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平宰相〜北条嫡男物語〜  作者: 小山田小太郎
武蔵守の巻(1558年~)
86/117

春日山城の戦い

 1565年春 直江津 武田義信


 眼下には無限の広がりを感じさせる、青暗い水を湛えた海原があった。


「これが海というものなのか……」


 海側から轟々と吹き付ける風は強く、肌寒さを感じさせられた。その寒さよりも風が運んで来る潮の香りと、肌に纏わり付く塩気の感覚がやや不快でありながらも、今まで経験したことのない新鮮なものであった。甲斐と信濃は海に面していない内陸の土地である。武田家にとって海のある領地を得ることは、長年の悲願であったのだ。


「昨年は飯山平から動けませんでしたから、初めて見る海の様子は感慨深いですね」


 供をしている山県昌景も、海の情景に圧倒されているようであった。内藤昌秀が小田原の海を見て感動した、という言葉を思い出した。昌秀は甲斐から一度出奔したことがあり、小田原に逗留していた時期があるのだ。


「お館様、そろそろ戻りましょう。ここが敵地であることを忘れてはなりませぬぞ」


 昌秀に声を掛けられて平常心を取り戻す。まだ、春日山城を包囲したばかりなのだ。我等は父上の命を受けて直江津の惣の者達に、武田家への帰属と矢銭の供出を認めさせたところであった。


「そうじゃな。上杉の討伐が成ってこその海じゃな。浮ついた気持ちで勝てる相手ではないからな」


 父上は上杉討伐のために、二万の軍勢を動員していた。上杉勢は冬の間も戦い詰めであったようだ。魚沼地方に駐留していた北条勢の城に、何度も攻め掛かっていたのだ。しかし北条綱成は挑発に乗らず、上杉勢の攻撃を全て跳ね返した。


 このことで、上杉家の求心力の低下は決定的なものとなってしまった。揚北衆は独自の動きを見せだし、上郡や中郡(上越・中越)の国人衆も、家名存続に向けて動きだしているようだ。


 今回の出陣にあたり、昨年の弾薬不足の教訓を活かして十五万発分の弾薬を準備した。鉄砲一丁あたり百五十発分となる。柏崎領有を巡る交渉の際に父上の承認を得て、北条家から兵糧弾薬の先払いを求めたのだ。交渉は巧くいったが輸送の際に一悶着があった。小山田家が領内の通行に対して、関銭をかけようとしたのである。


 すぐに通行手形を出して事なきを得たが、甲斐の物価が高騰する理由が、この関銭にあることが判明したのだ。小山田信茂と穴山信君に働き掛けて、関所の数を減らすように申し入れた。また寺前町の役銭も物価上昇の一因となっていた。商人の進言を入れて、躑躅ヶ﨑館の近くに小規模ながらも楽市を振興して、物価の抑制を図ったのだ。合戦の準備が【まず甲斐より始めよ】の経済改革に着手する事になったのだ。



 1565年春 大井田城 鮎川文吾


「文吾殿、城に籠もっての戦は終わったぞ。いよいよ越後平に攻める事と相成った。越後勢の守る船岡山砦は思いのほか小勢であるようじゃ」


 下倉山城から帰って来た藤吉郎が嬉しそうに声を上げていた。籠城戦から一転して攻勢に出るようなのだ。


「武蔵守様はまだ越後には着いて居らぬが、儂等も攻め込んでよいのか」


「上野介様(綱成)は越冬した部隊だけでも戦えると仰せであった。大熊殿も兵糧の備蓄が十分に残っていると言っておったぞ」


「それは朗報じゃな。冬の間は越後勢にいいようにやられていたからな。たっぷりとお返ししてやろう」


 傍らに控えていた栗林義長が藤吉郎の話を聞いて少し考え込んでいるようだ。


「義長、如何したのじゃ。何か気になる事でもあるのか」


「いえ、大した事ではないのです。北条家の大軍を前に、急拵えの船岡山砦で越後勢が如何に守るのか考えていたのです。守る場所がなぜ古志長尾家の本城である蔵王堂城じゃないのか、不思議なのです」


「義長は心配症じゃのう。越後勢は大井田城を落とせなかった故、小千谷(おぢや)辺りで食い止めねばならぬだけじゃろう」


「それは分かるのですが、船岡山砦を守るために必要な兵が集まるのか疑問なのです」


 栗林義長は尚も考えていたが、我等は出陣の準備に取り掛かったのである。


 ◆◆


 船岡山砦を守っているのは古志長尾景信・斎藤朝信・大国頼久といった中越勢三千であった。対する北条勢は綱成様直属の黄備と上野衆、江戸衆からは風間隊と山上隊、小田原衆からは松田隊が加わり総勢一万五千であった。北条勢は船岡山砦を囲むように布陣したのである。


