飯山城の戦い
1564年夏 躑躅ヶ崎館 武田義信
父上は今年こそ飯山平を平定するとして、甲斐と信濃に大動員を掛けたのである。北条家も魚沼平・十日市平を平定するために、大軍を動員しているようだ。
「お館様、お疲れのご様子ですね。何度も溜息が聞こえておりますぞ」
「長徳か。いよいよ合戦と喜んでばかりもおられぬのじゃ。父上に統治を任されて、戦にこれほど銭が必要なのかと、改めて思い知らされていたところじゃ」
元々、甲斐は米所という訳ではない。飯山平で乱取りするとしても、大軍を賄えるだけの兵糧を確保しなければならないのである。
「北条家も大量の兵糧を集めているでしょうし、今川家も三河の戦で、余剰は少ないやもしれませぬな」
「幾らかは北条家より融通して貰えたのじゃが、それでも充分とは言えぬ。ただでさえ甲斐は物の値が高くなる。こればかりは如何ともし難い悩みなのじゃ」
流通に経費がかかる。特に米・麹・塩といった生活に密着した物は、平時でさえ駿河や小田原の二倍程にもなるのだ。
「物の値を安定させようと、坂田屋の助言を聞いて、関を減らそうとしたのじゃが、穴山と小山田が反対したのじゃ」
「関役は国人衆の取り分ですから致し方ないかもしれませぬ」
「平時なら、黒川金山からの役銭だけで賄えるのじゃが、此度は坂田屋に借銭する事になっておる。坂田屋は【たまり醤油】と【上質紙】の利権を貰えるのであれば、借銭ではなく矢銭として用立てると申しておったが如何であろうか」
たまり醤油の殖産は儂が振興したことになっているが、実際には竹姫と真田幸綱が興したものなのだ。信州では父上が大豆の生産を奨励したことと、保存の為にと味噌造りが盛んであった。しかし、高価な塩が必要であるため、主たる産業とはなり得なかったのである。
竹姫は小田原での経験で味噌の上澄みを調味料として使う術を知っていた。竹姫の点心を食した幸綱が驚き、竹姫に料理法を訊ねたことが、たまり醤油開発の切っ掛けになったのだ。
幸綱は味噌蔵と研究を重ねて、これまで捨てるだけであったものから、上質なたまり醤油を完成させたのである。醤油で駿河の海産物を煮ることで長期保存が可能となり、兵糧としても重宝するようになっていた。
上質紙は井伊直元殿との縁で始まった産業である。美濃から紙職人を呼び寄せて、飯田で作られた【久堅紙】は良質な仕上がりであった。また、秩父からも紙職人を招聘し、甲斐の巨摩地方で殖産したのである。巨摩の紙は秩父の【小川紙】に引けを取らない品質になっていたのである。
「某は坂田屋に利権を渡すべきではないと存じます。利に聡い坂田屋が欲しがる程であれば、矢銭以上の価値があるとの証明だと思います。重臣方の意見はどうなのですか」
「真田も長徳と同じ意見であった。穴山と小山田は商人に任せて、黒川金山のように運上金を取る方が良いと考えておる」
長徳には穏やかに説明したが、実際の評定は大荒れであったのだ。「商人の真似事など浅ましい」と言った穴山に対して、「銭勘定も領主の務めだ」と真田が返した事から言い合いとなり、双方が刀に手を掛ける事態となった。内藤昌秀が「御前である。控えよ」と一喝して、ようやく収まったのである。
「真田様は統治に苦心しておりました故、色々思う事もあるのでしょう。真田様から北条家と武田家の統治の違いに驚いた話を伺った事がございます。人任せで上前を跳ねるのではなく、領民と共に領地を豊かにしなければならぬ、と仰せでした」
北条と武田の統治の違いについては儂も真田から聞いた事がある。真田幸綱は領民の逃散に頭を痛めていたのだが、弟の俊綱から北条家では逃散が少ない事を聞いて、三ツ者を入れて探らせたそうだ。そして領民に真摯に向き合う事が逃散を防ぐ近道だと気が付いたのだそうだ。
幸綱は領内で蕎麦を奨励し、食料事情の改善に務め、組紐造りを冬の間の仕事とし、領民から組紐を買い上げて棟別銭に充てているのだ。真田の組紐は【上田紐】と呼ばれる程になり、甲冑の繋ぎや刀の拵えとして重宝されるようになっていた。
「真田の申す通りじゃな。銭を集める手段を手放してはならぬのやもしれぬ。江戸や小田原には人が集まり、その段銭が北条家に入る仕組みとなっておるそうじゃ」
「仰せの通りかと存じます。甲斐でも市が立ち、人は集まりますが、多くが寺社の者です。仕組みを改めるにしても、寺社の反発は避けられませぬ。慎重にご検討下さい」
「であるな。迂闊には話せぬ内容であるようじゃ。長徳、其方と話して考えが纏まったぞ。また相談に乗ってくれ」
「私で良ければいつでもお相手いたします」
