので、三河衆への怒る気持ちに歯止めが効かなかったのです。氏真様の言葉を伝え聞いた瀬名様の御両親は責任を感じて、駿府の屋敷で自害しようとしたそうです。たまたま訪ねてきた【瀬名氏俊】の説得で、自害を思い止まったとのことでした。瀬名氏俊様は三浦氏員様や由比正信様等と連れだって、氏真様をお諫めしたそうです。
「お虎、考え事をしているのですか」
「あら、母上おいででしたか。瀬名様から文が届きました故、色々思い出していたのです」
「そうですか、瀬名様は息災でありましょうか」
「辛いお立場で気丈に振舞っているのではないかと思います。瀬名様が氏真様の側室に上がることで、竹千代君の命だけは助けられたみたいです。まだ幼いのに母と離れて寺に入れられてお可哀想です」
「お虎が気に病むことではありませんよ。首を刎ねられるかもしれなかったのですから、助かった事を喜びましょう。重臣方の説得で氏真様も落ち着かれたのでしょうね」
「妾も寂しいのです。早く旦那様に井伊谷に帰って来て欲しいのです」
「政次の話では、もうじき帰れるかもしれぬと言っておりましたよ」
「真でしょうか」
母上が政次から聞き出したところによると、三河との合戦が一段落着きそうだというのです。三河はほぼ松平勢の手に落ちましたが、遠江と駿河の今川家支配は盤石だそうです。
そして吉田城の西に流れる豊川を境に睨み合いとなり、双方攻め手を欠いて兵を退いたようです。豊川東岸のわち何とかという城の、西郷某の抵抗が最後であったようです。
「小野玄蕃殿が西郷正勝、元正親子を討ち取る手柄を立てたようですよ。井伊勢は月ヶ谷城の守りを固めているそうです」
「小野の手柄や戦の様子などどうでも良いのです。政次は旦那様のことを何故、妾に報せぬのじゃ」
「あらあら、何故でしょうね。確実に帰れるかまだ解らないそうですから、お虎が気を揉まぬように、政次殿なりのお気遣いなのでしょう」
「そのような気遣いなどいらぬわ。松千代も虎松も龍潭寺にて学問に励んでおる。旦那様に褒めて頂きたいものじゃ」
「お虎も直元殿に褒めて頂きたいのではありませんか」
「母上は何を仰せになるのですか。あっ、そうじゃ。どうせなら竹千代君を龍潭寺で受け入れては如何でしょうか。松千代や虎松も喜ぶでしょう。政次なら竹千代君を見張るのにうってつけだと思いませんか」
「あらあら、お顔が真っ赤になっておりますよ」
母上様は妾の咄嗟の思いつきを政次に頼み込んだようです。政次は「また面倒事を……」とぶつぶつ言いながらも、竹千代君の受け入れを駿府に打診してくれたようで「小野政次ならば」と、寿桂尼様のお許しを頂いたのです。一月もすると可愛らしい小坊主が井伊谷にやってきました。
「松千代様のお母上様、【築山】と申します。宜しくお願いいたします」
「良い名じゃな。竹千代君は築山という名前を頂いたのですね。井伊谷では何も心配いりませんよ。妾を母代わりと思って、松千代達と一緒に暮らすのです」
「お虎、余計な事を申すでない。築山は坊主になるのだぞ」
政次の呆れ顔を無視して築山の頭を撫で回すと、緊張していた顔から安堵した表情に変わりました。妾もその表情を見て嬉しくなったのです。
1565年冬 江戸城 北条氏親
正親町天皇の第一皇子の親王宣下が執り行われて、元服し【誠仁親王】となった、と伊勢貞良から報告してきたのだ。親王宣下に尽力した近衛前久様は、無事に朝廷復帰を果たしたようだ。主上からは前久様に対して、北条家の忠誠に感謝するとのお言葉を頂いた、とのことであった。朝廷に復帰を果たした前久様は、後押しした北条家に報いるべく素早く動いていた。幕府機能が麻痺している隙を突いて、まず前久様自身が有力地方大名の官位斡旋を行い、朝廷内での立場を確立したのである。
「武蔵守様、お喜び下さい。前久様の妹君桂姫様の準備が整いましたぞ。春には関東下向の運びとなります」
「儂も前久様の義兄弟となるのか。一度はお断りした話であったが、覚悟を決めねば先方にも失礼になるな。貞良殿、下向の道筋は如何なりましたか」
「どこも戦乱の渦中故、難しゅうござった。まず京から大和へ向かい紀州を目指します。松永久秀様のご協力が得られたのです。紀州までの護衛には、松山重治殿が就かれるとのことです」
「成る程、紀州からは海路じゃな。しかし近江から伊勢に向かう方が近いのではないか」
「近江から甲賀への道も、大和から伊賀や名張を越える道も伊勢湾に通じております。しかし織田家と今川家や北畠家の争いから、伊勢湾や三河湾の安全確保が難しゅうございます。清水康英からの外洋を回る方が良い、との上申を採用しました」
「旅の無事を願うばかりじゃな。大学別曹の方は如何であろうか」
