江戸城の風景
1565年正月 江戸城 北条氏親
越後から戻るなり、下野と常陸の仕置きの準備に追われた。当初は父上も臨席する筈であったが打ち合わせもそこそこに、父上は小田原に戻って行ったのだ。三河より不穏な報せが入ったからである。仕置きを終えて江戸に戻ると今度は評定衆に囲まれている。
「来春の越後への補給計画を纏めております。御裁可をお願い致します」
「学院の縄張り図でございます。細部の検討に入っておりますのでご確認下さい」
「青苧座からの報告書です。役銭の受取を致しましたのでお知らせいたします」
「佐竹家より難波田三楽斎が護送されて来ました。引見の予定を組んでおります」
「屋久水軍より東蕃の報告が届いております」
「宇治相模屋から畿内情勢を伝える文が届きました」
「足利頼純様より面会の申し出があります。如何いたしましょう」
執務室での政務が一段落したとろで、相談役の島津忠貞が声を掛けてきた。
「息つく暇もございませんな。流石の武蔵守様もお疲れではございませんか」
「江戸衆の殆どが出払っておるからのう。代わりを務める者が足りぬのは仕方ないが、越後で戦っている者達のことを思うと愚痴も言えぬな」
父上は雪が降る前に坂戸城を落とすとして、昼夜を分かたず攻め続けていたようだ。我等は坂戸城が自落したのを確認してから越後を後にしたのだ。そして、三国峠に雪が降り出したのを見計らうように、上杉輝虎の反攻が始まったようだ。戦の詳細は伝わっていないが、なんとか持ち堪えて欲しいと願っている。
「下野国と常陸国の仕置きは御本城様がされると思っておりましたから、かなり予定が狂いましたな」
「三河には直元もおるからな。やむを得ないことじゃ。細かいところは秀朝と氏時に任せることにした。こちらで残っているのは金山の掌握と三楽斎の処分だけじゃ」
「難波田三楽斎は斬らぬのでございますか。何度も煮え湯を飲まされた相手ですから、極刑を科すと思っていたので意外でした」
「三楽斎は敵ながら有能な男じゃ。儂が使いこなせる相手ではないのが残念ではあるが、里見なら巧く使うであろう。足利頼純殿が妹と共に東蕃行きを希望しておる。次回の船で一緒に送るつもりじゃ」
「三楽斎が東蕃にて北条家に仇なす行動に出るのではないかと心配する声もあるようです。まあ、屋久水軍衆もいますから問題無いでしょうな」
「東蕃の遠さと広さを実感できる者は多くないからな。元々支配できる距離ではないのじゃ。安全な航海のための中継地として存在してくれれば、それでよい」
「大事なのは交易の環境を整えることですからな。独自に交易を主導するくらいでも良いと思います」
南方の海では、これまで貿易を担っていた倭寇集団に替わり、南蛮商人が勢力を拡大することになる。南蛮商人の独占を防ぎ、独自の交易経路を確保することが重要なのだ。明国だけでなく、安南・アユタヤ・シャムといった所には豊富な鉛資源が眠っている。鉛は鉄砲の弾としても、金山で行われる灰吹法にも必要な物であり、不足することが目に見えているのだ。
更にルソンには南蛮人によって、ガレオン貿易の拠点が置かれる、新大陸から様々な資源や特産品が流入してくるのだ。優秀な救荒作物でもあるジャガイモ・サツマイモ・とうもろこし・ひまわりといった特産品を、なるべく早く導入することで、領内の活性化に繋げたいのである。
「ところで清水康英から三河の様子は聞かされておらぬか。直元が心配じゃ」
「御安心下さい。康英が上手くやってくれました。直元様は吉田城まで無事に戻られたようでございます。今川家は三河の仕置きを誤ったようですな」
三河の情勢は二転三転しているようだ。吉良家は水野家の支援を失い、孤立したところで松平勢の攻撃を受けて敗北し、吉良義昭は三河を出奔したようであった。ところが松平元康は西三河の国人衆の求めに応じて、今川家と距離を取ったのだ。そのため、鳴海城が孤立することになってしまった。
その隙を突いて、水野信元は鳴海城を手土産として、織田方への帰順を画策したようだ。ひょっとしたら織田方から、条件の良い調略があったのかもしれない。水野信元が手引きし、佐久間信盛率いる織田勢に急襲されて、鳴海城は落城した。
城主の岡部元信殿も行方が分からなくなっている。鳴海城の落城によって、松平家と今川家の関係修復は不可能となってしまったのだ。父上は不測の事態に備えて、白備の笠原康勝にいつでも出陣できるように指示しているようだ。
「織田家は今後急速に発展する可能性が高いぞ。鳴海城の楔が無くなり、尾張を完全に掌握すると石高は今川家を凌駕する。伊勢湾の水運をも牛耳るとなると、今川家では対抗するのも難しくなりそうじゃな」
