越後の仕置
1565年秋 黒滝城 鮎川文吾
「文吾殿、儂も一国一城の主だぞ」
「何を言ってるのじゃ。黒滝城の城代と聞いておるぞ。百歩譲って一城の主だとしても、お主が治める国が何処にあるのじゃ」
「ふふふ、聞いて驚くなよ。武蔵守様から【佐渡介】の官位を名乗る事を許されたのじゃ。内密の話じゃが佐渡の切り取り次第の許しも頂いておる」
「内密の話をそのような大声で話すものではない。しかも、よりによって佐渡とは我等は島流しということではないか」
藤吉郎は浮かれて聞く耳を持っていないようだ。佐渡守ではなく佐渡介というのも妙な話である。所詮は自称なのだから景気良く佐渡守でもいいではないか。
「まあ、これも武蔵守様の深謀遠慮によるものなのじゃ」
藤吉郎は急に真面目な表情となると訳を教えてくれた。越後国衆は代々続いた家名を持つ者達ばかりなのである。北条家の代官として赴任したとしても、出自の定かではない藤吉郎に国衆が素直に従う訳ではないのだ。そこで官位という箔付なのだ。国衆を従わせながらも、威圧感を減らして友好的に取り込む事ができるような配慮らしい。そして外部に敵を作ることで内部の不満を解消するのである。
「成る程のう。それで佐渡であり、介である訳か。風間佐渡介秀吉殿」
「まあ、そういう事じゃ。今は自称であるが武蔵守様は正式に朝廷に申し出ると仰せであった。文吾殿、佐渡を獲るぞ」
武蔵守様は藤吉郎を乗せるのがうまい。この調子なら一国一城の主も夢ではなさそうだ。しかし、佐渡島というのは……。
1565年秋 蔵王堂城 北条氏親
綱成叔父上が揚北衆の仕置を終えて戻ってきた。基本的に阿賀野川以北はこれまで通り国人衆の統治を認めている。小泉庄は本庄繁長、奥山庄は黒川清実、加地庄は新発田長敦をそれぞれ旗頭として、本領安堵を認めたのだ。
しかし、奥山庄の中条藤資と白川庄の大見党は、所領安堵を認めず。白川庄には大熊朝秀が旗頭として入り、会津蘆名氏との申次を担う事になったようだ。
「綱成、下郡の仕置ご苦労であった。揚北衆は如何なる様子であったのじゃ」
「義兄上、なかなか骨が折れましたぞ。流石は武門の名家というところでしょうか。皆、一廉の者達でございました」
「叔父上、大熊朝秀を揚北衆の抑えに白川庄に据えましたが、反発はございませんか」
「まあ、大丈夫であろう。朝秀は大見党の残党を取り込んでおる。蘆名勢とも上手くやれそうじゃ」
大熊朝秀は越後出身ということで揚北衆とも旧知の仲である。次弟の大熊親秀が会津にいるので、流通の連携が取り易いとしての抜擢であった。また、三弟の大熊重連に金山衆を付けて、高根金山の開発を命じているのだ。
「蘆名勢と言えば盛邦も来ておったのではないか。会津に行ってから大分経つが如何であった」
「元気そうでありましたぞ。義兄上も心配性ですな。そうじゃ、盛邦が武州殿に会いたいと申しておったぞ。文を預かっておる」
「なんじゃ、武州ばかりか。儂には無いのか」
「青苧の取引でやり取りしているだけですよ。たまに相談にも乗っていましたが、それだけです」
父上が拗ねそうなので、盛邦に父上にも手紙を書くように頼まなければならないようだ。
「ところで義兄上、中郡(中越)の仕置はどのようになさるのじゃ」
「大筋は武州の提案でよかろう。武州、綱成にも話して聞かせよ」
叔父上が戻るまでの間、越後統治の体制を父上の評定衆と協議を重ねていたのだ。
「越後統治の旗頭を氏繁にしようと考えております」
「彼奴は駄目じゃ。此度も斎藤朝信を討ち取る手柄を立てたとはいえ、無鉄砲過ぎる。大将としては心許ない」
「はははっ、綱成が親父の顔になりよった。氏繁は其方にそっくりではないか。其方に務まるのじゃから氏繁でも大丈夫じゃ」
父上が子供の様に喜びなから、憮然とした叔父上を揶揄っている。「まあまあ」と仲裁して話を進める。氏繁が独り立ちしてやっていける確信はあったが、厄介な問題が発生していたのだ。氏繁は正妻に那波宗俊の娘を娶っていたのだ。
「父上が北条高広の名を毛利に変えた際に、高広が【大江氏の正統に復します】と言った言葉が、那波宗俊の逆鱗に触れたようです」
「なんとも面倒なことじゃな。那波氏も毛利氏も大江氏の分家筋ではないか。武州様には妙案でもあるのか」
「はい、叔父上の許しが必要ですが氏繁に毛利家を継がせて、大江氏の惣領として家を起こそうと思っています」
まず、氏繁を毛利高広の養子として毛利宗家としてから、高広の子景広に毛利分家を興させるのである。更に人質としてやってきた高広の妹と那波宗俊の嫡男顯宗とを娶せて、両家の融和を図ろうというのだ。