「教授の選定は順調です。北条家の子弟教育の場ということで、幻庵殿が庠主を引き受けて下さいました。教授には浄土衆の円也殿、真言宗から板部岡江雪斎と快元殿、京都五山の臨済宗等からは随風殿、虎哉宗乙殿、西笑承兌殿の招聘が決まりました」
「なんと錚々たる面々じゃな。大爺様が責任者であれば安心じゃ。大爺様の一喝で子供達も身が引き締まるであろう。武芸師範の目途は如何でしょうか」
「上泉殿の新陰流をと動いておりましたが、鹿島・香取の両神宮から横槍が入りまして、新当流からも師範を募ることになったのです。しかし、師範代に名を連ねた者が問題なのです」
「北条家に仇なす者ということか」
「いえいえ、そのような問題ではなくて、カトリーヌ殿とカトリーネ殿という姉妹なのです。香取神宮の者からは『女子に勝てぬ者が武門を名乗る資格はない』との言い分でしたが、中々の手練れのようなのです」
はい、貞良が何を言っているのか理解が追いつきません。
【カトリーヌ】と【カトリーネ】
誰ですかそれ。
日本人ですか。
髪の色と目の色は何色でしょうか。
「姉の犬殿は弓術と馬術が得意で、流鏑馬を嗜むそうです。妹の稲殿は薙刀を使うと言っておりますが、流石に断ろうと思っております」
盛大に勘違いしてしまったようです。【香取犬】と【香取稲】という日本人の女の子のようです。動揺を隠しながらも、つい面白そうだと感じたのです。
「良いではないか。風間衆の絹殿も手練れであったし、絹殿の後を引き継いで賄いの面倒を見ている、雨宮主水正の妻女なども剣術を使うと聞いておる。女子を武芸の師範代とするには大人達の反対もあろうが、女手も必要じゃから受け入れる方向で検討して欲しい」
「承りました。しかし長野御前がごねても知りませんよ」
まずい。幸千代が師範代に名乗りを上げる姿が容易に想像できたのだ。
「それと近衛様がかなり乗り気で、朝廷では大事になっているようでございます」
親王宣下の献金により官位の斡旋をお願いしていたのだが、前久様は桂姫様の下向に合わせて官位任命の勅使を遣わせたいと、精力的に活動していた。上級公家である堂上家の内、平氏の家柄なのは【西洞院家】の一家だけであった。当主の西洞院時当様は身体が弱く、堂上家から平氏がいなくなるのも時間の問題だ、と言われていたのだ。
前久様は弟を西洞院家の養子に出し、西洞院時慶を名乗らせて平氏の断絶を防ぐと、急に元気を取り戻した西洞院時当様を巻き込んだのだ。主上からの宣旨により西洞院時当が【平氏長者】に就任すると、大学別曹の許可を得たのである。そして北条家の官位として、これまでの貢献と関八州の太守を務めているのに等しいとして、【従四位下参議】が相応しいと奏上したのである。
「なんじゃと。前久様はやり過ぎではないのか。武家から参議となるなど恐れ多いことじゃ。他の方々の不興を買いかねないぞ」
「流石に前久様の父上である近衛稙家様が窘めたようです。前久様はそれでも大学寮の総裁職として【大学別当】に、とお考えでした。しかし前例が殆ど無いということで、武蔵守様の希望でもあった【大学頭】に落ち着いたようです」
最終的には勅使を待たねばならないが、従四位下大学頭・武蔵守となる事が決まったようだ。また特別に参議並ということで、【平宰相】の呼び名を認められることになったのである。
~人物紹介~
瀬名氏俊(?-?)父の瀬名氏貞は【花倉の乱】で今川義元に与力。
関口親永(1518-1562)瀬名氏俊の弟。築山殿の父。
三浦氏員(?-?)今川家の筆頭家老。北条早雲の娘婿。
由比正信(?-1560)由比一門は【花倉の乱】で今川義元に与力。
西郷正勝(?-1562)家康側室の西郷局の母方の実家。元は【三河守護代家】です。
西郷元正(?-1562)嫡流は弟の西郷清員の家系として残ります。
※家康は身分の低い家臣の後家好きとの認識が一般的ですが。側室の西郡局の実家は【今川一門】の鵜殿氏であり、西郷局の母方の実家は【三河守護代西郷家】です。両家とも家格としては松平氏より上位となります。鵜殿家と西郷家は初期の徳川家での待遇は最上位の家格としてのものです。徳川家が大勢力となってから側室を迎えるようになりますが、両家から側室を入れた事情を色々と妄想してみると面白いかもしれませんね。
円也(?-1584)浄土宗相模国大長寺住職。
快元(?)真言宗・鶴岡八幡宮の供僧。当時の神社は【神宮寺】の形式のものも多いです。
随風(1536-1643)天台宗【南光坊天海】。五山で学ぶ
虎哉宗乙(1530-1611)臨済宗1572年伊達氏の招聘を受ける。伊達政宗の師
西笑承兌(1548-1607)臨済宗・相国寺僧録。直江状を受け取った人