「水運による収益はかなりものとなりましょうな。織田家が遠江や駿河に攻めて来るでしょうか」
「どうであろうか。織田家は美濃の一色家と争っておる故、遠江に兵を向ける余裕はあるまい。仮に美濃まで制圧することになっても、伊勢湾水運を考えると伊勢や志摩の方に動く筈じゃ。今川家に目を向けるのは、その後になるであろうな」
「石高に関連することですが、尾張で小田原式農法を広めている【今村正親】は、武蔵守様の予想通り、井伊直親で間違いないようです。硝石の製法は漏れておりません」
井伊谷で硝石の製造をさせていなかったのが幸いしたようだ。小田原式農法は関東で広く行われているので、伝播していくのは時間の問題であった。幸いな事に硝石製法の秘密は守られている。今村正親は織田信長の腹心・丹羽長秀の配下となっているようだ。
「おやおや、一息ついていると聞いておりましたが政のお話ですか。それならば某の話も聞いていただきましょう」
そう言って現れたのはもう一人の相談役である、伊勢貞良殿であった。貞良殿はその人脈を活かして、学院設立のために奔走しているのだ。
「貞良殿、近衛様の朝廷復帰は叶いそうですかな」
「親王宣下が資金難で滞っているようです。これを奇貨として、近衛様の朝廷復帰と大学別曹設立の足掛かりにしよう、と思っています。それに近衛家に納采の進物も送らねば、武蔵守様への輿入れも滞りますからな」
「それは勘弁して欲しかったのじゃが、そうもいかぬな」
「学院の名前は決まりましたか。いくつか候補を上げておりましたが如何でしょう」
「儂は【志学院】が良い。学院の理念にも通じるゆえ相応しいと思うのじゃ」
「成る程、【論語】ですな。相応しい名だと存じます」
学院設立にあたり最初に手を付けたのは、学問を司る菅原道真公を祀った湯島天満宮の整備である。これに鶴岡八幡宮から勧請を行い、武神として崇拝されている誉田別命を合祀して、文武両道の神社としたのだ。
続いて孔子廟(文廟)と関帝廟(武廟)を造営し、学院の象徴とする計画なのである。徐々には進められているが、早雲寺のものをそのまま湯島神社に移して、子弟教育を行っているのが現状である。
「武蔵守様、学院の教授の選定は概ね整いましたが、儒学の教授で難航しております。朱子学の教授は問題ないのですが王(陽明)学は難しいですね」
学院の講義に儒学を取り入れることになっている。その中で朱子学は統治者の立場からすると有効なものであったが、極端になると目上の者を盲目的に崇拝することにも繋がり、上層部が腐敗すると明国のように破綻する事にもなりかねないのだ。これに対して陽明学は朱子学の批判から始まり、道徳倫理を説き、為政者に聖人たる事を求めているのだ。
「忠貞、明国から招聘するのはやはり難しいであろうか」
「難しいでしょうね。まず、伝手がございません。陽明学派と倭寇集団は不倶戴天の敵同士です。相入れることはないと存じます」
王陽明は世代的には早雲公や氏綱公と同時期に活躍した、明の政治家なのだ。王陽明の弟子達が明の政治を支えており、正義派官僚と呼ばれている。その領袖たる【徐階】が倭寇討伐の指揮を取っているのだ。
「であるな。冊封を受けている琉球にも当たってくれ。琉球ならば倭寇とは立場が異なる故、可能性もあるやもしれぬ」
「承りました。新納忠光に伝えておきましょう。ところで話は変わりますが、安藤殿が利根川東遷事業の資金を心配しておりました。越後遠征・学院設立・親王宣下と、かなりの出費となります」
「利根川東遷事業は長期に渡る計画故、早めに着手したいところなのじゃが、常陸の金山に期待するところが大きい。越後の仕置きが済むまでは手が回らぬであろうな。当面は試し掘りと街道の整備に留めることになろう」
利根川の東遷は荒川の西遷の時から計画だけはあった。利根川は坂東太郎と呼ばれる程の暴れ川で、度々、江戸の町に水の害を齎しているのだ。遊水地を設けてはいるが、とても収まるものではなかった。その利根川を関宿で分水し、香取海に繋げて江戸の水害を防ぎ、河川を繋げることで、流通の効率化を図るものであった。
常陸の金山の開発もこれからなのだ。佐竹家が管理していたので、ある程度の開発はされていると思われるが、どれ程の採掘量となるか確定した情報が無いのである。相当な量が眠っている確信はあるが、実際に数字として上がってきていないので、それを元に計画を立てる訳にもいかないのである。
「武蔵守様が確信を持って仰せのようですが、ひとまずは金山衆の報告を待ってから検討致しましょう」
政の話ばかりであった休憩が終わると、また政務となったのだ。文机の上には大量の書類が山のように積んであった。




