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平宰相〜北条嫡男物語〜  作者: 小山田小太郎
武蔵守の巻(1558年~)
84/117

居飛車穴熊

 1565年正月 大井田城 樋口兼豊


 三国峠が雪で閉ざされると、越後と関東の連絡は容易ではありません。上杉輝虎様は冬の到来と共に動き出したのです。対する北条方は長期戦の構えで対応しています。私も正しい選択だと感じています。「野戦であれば、上杉勢とは二倍の兵力であろうと心許ないな」そう仰せになったのは武蔵守様でした。


 輝虎様は戦の天才です。戦場の機微を感じ取り、的確に敵を切り裂く采配には我等も心酔していました。ただ城攻めとなるとそうもいきません。守備側が規律を持って的確に対処し、隙を無くす努力をすることで、天才の采配に対抗できるのです。


 城攻めには守備側を圧倒するだけの戦力差が必要になります。輝虎様はその兵力を集める事が出来なかったのです。阿賀野川以北の揚北衆は恩賞の不足に不満を持ち、上杉家からの離反が加速しているのです。


 最初に離反を表明したのは【本庄繁長】です。元々春日山城から遠隔地ということもあり、小泉庄を横領して独立する動きを見せたのです。同じ小泉庄の【鮎川盛長】と【色部勝長】に対して攻め込みました。更に奥山庄では本庄繁長に呼応して【黒川清実】が【中条藤資】と抗争を始めたのです。


 加地庄では被害の多さに反発が広がりました。加地庄・佐々木党の総領であった【加地春綱】と【竹俣慶綱】が、飯山城落城の際に討死した事が発端です。飯山城の救援要請に輝虎様が応じられなかった事で、春綱の嫡男【加地秀綱】を始め、【竹俣昌綱】【新発田長敦】【五十公野治長】が北条方に帰順を表明しているのです。白川庄に拠点を持つ【山浦国清】と【千坂景親】は、佐々木党に備えて動けなくなっているのです。


挿絵(By みてみん)


 最初の標的となったのは、原胤貞様の守る琵琶懸城でした。輝虎様は高田平から山道の間道を通り侵攻し、五千の軍勢で城を囲んだのです。琵琶懸城には三千の軍勢が配置されており、冬を越せるだけの兵糧と、十分な弾薬が蓄えられているのです。


 大井田城の城代を務める北条氏秀様が軍議をすると言って、主立った者を集めました。北条氏秀様と山上氏秀様・風間秀吉様が座っており、私も末席に座ります。



「猿殿、琵琶懸城に援軍を出さずに大丈夫であろうか」


「牛殿も心配症ですな。原様なら問題ないでしょう。援軍に出た途端に軍神に捕まってしまっては、武蔵守様に怒られてしまいます。牛殿も本音では槍を振るいたいのではありませんか」


「まあ、そうじゃな。喜八と手合せして無聊を慰めておるが、身体が鈍ってしょうがないのじゃ」


「心配せずとも、軍神は大井田城に攻め寄せますから大丈夫ですよ」



 風間殿の言葉に、城代の北条氏秀様が怪訝な顔をして問い掛けた。



「藤吉郎、大井田城が狙われるとは如何なることじゃ。上杉勢は神出鬼没に攻め寄せて挑発し、野戦に持ち込むのが狙いと聞いておったぞ」


「当面は野戦に持ち込むべく動きましょう。ただ冬を越し、雪解けが近くなると状況が変わるのです。武田勢が高田平に攻め込む前に、我等北条勢の越後平への進軍を止める備えが必要なのです。それが下倉山城と大井田城なのです」


「成る程。越後勢は下倉山城と大井田城で、越後平への入口を塞がねばならないのか。そう考えると迂闊に挑発に乗る訳にはいかぬな。原や明智を信じて我等は我等の勤めを果たそう。藤吉郎の慧眼には恐れ入る」


「いやいや、某の話は栗林義長の受け売りでして、全部教えて貰ったものです。お陰で某も慌てなくて済んでおります」


「なんじゃ。やはりそうか。猿殿が軍略に長けているのが、おかしいと思ったのじゃ。義長の言う事なら間違いないな」


「牛殿、酷いな。儂もそれくらいは解っておったぞ」



 慣れぬ雪国での籠城で緊張しているのではないかと考えておりましたが、山上殿と風間殿がいることで、城内には普段と変わらぬ雰囲気があります。少し軽い気もしますが人心掌握に長けていて、精鋭部隊を率いるのに相応しい人物であるという事が理解できたのです。



 ◆◆


「文吾殿、またまた喜八が危ない。手を貸してくれ」


 藤吉郎の言葉に振り返ると喜八が一騎打ちをしている。かなりの手練れのようで、喜八が押し込まれているのだ。取られた曲輪を取り戻すために精鋭を投入しているが、敵も必死なのだ。