「文吾様、おかしくありませんか。我等が取り囲むまで船岡山砦からの抵抗がありません」


「何がおかしいのじゃ。これだけの兵力差じゃ。手も足も出なかったのであろう」


「それならば良いのですが……」


 その時であった。船岡山砦から越後勢が突如として打って出たのである。北条勢は船岡山砦をぐるりと包囲していたため、厚みはそれほどでもないのだ。狙われたのは隣の西上野衆の備であった。


 越後勢は斎藤朝信の旗印を先頭に全軍が打って出たようであった。襲撃を受けた西上野衆は必死に防戦するが、中央突破されて大打撃を受けているようだ。


「藤吉郎、上野衆が危ない。急げ」


「文吾殿、無理じゃ。上野衆は混乱しておる。同士討ちになるぞ」


 越後勢は船岡山砦には戻らず、上野衆の備を突貫すると西の古城を目指して駆けていったのだ。


「藤吉郎様、今の内に船岡山砦を抑えましょう」


 義長の叫びに藤吉郎はすぐさま反応し、船岡山砦に向けて攻め登った。しかし、船岡山砦はもぬけの殻であったのだ。


 この突貫により西上野衆は少なくない被害を被っていた。旗頭の【長野吉業】殿が討死していたのである。綱成様は【小幡憲重】殿に、被害の大きい西上野衆を纏めさせて船岡山砦に置き、古城の攻めを指示したのである。


 ところが今度は行軍中の北条勢に対して、奇襲を仕掛けてきたのだ。狙われたのは江戸衆の隊列であった。


「なんじゃと、古城に隠れたのではなかったのか」


 古城には旗指物が並べられていたが、越後勢は山間の森から突如として現れたのだ。


「藤吉郎様、落ち着いて下さい。越後勢は長く止まる事はできませぬ。方陣となり守りを固めるのです」


「よく解らぬが義長の言う通りにせよ。身を寄せて守りを固めるのじゃ」


 越後勢の攻撃は僅かな時間であった。突貫すると裏に回って攻めかかるのではなく、別の拠点を目指して走り去ったのだ。


「義長、よく解ったな。一体越後勢は何がしたいのじゃ」


「越後勢の目的は変わりないと存じます。拠点を防衛すると見せかけていますが、一撃離脱を繰り返して北条勢を小千谷(おぢや)に足止めするつもりなのでしょう」


「成る程、数の少なさを機動力で補うつもりなのじゃな。」


 藤吉郎はすぐに綱成様に越後勢の戦術を伝えたのである。綱成様は黄備と由良成繁殿率いる東上野衆、江戸衆とで野戦に応じる事にしたのである。


 移動の為の行軍ではなく越後勢の奇襲を警戒しつつ、蜂矢の陣を敷いた状態で蔵王堂城を目指して進軍したのである。これには越後勢も観念したようだ。誘い出されるように姿を現したのだ。綱成様は本陣を蜂矢の陣の中央から前掛かりの位置に移動すると、越後勢の正面に立った。


「儂が北条綱成じゃ。進軍を止めたければ儂を討ち取ってみよ」


 綱成様の挑発に越後勢が攻め掛かってきた。綱成様の軍勢は越後勢の攻撃を正面から受け止めたのだ。


「藤吉郎、綱成様からの使番じゃ。敵を包囲するぞ」


 綱成様の指示は後方の部隊を大きく広げて、鶴翼の陣に変化させて越後勢を包み込むというものだ。


「あい解った。法螺貝を吹け。逃すでないぞ」


 越後勢は包囲される事を察知しているようではあったが、綱成様の本陣目掛けて執拗に攻撃を加えていた。


「北条氏繁が斎藤朝信を討ち取ったり」


 綱成様にも劣らない大音声が聞こえた。綱成様の嫡男氏繁様が斎藤朝信を討ち取ったようだ。これが契機となり越後勢の攻勢が緩んだのである。


「勝ったぞ、勝ったぞ」


 かかり太鼓の音と共に綱成様の勝鬨が戦場に響き渡ったのだ。


「長尾景信、討ち取ったり」


 越後勢の大将である古志長尾景信の討死が伝わると、越後勢は算を乱して敗走したのである。そして主の居なくなった蔵王堂城を制圧し、古志長尾家を滅亡させたのである。



 1565年春 蔵王堂城 北条氏親


 父上と共に三国峠を越え、蔵王堂城に入ると国人衆の帰属が殺到した。まず三条城主の下田長尾藤景・景治兄弟が降伏し、本領安堵を許された。藤景兄弟は綱成叔父上の案内役として、加茂御所攻めの先鋒となったのである。


