御所巻
1565年春 宇治 風間小一郎
三好様の家中にて家督相続が行われてから、三好様と公方様の関係に変化が出たのだそうです。公方様は積極的に各地の大名と誼を結び、争いの調停を行って将軍権威の高揚を目指していたのだそうです。新興の大名家でも実力があれば懐柔していたそうです。
西国の毛利家に対しての懐柔では、嫡男の元服に際して【輝】の偏諱を与え、安芸介の拝領を朝廷に斡旋までしたそうです。安芸介は毛利家初代の毛利季光が名乗った官位であり、毛利家の正統性を朝廷に認めさせるものでした。越後上杉家にも劣らない待遇との噂でした。公方様は毛利家から得た献金を使い、二条御所として陣屋を造営したのです。
ところがこの動きを三好家は看過できなかったようです。公方様の独自の行動を、三好家との協調体制からの脱却と捉えたのです。三好家の当主三好義継様は、一万の軍勢を率いて御所を取り囲みました。三好勢は「公方様の振る舞い、甚だ度し難く、異議を申し立てる」と口々に叫んで、公方様に要求を突き付けたのです。
しかし、公方様と三好方の交渉は決裂し、激昂した三好方の兵士が御所に乱入する事態となったのです。公方様は僅かな幕臣を率いて三好勢と斬り結びましたが、衆寡敵せず討ち取られたというのです。
「お前さん、洛中の様子はどうなっているんだい。公方様が弑されるなんて前代未聞だよ」
「人をやるにも洛中は三好方の軍勢が溢れていて、近付く事もできぬ有様なのじゃ。少し落ち着くまで様子見するしかあるまい」
「小一郎、松山様は何かご存知ではないのかい。御所巻きには松山様の軍勢もいたそうじゃないか」
「松山の義父上は驚いていた様ですが、隠居の身故、何もご存知ないと仰せでした。義父上は政の話より、寧々の子がいつ産まれるかの方が大事な様です」
そうなのです。那加姫が呼び名を変えてくれたのです。私は邪念との戦いから解放されました。那加姫が巳年生まれでしたので、巳々はどうかと提案したのですが、蛇は怖いと言って、子年生まれの私の奥方という事でねねにしたのです。
「まったく、松山様も肝心な時には頼りにならないね。三好長慶様の動向もはっきりしないし、三好家がどうなってるか解りゃしないよ」
「寧々も飯盛山城での様子は話したがりませんので、お役に立てず申し訳ありません」
「臨月の娘に無理強いするんじゃないよ。何かあったら大変だからね」
すると表の方から騒がしい声が聞こえてきました。松山様が来られて私を探していたのです。
「小一郎、ここにおったのか。那加から産まれそうだと報せが参ったのじゃ。こんな大事にお主は何をしておるのじゃ」
松山様はかなり取り乱している様子です。出産となると男衆は役に立たないものです。女将さんも呆れ顔で松山様を宥めていました。
「松山様、落ち着いて下さいな。あたしが行きますから女衆に任せてご安心下さい。小一郎、松山様のお相手は任せたよ」
女将さんが出て行った後は、松山様と気まずい雰囲気の中で二人取り残されたのです。沈黙に耐え切れず、仕方なく松山様に三好長慶様のお話をお願いする事にしました。
松山様は三好長慶様の事となると話が長くなりますし、何度も繰り返すので聞く方も大変なのですが、今回ばかりは助かりました。
「三好の殿の御為に上を目指していた時が一番楽しかったわ。皆で車座になって酒を飲み、譜代も外様も殿のご兄弟衆でさえも、一緒になって騒いだものじゃ。殿は儂に『武勇談を皆に披露してくれ』と仰せになった。儂も同じ話を何度もしたものじゃ。」
車座になっての宴会話は松山様の定番です。耳にタコができるほど聞いていましたが、今回は気が動転して口が軽くなっているようです。
「殿の居らぬ三好家など興味は無い。儂は那加の子が殿の生まれ代わりだと思っておるのじゃ。この子を守るのが儂の最後の務めじゃとな」
そう仰せになると、また武勇伝が始まります。適当に相槌を打ちながら、必死に驚きを隠したのです。三好長慶様が既に亡くなっていたというのです。三好家が安定するまで喪を伏せているのかもしれません。