「こっちも手一杯じゃ。もう少し耐えられぬか」


「喜八、よう頑張った、後は儂に任せろ。良き武者と見た、猛牛の赤角を受けてみよ」


「鬼小島が相手じゃ。二人ともかかってこい」


 山上殿が朱槍を繰り出し、喜八の応援に入ったようだ。備えを任された旗頭となっても、最前線で槍を振るいたいらしい。指揮を樋口殿に任せて武者働きをしている。それでいいのかとは思うが、曲輪を取り戻すことが今一番重要なので仕方ない。敵方の武者は山上殿と喜八に囲まれても互角に槍を振るっていた。鬼と言うくらいであるから、さぞ名のある者なのであろう。喜八に気を取られて目の前の武者に攻め込まれる。


「ほう、余所見する余裕があるようには見えぬぞ。甘粕景持も舐められたものじゃ。喰らえ」


 甘粕景持は槍を巻上げ、儂は槍を跳ね飛ばされてしまった。咄嗟に距離を詰めて槍の懐に入り込み、組討ちに持ち込んだのだ。しかし組討ちは敵方に分があり、抑え込まれてしまった。脇差が目の前に迫り必死に押し返すが、甘粕景持は体重を掛けて脇差を押し込んでくる。不意に押す力が弱まり、上に乗っていた甘粕景持は血を吐いて転がった。


「文吾様、御無事ですか」


「喜八か、助かったぞ」


 喜八に助けられたようだ。鬼小島と名乗った武者も山上殿に討ち取られたようだ。この勝負が曲輪攻防の帰趨を決した。我等は曲輪の奪還に成功したのだ。春が近付き上杉輝虎の軍勢は大井田城を陥落させようと、猛攻を加えてきている。これまでと様子が変わっていて、それだけでも上杉勢が追い詰められているのが解った。


 ◆◆


「兼豊殿、首実検をお頼み致す」


 風間殿達が戻ってきて成果を披露してくれたのです。小島貞興と甘粕景持、吉江景資の首が並んでおりました。輝虎様の馬廻りを固める精鋭の者達であったのです。首となった者達の名前と経歴を伝えると皆大喜びとなっていました。風間殿が大袈裟に皆を褒め称えて興奮を煽り、士気を高めているのです。かつての僚友の首を眺めながら、輝虎様の落胆ぶりが想像できました。


 曲輪の攻防はそれからも何度も行われたが、奪われてすぐに取り返すということを繰り返しました。数日すると急に越後勢の攻勢が途絶えたのです。武田勢に動きがあったのかもしれません。大井田城が陥落しなかった以上、下倉山城だけでは越後平への侵攻を妨げることはできません。越後平の南端・小千谷辺りまで兵を下げることになるだろうと思われました。



「浮かれてはならぬぞ。勝って兜の尾を締めよとの、氏綱公の遺訓を思い出すのじゃ」



 北条氏秀様は若いながらも立派に城代を務めております。退くと見せかけた輝虎様はもう一度、大井田城に総攻撃を仕掛けましたが、北条家の諸将は慌てることなく防衛し、輝虎様の攻撃を退けたのです。城の攻防は引き分けとなりましたが、大井田城を守り切ったことは戦略的に大きな勝利となります。


 輝虎様は下倉山城に籠もっていた古志長尾勢の撤退を支援し、追撃に備えながら越後平に退いていきました。越後勢の撤退を確認すると、陣代の北条綱成様は接収した下倉山城に幹部を集めて、軍議を開いたのです。



「皆の者、これまでの働き、大儀であった。ようやく武田勢が動き出したようじゃ。我等は武田勢の動きに連動して越後平を目指す」


 綱成様の宣言の後、松田憲秀様より方針が示されました。恭順を示した国人衆は全て本領安堵とするが、古志郡と柏崎湊のある【三嶋郡(みしまぐん)】は転封を条件とするようです。


 大熊殿や私の元にも越後の国人衆から北条家との申次を依頼する文が届くようになっています。全て陣代の綱成様に報告しておりましたが、本領安堵が伝わると更に国人衆の恭順は増えるでしょう。


 風間様からは越後平の状況報告がありました。輝虎様は越後平南端の小千谷(おぢや)に防衛拠点を構えたようです。小千谷中央にある船岡山に砦を築いて、古志長尾景信・斎藤朝信・小国頼久らが守りを固めているそうです。


「加茂公方様は加茂には居らぬとの噂です。まだ裏付けは取れていませんが、春日山城へ避難していると思われます」


 北条家の越後侵攻の大義名分は、関東公方を騙る加茂公方の排除です。あくまでも加茂に居るものとして、侵攻する事になっているのです。



 1565年正月 会津 蘆名徳


「喜多、妾は面白くないぞ」


「お方様、如何なされたのですか」


 蘆名家と二階堂家の争いに伊達家が介入してきたことで、伊達家との関係が拗れているのです。伊達家出身の妾も喜多も、肩身の狭い思いを強いられているのです。疱瘡退治の八幡踊りも広がり始めたところで、停滞を余儀なくされております。