 次に北条(きたじょう)高広が妹を人質として降伏した。北条城は武田家との緩衝地となる柏崎に属しており、転封が必須である。また父上は更に北条の姓の変更を求めたが、北条高広はその両方を受け入れたのである。北条高広は家名を【毛利】と旧姓に復し、江戸衆の案内役として柏崎制圧の先鋒となったのである。


 柏崎を領しているのは越後守護家に連なる上条上杉家である。上条城には柿﨑泰家・則景の兄弟が与力として入っている。川中島で討死した柿﨑景家の弟達である。また上条城の支城として赤田城と枇杷島城があり、斎藤景信と枇杷島広員が守りを固めていた。江戸衆は毛利高広の案内で北条城に入城したのである。


挿絵(By みてみん)


「武蔵守様、推挙したい者がいるのですが、お目通りをお許し頂けますでしょうか」


「兼豊が推挙するのであれば儂は構わぬぞ」


 兼豊が連れてきたのは宇佐美定満と名乗る老将であった。上杉謙信の軍師かと内心驚いていたが、兼豊の紹介を聞くと少し様子が違うようだ。宇佐美家は越後守護上杉家の家臣として、越後守護代長尾家と争ってきた家だというのだ。


 輝虎の代となり守護上杉家が没落すると、一門の上条上杉家に従っていたが、上田長尾家が輝虎と敵対すると、寡兵にて上田長尾家との前線に立たされていたそうだ。上田長尾政景が輝虎に従うと、政景と共に舟遊びをするほど昵懇となったという。しかし上田長尾家が北条家に従うと、宇佐美定満は上条家での立場を失ったのである。


「宇佐美定満の帰属を認めよう。何か望みは無いのか」


「忝く存じます。されば宇佐美の家名を残していただきたい。息子達は先年の飯山城の戦いにて皆討死して果てました。宇佐美の嫡流は幼い孫娘しか残っておりません。某も齢七十を数えます故、行く末を見守ることも叶わぬのです」


「武蔵守様、某からもお願い申し上げます。政景様と昵懇であった宇佐美殿をお助けしたいのです」


「そうか、其方等の願いを叶えよう。兼豊には二人の息子がおったな。一人を宇佐美の娘と娶せて宇佐美家を継がせる事としよう。定満は孫娘と一緒に、江戸に居る長尾喜平次の元に行くが良い」


「お待ち下さい。某も老骨とは雖もまだまだ戦えますぞ。お役に立ってから望みを叶えて頂かねば、某の矜持が許しませぬ」


 戦陣に立った宇佐美定満は、目通りした時の様子とは別人のように勇壮であった。鎧を纏うと曲がっていた腰が伸びて矍鑠とし、かつて城主を務めた枇杷島城の弱点を知り尽くしていた。上条城攻めでは水の手を奪う手柄を立て、水の手を取り返しに来た柿崎則景を強弓を以て討ち取ったのである。古の中華の名将黄忠も斯くやという弓の腕前であった。


 柏崎を制圧したのと時を同じくして、綱成叔父上が加茂御所を制圧し、関東管領を称した上杉秋憲を討ち取ったとの報せが入った。しかし足利義秋は加茂御所には居らず、既に春日山城に避難しているとのことであった。綱成叔父上は揚北衆の仕置きの為に、そのまま阿賀野川を渡ったのである。



 1565年夏 春日山城 武田義信


 北条勢が柏崎を制圧し、次郎が庁南武田勢と共に枇杷島城に入城した、との報せが入った。北条家が約定の通りに行動していることに一安心したが、上杉輝虎の籠もる春日山城を落とせていない事に焦りを感じている。父上は泰然としているので解らないが、内心はどうなのであろうか。春日山城を包囲しているが、上杉勢も士気が高く包囲の隙を突いてくる。最前線に詰める信繁叔父上の備に対して、何度となく攻め寄せてくるのだ。


挿絵(By みてみん)