「成る程、難儀な事じゃな。毛利家の正統を氏繁に継がせて那波宗俊を宥めて、毛利高広には氏繁の一門にする事で実を取らせて納得させる訳じゃな。儂の跡目は氏秀か。氏繁よりは落ち着きがあるかもしれぬな」
「そうじゃ。氏繁は其方にそっくりじゃからな。北条家の最前線は氏繁の方が良い」
こうして越後の旗頭は氏繁と決まった。後に氏繁は【毛利氏元】と名乗り、蔵王堂城に程近い長岡の地に城を築いて古志郡の統治を行うのである。
「叔父上ならば、氏繁の与力に誰を付けると良いとお考えでしょうか」
「そうじゃな。舅の那波宗俊は決まりじゃ。小幡憲重を付けたかったのじゃが、長野吉業の替わりに西上野衆を纏めて貰わねばならぬ。弟の長野業盛ではまだ若くて抑えが利かぬと思う。武州様は誰か心当たりがござるのか」
「上総の【土岐頼春】は如何でしょうか。柏崎に移った武田家の者達とも懇意にしております。戦振りからも解るように粘り強さがございます。年長者として、氏繁を支えてくれるのではないでしょうか。もう一人は越後衆から【長尾藤景】を推します。上杉輝虎に直言する程の気性の真っ直ぐな男です」
「成る程、良き人選じゃ。ところで黒滝城と寺泊を江戸衆に欲しいとの話は正気なのか。越後の仕置きも終わっておらぬのに、佐渡島に攻めこむなど時期尚早だぞ。まずは足元の越後をしっかり固める事が肝要だと思うぞ」
「叔父上のお言葉も御尤もですが、佐渡を早急に抑えたい理由が出来たのです。佐渡で見つかった金山が思いの外、大きいようなのです」
「また金山か。義兄上から常陸の金山がかなり期待できると聞いたばかりであったし、大熊にも越後高根金山の開発を命じたところではないか。佐渡もそれ程のものなのか」
「はい、柏崎を落としてすぐに金堀衆を佐渡に渡らせたのです。秘かに調べさせたところ、伊豆の土肥金山以上の規模になりそうです」
「なんと……」
絶句している叔父上に、金山で得た利益で信濃川の治水を行う計画を伝えると、更に驚いていた。佐渡金山の開発はこれからだが、相当量の埋蔵金があることは分かっている。その利益を使って信濃川の分水事業を行い、信濃川が暴れ回る広大な湿地帯を、全て水田に変えてしまうという計画なのだ。既に治水巧者の【秋元景朝】に地選をさせており、与板城と黒滝城の間で分水して、信濃川の本流を海に逃がすのに適当な場所を探させているのだ。
「山を削って河を作るじゃと。荒川の西遷よりも規模が大きいではないか。しかし武蔵浦和の輪中が全て水田に変わったのを見た後だと、絵空事でもないかもしれぬな。そのための佐渡島の金山か。武州様は相変わらずやることが突拍子もないな」
「武州の提案は大事になり過ぎるのじゃ。常陸金山で得た利益は利根川の東遷に使いたい、と言ってきたのだぞ。どれ程の効果があるのか、規模が大き過ぎて儂には想像がつかぬ。そちらは結城衆と美浦衆に丸投げじゃ」
「突拍子もない事をするのは義兄上も同じじゃ。武州様もその血を引いたのであろう。佐渡を獲る意義は解った。しかし攻め込む大義名分は如何にするのじゃ。関東に惣無事を通達した儂等がそれを破るのは、信を失う事にもなりかねぬぞ」
佐渡には上杉勢の残党が逃げ込み、佐渡の国人衆が匿っているというのだ。佐渡では守護代の本間一党が雑太・河原田・羽茂・久知などに分かれて混沌としている。惣無事に反する行いが常態化しているのだ。綱成叔父上はじっと話を聞いていた。
「武州様、言い掛かりを付けて横領するつもりじゃな」
「……はい。否定できません……」
「ふふふ。気に病んだ様な顔をするな。武州様も悪くなったものじゃ。いや褒めておるのだぞ。それでこそ北条家の棟梁じゃ」
北条家は興国寺城で興り、伊豆、小田原と攻め獲っていった。敵方からすれば侵略者であったが、早雲公は御自身が領主となった方が領民の為になるとの信念を持っていた。それ故に侵略者の汚名を厭わなかったのである。
「早雲公も小田原を攻める時に同じように悩んだと聞いておる。前の領主より良い政を行えば領民は付いてくるものじゃ。まあ、汚名は義兄上に押し付ければ良いではないか。武州様の思う様にするが良い」
「こらこら、武州を嗾けるでない。ただでさえ何を仕出かすか分からないのだぞ」
綱成叔父上の言葉に心が少し軽くなった。理不尽な行いである事を自覚した上で、その業を背負う覚悟が棟梁として必要なのかもしれない。
1565年秋 春日山城 武田義信