「父上が臥せっていると聞いたが、容態が分からず心配しているのじゃ」


「御老公の御容態は、あまり宜しくないようでございます」


「なんじゃと、なぜ其方が知っておるのじゃ」


 喜多の話では商人達からの情報であるようでした。盛邦が作った【黒脛布組】という馬借衆が、各地の噂話を集めてきているのだそうです。盛邦の郎党である二曲輪猪助が黒脛布組の棟梁となり、組頭に世瀬蔵人と柳原戸兵衛という若者がいて、五十人程が商人司の簗田屋で世話になっているのだそうです。


「二階堂だけでなく越後にも兵を送ると聞いたが大丈夫なのか。周りが全て敵となって囲まれてしまうのではありませんか」


「越後へは北条家からの要請での出陣と聞いております。金上様を大将として阿賀野川を下るようです。盛邦様は領土争いの関与を最低限度にして、阿賀野川流域の水運を押さえると張り切っておられました」


「盛邦も敵を増やさないことに気を配れるなら安心です。そういえば盛邦に子が出来たようですね。正室を定めねば家中の禍となるのではありませんか」


「はい、女子でしたので簗田屋に面倒を見させております。お方様からも御正室をお薦めしていただけないでしょうか。盛邦様は盛興様が正室を娶られてから定めると仰せで、家臣の者達も気を揉んでいるのでございます」


「盛邦は盛興に遠慮していると申すのか。ならば先に盛興の縁談を纏めねばなりませんね。旦那様に伊達家との関係を改善するように申し上げましょう。このままでは伊達の姫と盛興との縁談も棚上げのままじゃ」


 急にやる気が出てきました。盛興と盛邦が正室を娶れば、奥も賑やかになることでしょう。そろそろ孫達に囲まれて楽しく暮らしたいものです。

~人物紹介~

◇揚北衆

◆小泉庄(現:村上市)秩父党

本庄繁長(1540-1614)披露太刀之衆第二位

色部勝長(1493-1569)披露太刀之衆第五位

鮎川盛長(?-?)披露太刀之衆第二十位

◆奥山庄(現:胎内市)三浦党

中条藤資(1532-1573)披露太刀之衆第一位(序列四位・上位に直太刀衆が三人います)

黒川清実(?-?)中条氏と三浦党総領を争うか?

◆加地庄(現:新発田市)佐々木党

加地春綱(?-?)披露太刀之衆第十五位

加地秀綱(?-1587)春綱の息・母は謙信の姉

竹俣慶綱(1524-1582)披露太刀之衆第十七位

竹俣昌綱(?-?)披露太刀之衆第二十四位、慶綱の叔父

新発田長敦(1538-1580)披露太刀之衆第十六位

五十公野治長(1547-1587)新発田長敦の弟。新発田重家として有名

◆白川庄(現:阿賀野市)大見党を含む。揚北衆以外もいます

安田長秀(本作未登場)披露太刀之衆第二十三位

水原親憲(本作未登場)披露太刀之衆第二十七位

下条忠親(本作未登場)披露太刀之衆第二十八位

山浦国清(1546-?)披露太刀之衆第十三位。村上義清の息

千坂景親(1536-1606)披露太刀之衆第六位

◇国人衆・馬廻衆

小島貞興(?-?)鬼小島弥太郎。六入道の一人・小島入道の一族か。

甘粕景持(?-1604)披露太刀之衆第二十六位

吉江景資(1527-1582)披露太刀之衆第二十五位

長尾景信(?-?)直太刀之三人衆の一人。上杉景信(序列一位です)

斎藤朝信(1527-1592)披露太刀之衆第八位。鐘馗様

小国頼久(?-?)六入道の一人。大国とも

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― 新着の感想 ―
[一言] 補足 大関親憲が水原氏の家督を継いだのは、1586年の事とされていますね。 戦国時代の水原氏の系譜は上杉謙信より前の政家の後は、隆家→実家→満家と続いたそうですが、3人の血縁関係は詳しくは…
[良い点] 攻城戦に何倍の兵力が必要か、というのは「定説」が諸説ありますが、2倍というのはこの作品世界における定説なのでしょうか? それとも、普通ならもっと何倍も必要だけど軍神だから2倍でオッケー!っ…
[一言] 佐々木党は加地秀綱の離反は予想出来ましたが、竹俣昌綱、新発田長敦は予想外で驚きました。 五十公野治長は、新発田重家の乱の経緯から考えると、条件次第ではあるかなとも思いましたが、竹俣昌綱と新発…
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