 更に上方から驚くべき報せが届いたのだ。公方様が三好家の御所巻の際に、命を落としたというのである。これには父上も驚きを隠せなかったようだ。春日山城に籠もる上杉輝虎や足利義秋様にも報せが届いたようで、足利義秋様が上杉家と武田家の停戦を仲介するとして、再三に渡り使者を送ってきたのだ。しかし、ここまで来て上杉家の存続を許す訳にはいかないのである。父上は意を決して全軍による総攻撃を命じたのである。


 春日山城は山全体を堀と土塁で囲んだ、惣構えの大城郭であった。また内部は幾重にも堀が切られて曲輪を形成しており、取ってもすぐに取り返される攻め辛い城なのだ。総攻めの先陣を切ったのは、信繁叔父上と一条信龍の備であった。信龍叔父上の軍勢は千貫門の前まで進んだのだが、越後方の村山義信の反撃を受けて総崩れとなってしまった。信龍叔父上は逃げる味方に巻き込まれて負傷する事態となった。


 もっと酷かったのは、搦め手から攻め込んだ信繁叔父上の軍勢であった。最初の曲輪を落とし次の曲輪に攻め掛かろうとしたが、横合いの崖の上から銃弾を浴びて、信繁叔父上の副将であった【多田昌治】が討死してしまったのである。輝虎の馬廻りの計見尭元・幸安兄弟が崖の上から逆落としを掛けて、信繁叔父上の軍勢を分断したのだ。計見兄弟を何とか討ち取ったものの、分断された軍勢は混乱状態に陥り、大半が討ち取られる事態となったのである。


 しかし父上は不退転の決意を持って、総攻撃の続行を指示したのである。信繁叔父上の軍勢に替わり、諏訪勝頼の軍勢が搦め手攻めを受け持ち、正面には一条信龍の軍勢に替わり、父上が自ら陣取ったのである。


「大殿様よりの言付けです。お屋形様の軍勢は夜襲を仕掛よとの事です。某が案内致します」


「幸綱、承った。其方が与力とならば安心じゃ。宜しく頼むぞ。策はあるのか」


「はい、我が配下の三ツ者には夜目の効く者がございます。尾根上の陣屋を狙い夜陰に紛れて火を放ちますので、お屋形様にはその陣屋を攻めていただきたいのです」


 これより三日三晩の間、総攻撃が続いたのである。我等も一度は夜襲を看破され幸綱の嫡男・真田信綱が討死し、山県昌景が腕に銃弾を受けて重傷となったが、二つの陣屋を占領したのだ。


 四日目の朝、上杉輝虎の使者として河田長親が現れたようだ。敗北を悟った上杉輝虎は足利義秋の身の安全を条件に、降伏を申し出たのである。


 父上は駒井高白斎を送り、上杉輝虎の意向を確認すると陣を下げさせた。河田長親に連れられて足利義秋が投降してくると、春日山城から火の手が上がったのだ。上杉輝虎は自ら火を放ち、越後上杉家は燃え上がる春日山城の中で滅亡したのである。


~人物紹介~

小幡憲重(1517-1575)西上野衆。武田信玄の足軽大将となった。

多田満頼(1501-1563)夜襲と得意とする足軽大将。

多田昌治(1524-1575)多田満頼の息。

駒井高白斎(1480-?)武田信虎の右筆。高白斎日記の著者。


長尾藤景(?-1575)披露太刀之衆10位。下田長尾当主。三条城主

長尾景治()披露太刀之衆19位。長尾藤景の弟。

北条高広(?-1578)披露太刀之衆9位。北条城主。七手組大将の一人

枇杷島広員(?-?)披露太刀之衆12位。枇杷島城主ということで宇佐美定満と色々混同される人。上条氏系か?

宇佐美定満(1489-1564)伝説の軍師とされる人。本作では今黄忠。

計見尭元()披露太刀之衆37位。謙信の馬廻衆

計見幸安()披露太刀之衆39位。謙信の馬廻衆



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― 新着の感想 ―
[良い点] 1日で読み切ってしまうくらいに面白かったです。 [気になる点] 凡そ理解しているつもりですが、北条領周辺の大まかな勢力分布の変遷を見てみたいですね。 [一言] 武田が義秋を確保したことが…
[気になる点] 同じ文章が繰り返されています。蔵王堂城へ入城してから義信の陣が夜襲を掛ける前までです。
[一言] 伝承では長尾政景と共に湖に沈んだとされる宇佐美定満が北条家臣となるとは・・・北条家版大島光義の爆誕?(笑)。 そして、与六君は直江ではなく宇佐美姓を名乗りそうな予感が・・・(笑)。 こんな…
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