三好長慶様が亡くなった事で、家中が分裂状態にある事が容易に想像できました。三好家は阿波譜代衆・淡路水軍衆・畿内国人衆・直属の足軽衆と立場の違う様々な者達を、長慶様の威光で統率していた寄り合い所帯であったからです。
また、困った事に寧々(那加)の子が男子であると松山様が信じているのです。もし女の子であったなら、松山様がどのようになるか想像もつかないのです。
男の子が生まれたと女将さんから報せが届いたのは、日も暮れてしまってからでした。松山様は待つ間にお酒を呑みだしてしまい、報せが届いた時には酔い潰れ眠っておりました。無事に生まれた事と男子であった事に安堵したものです。
生まれた男の子は松山様が名付け親となり、【慶千代】という名をいただきました。洛中の混乱の中、我が家には慶事が訪れたのです。
◆◆
洛中の様子が分からないまま、御所巻が行われてから一月が経とうとした頃、松永久秀様の軍勢が宇治に現れました。たちまち槙島城を占領してしまうと、松永久秀様から私を名指しで呼び出しがあったのです。
城に上がると異例の事に、すぐに奥に通されたのです。室内には松永久秀様と柳生宗厳様、それに憮然とした表情の松山様が居られたのです。
「相模屋、其方の妻は松新の娘で間違いないな」
「はい、間違いございません。松山様からお話があり手前の妻となっております」
「その娘が男子を成したと聞いたが、其方の子であるのか正直に申せ。嘘偽りを申したらただでは済まさぬぞ」
松永様の様子はただならぬ気配がありましたが、どう答えたものか咄嗟には思いつかなかったのです。
「弾正、いい加減にしろ。先程から言っておるではないか、那加と小一郎の子じゃ」
「松新は黙っておれ。柳生に調べさせたのじゃ。其方の娘が殿のお手付きであった事は儂も知っておるのだぞ、白を切るな」
「弾正、それ以上言うな。小一郎の知らぬ事じゃ。小一郎も黙っておれ」
松山様と松永様の言い合いに口を挟む事も出来ずに畏まっていると、柳生様が助け舟を出して下さったのです。
「お二方共、落ち着いて下され、言い争いをしている場合ではないと存じます。危険が迫ってからではどうしようもないのですよ」
柳生様の言葉で何とか収まりましたが、危険があるとは聞き流せない事でした。
「柳生様、危険とは如何なる事でありましょうか」
「那加姫様のお子が、筑前守様(長慶公)のご落胤ではないかとの疑いがあるのです。事の真贋は兎も角、それが三好家中に広がると新たな火種となるのではないかと、弾正様はご懸念されているのです」
「真贋も何も、那加と小一郎の子じゃと言うておるじゃろうが。弾正も柳生もしつこいぞ」
「松新、分かった。これ以上は聞かぬ。幸いな事に殿の身の回りには、信頼できる者だけしか置いておらなんだ。それ故、飯盛山城にも知る者は殆ど居らぬ」
松永様は諦めたようでしたが、松山様に条件をつけたのです。
「隠居した今の有様では子を護るのには心許ない。秘密は漏らさぬが、松新が護れぬのであれば、儂が引き取って育てる事にするぞ」
「くっ、言い分は解った。慶千代は儂が護る。弾正の言う通り槙島城主となって其方に従おう。じゃが儂には手勢が居らぬ。城を任されても困るのじゃ」
「ああっ、もう、手のかかる奴じゃのう。儂の元に三河から流れて来た牢人衆がおる。そこそこ使える筈じゃから其方が使え。それに相模屋の事も考えねばならぬな」
結局、松山様が槙島城城主となり、松永様の傘下に入る事になりました。私の処遇は松山様の婿ですが、これまで通り相模屋の番頭の立場である方が安全だと決まりました。ただ、婿に相応しく、名を武士らしく改める事になったのです。
松山様から風間小一郎長重と名乗る様に言われましたが、松永様が長慶公との関係を疑われる事を案じて、松永様から一字拝領したという形にして秀重にせよと仰せになったのです。しかし、松山様も長の字は必要だと譲りません。結局、妥協の産物として【秀長】と名乗る事になったのです。
「お名前を頂きありがとう存じます。ところで三好様のご家中がどの様になっているか、お伺いしても宜しいでしょうか」