武田家は念願の海を手に入れたのだ。しかし湊を統治したことも無ければ、水軍衆もいない武田家には勝手が解らないことだらけであったのだ。父上は近習衆から、金丸昌続と武藤昌幸を代官として直江津支配を命じたが、早々に行き詰まってしまった。武藤昌幸から真田幸綱を通じて相談を受けていたのだ。
「お館様、息子の昌幸から泣き付かれておりました件ですが、何とか目途が付きそうだと言っておりました。御尽力いただき助かりました」
「儂も次郎に教えを請うた身で偉そうな事は言えぬ。代官衆の努力によるものじゃ」
恥を忍んで武田康信に教えを請うたのである。庁南武田家は柏崎湊の領有を巧く行っていたのだ。上杉家はこの海域独特の理由で、軍事目的の水軍衆を常備していなかった。能登畠山氏の直臣となった能登島水軍衆が、周辺海賊衆の上位者として君臨していたのである。また能登島には伊勢神宮の御領所があって、上杉家の商人司であり伊勢御師でもある蔵田氏が、伊勢神宮の縁から海上交通の安全を担っていた。上杉家が自前で海賊衆を編成する必要が無かったのだ。
康信は柏崎湊を領すると、すぐに能登島の八幡神社に寄進をしたそうだ。また自前の水軍衆として、北条家の水軍の将であった【梶原景宗】を引き入れて、蝦夷から畿内まで通じる貿易を考えているようだ。我が弟ながら驚かされたのである。北条家は伊豆水軍の間宮衆を寺泊に置いて、拠点とするようだ。
「昌幸達が枇杷島広員を登用したのが良かったようです。配下の河治や松倉も良い船頭のようです。それに蔵田家が枇杷島殿の説得で、武田家の御用商人を務めることになりました。能登島水軍衆の【当摩貞信】との交渉も巧くいったようです」
「枇杷島広員は父上の覚えも目出度いようじゃな。父上から上条家の再興の許可と偏諱を賜わり、【上条昌通】と名を改めたようだぞ」
「なんと。それは存じ上げませんでした。上杉家の旧臣の登用といえば、河田長親を召し抱えるとの噂がございますが、真でありましょうか」
「足利義秋様との申次として召し抱えるようじゃ。父上は義秋様を将軍に担ぎ上げて上洛を考えたようじゃが、義秋様は上杉家に恩義を感じているようで、武田家や北条家に担ぎ上げられるのは承服できぬと仰せのようじゃ」
「それも致し方ないと存じます。しかし河田長親は軒猿衆を束ねる者です。油断できる者達ではありませんぞ」
「それは儂も申し上げたのじゃが、父上は承知の上で使うと仰せになり、軒猿衆は上方の情勢に通じておる故、役に立つとお考えであった。義秋様には諏訪に御料所を献上することになりそうじゃ」
「義秋様にも考える時間は必要なのでしょうな。上方の情勢を思うと今が天下を治める好機でありますが、越後を得たばかりでは家中も落ち着かぬでしょう。大殿様はこのまま春日山城に留まるおつもりでしょうか、それとも松本の隠居城に戻られるのでしょうか」
「父上は海の見える景色が気に入ったようじゃ。春日山城を隠居城として整備すると仰せじゃ。甲斐信濃は支城に一門衆を配して、支城体制を整えるそうじゃ。儂にも相談があった故、概要は把握しておる。武田家の領域が広がったことで、統治の為に躑躅ヶ﨑から松本の深志城に本拠地を移したかったのじゃが、お許しいただけなかったのが残念じゃ」
父上は武田家の本貫は甲斐であるべきだとお考えであった。真田に地図を見せながら、武田家の今後の体制を説明していったのである。
~人物紹介~
◆奥近習六人
金丸昌続(1545-1575)土屋昌続。織田家でいえば【森蘭丸】のような立ち位置です。
甘利昌忠(1533-1566)甘利信忠。甘利家は両職の家柄。
武藤昌幸(1547-1611)真田昌幸。「信玄の両眼」
三枝昌貞(1537-1575)山県昌景の娘婿。義信事件では起請文を提出。
曽根昌世(?-?)「信玄の両眼」。義信事件では一時出奔。
長坂昌国(?-1567)武田義信側近。義信事件で連座とも。本作では川中島の戦いで討死
◆武田親族衆
武田晴信(1521-1573)ラスボスの一人
武田信繁(1525-1561)有能な弟君。
武田信廉(1532-1582)影武者の弟君。
一条信龍(1539-1582)傾奇者の弟君。
松尾信是(?-1571)影の薄い弟君。
河窪信実(?-1575)影の薄い弟君。
諏訪勝頼(1546-1582)信玄の四男。
望月信頼(1544-1561)信繁の長男。川中島の負傷により死亡か。今作では生存
武田信豊(1549-1582)信繁の次男。
当摩貞信(1494-1586)主計亮。能登島周辺の通行料徴収を行う。能登畠山氏と密接に結び付いた水軍衆であったと思われます。