松永様は少し考えてから、知っておく方が良いと仰せになり、これまでの三好家の様子を教えて下さったのです。
三好長慶公は当初、堺公方の足利義維様を奉じて上洛し、足利幕府の刷新を目指しておりました。ところが足利義輝様の政治基盤は、長慶公の想像以上に強固なものでした。政所執事の伊勢様を除いたのも、義輝様の政治基盤を揺るがすためだったのです。
しかし、長慶公は義輝様の威光が地方に根強い事を知ると、妥協を余儀なくされました。足利義維様を保護しながらも、足利義輝様との協調路線に変更せざるを得なかったのです。
三好義興様と松永久秀様が将軍家と融和していったのは、幕府の中で三好家の勢力を確固たるものとする為だったのです。義興様が病を得て薨ると、将軍家では毛利家と誼を結ぶ動きが加速しました。
足利義維様の正室は大内家の出ですが、大内家の所領を横領した毛利家を許せなかったのかもしれません。三好家中でも、毛利家と近付いた将軍家に不満を持つ勢力が発言力を増したのです。
長慶公は将軍家との融和が三好家の進むべき道と定めていましたが、将軍家への家中の不満を抑える事が難しくなっていました。長慶公が亡くなって歯止めが効かなくなり、御所巻きの事態となったのです。
「弾正、御所巻には其方の嫡男久通も関与していたのではなかったのか。てっきり其方の差し金と思っておったぞ」
「それを言うなら松山軍団も関与しておるではないか。久通は雰囲気に呑まれてしまったようじゃ。情け無い。長慶公でさえ将軍交代の難しさを実感して躊躇したのだぞ」
御所巻を主導したのは三好家一門の長老格である【三好長逸】様だそうです。長逸様の要求は足利義維様に将軍位を譲り渡す事を、公方様に認めさせるものだったようです。
「長逸達の失敗は公方様には呑めない条件を先に出して、条件を緩和するように見せかけて、将軍位の譲渡を引き出そうとした事じゃ」
最初に出された条件は、公方様の腹心で三好家の申次でありながら、毛利家との提携を主導した【進士晴舎】の処分と進士一族の連座でした。これには公方様の側室・小侍従局も含まれており、とても呑める条件ではなかったようです。
申次の進士晴舎が公方様と三好衆との訴状の取次に往復している間に、御所を取り囲んだ三好勢の一部が鉄砲を撃ち込んだのです。責任を感じた進士晴舎が自刃した事で交渉が決裂。公方様は覚悟を決めて僅かな手勢で打って出たのだそうです。
「松永様はこれからどの様に為さるおつもりでしょうか」
「公方様を弑逆した長逸と同心するつもりはない。公方様と関係の深い近衛稙家様がお怒りになり、諸大名に三好家討伐を働きかけておる。同母弟の足利義秋様を奉じて幕府を再興せよとな」
「弾正、然れど義秋様は関東公方として越後へ下っているのではなかったか。義秋様の後ろ盾となった上杉家も、芳しい話は聞かぬぞ」
「近衛稙家様は主上にも働きかけて上杉家と武田家、北条家の和睦を調停しようとされているが、足利義維様を推す二条派が武家の争いに介入するべからずと言って、話は進んでおらぬ」
「松永様、それでは足利義維様が新たな公方様と成るのでしょうか」
「まだ分からぬが、公方様の異母弟である周暠様を三淵藤英・細川藤孝・一色藤長等の一党が近江に避難させておる。六角氏の後ろ盾を得ようとしているようだ」
松永様は近衛家との関係が深い同母弟の足利義秋様ではなく、異母弟の周暠様の方が朝廷としても受け入れ易いのではないかとお考えでした。近衛派とも二条派とも利害が少ないのです。
細川藤孝様達の一党は伊勢宗家の没落に際して、幕府では非主流派に追いやられていた方達です。伊勢氏に同情的でしたので、相模屋としても後援するなら周暠様が良いのかもしれません。
〜おことわり〜
御都合主義的に松永氏と提携する感じになってしまいました。当初は相模屋主導で宇治に松永久秀を支援する松山衆を立ち上げる予定だったんですが、適当に小ネタを放り込んでいたらこうなってしまいました。とりあえずこのまま行こうと思います。ご了承下さい。