坂田屋から借銭して、軍費を賄う事に心が決まった。身体一つで戦に参加していた時代から、規模が大きくなり、鉄砲を配備することが当たり前になってきた。戦をするには兵糧・弾薬を整えるための銭が必要な時代になっているのだ。
◆◆
飯山城の攻略に動員された兵数は二万にもなった。北条家の軍勢三万もほぼ同時期に三国峠を越えている。上杉輝虎は武田・北条の双方に対処せねばならず、莫大な恩賞を約束して、国人衆に動員を懸けたのである。しかし、下越地方の揚北衆の反応は鈍いものであった。昨年の恩賞の一部が滞っていたのである。
また、中越地方の国人衆達にも厭戦の気配が漂っていた。柏崎北条城主の北条高広が上杉輝虎に談判した事が発端であった。北条高広は加茂公方様に関東公方を辞退して頂き、鎌倉公方様を関東公方として認める様にと、輝虎に諫言したのである。しかし、高広の諫言は上杉輝虎にとっては受け入れ難いものであった。足利幕府を支えてこその越後守護であるとして、諫言を退けたのである。
飯山城は城主・桃井義孝を始め、輝虎の直参衆を含めた四千が守りを固めていた。対する武田勢は蓮城に武田信繁叔父上を旗頭として八千の兵を入れて、父上の本隊は迂回して岩井城に入城し、千曲川を挟んで飯山城を挟み撃ちにする手筈であった。
しかし、板垣信憲に唆された初陣の諏訪勝頼が、偵察に出たところを上杉勢に捕捉されてしまったのである。勝頼の偵察を知った傅役の跡部勝資が、すぐに追い掛けたのだが間に合わず、勝資が勝頼の側に着いた頃には上杉勢に周りを囲まれる事態となってしまった。
信繁叔父上は事態を知るとすぐに軍を率いて救援に駆け付けたのである。乱戦の中、かろうじて勝頼を救出したものの、板垣信憲・甘利昌忠・諸角虎登・多田満頼が討死するという大敗北となってしまった。
我等にその敗戦が知らされたのは、その日の夕方であった。ようやく岩井城に到着し夕食の用意をしようとしたところに、叔父上からの使者が到着したのだ。父上は敗報に顔を歪めたが、すぐに考える表情になって、主立った者達を広間に集めたのである。
「皆も聞いておるように、信繁から敗報が届いた。飯山城を挟撃する作戦は難しくなり、越後勢は今日の勝利に気を良くしているであろうな。然れど、儂は今が好機と見た。これより、飯山城に夜襲を仕掛ける」
父上の宣言に諸将が顔を引き締めた。馬場信房が夜襲に賛成の意を伝える。
「大殿様のお考えに同意致します。越後勢は今日一日戦い詰めであったと思われます。流石に油断はしておらぬと存じますが、疲れが残っているでしょう。夜襲の備えに隙が出るやも知れませぬ」
父上は信房の言葉に頷くと、次々と指示を出した。
「義信、其方は大将として岩井城に残れ。旗指物を並べて、篝火を絶やすな。我等が岩井城に居るように見せるのじゃ」
「承りました」とすぐに了解を返す。
「信房、其方に先鋒を任せる。千曲川の渡河地点を確認しておけ」
「はっ。既に渡河地点は確認済みです。いつでも渡れます」
「喜兵衛、其方は蓮城への伝令じゃ。こちらから夜襲を仕掛ける故、信繁達に明日の未明には蓮城から飯山城に向かうように伝えよ」
「承りました」武藤喜兵衛は文を受け取り、口述を復唱して父上の確認を取ると、足早に広間から出て行ったのである。
「他の者は兵に食事を取らせよ。出陣は日が落ちてからとする。飯山の者に気取られぬように馬に枚をふくませ、鳴物も鳴らしてはならぬ。よいな」
「「「応」」」と皆が応じて、城内が出陣に向けて慌ただしく動き始めた。
夕刻から降り出した小雨の中、馬場信房を先頭に、父上の率いる一万の軍勢が岩井城から粛々と出陣していったのである。儂は内藤昌秀と共に城内を巡回し、篝火の様子を確認していた。
「昌秀、父上の申す通りに夜襲が上手く行くとよいな」
「小雨が降り出したのは僥倖でしたな。これで視界が遮られて、岩井城の炊煙を隠しました。更に進軍の物音も掻き消してくれるでしょう」
「そうじゃな。条件は悪くない、武運を祈るのみじゃな」
父上の軍勢は飯山城の北東、千曲川の下流で渡河すると、寝静まった飯山城に攻めかかったのである。
越後勢は緒戦の大勝利に高揚し、少ないながらも酒が振舞われていたようだ。小雨が降り出した事で、合戦は明日からだと油断しており、疲れから甲冑を脱いで休んでいる者もいたようだ。
飯山城は平城ながらも堅城であった。千曲川の水を掘に引き入れ水堀とし、その水堀は鉄砲の射程を考慮した幅広のものであった。上杉輝虎が縄張りをした最新鋭の城郭なのである。
これまで何度も武田軍の攻撃を退けた城であった。しかし、油断から城門を破られると、水堀の防御も役に立たず、たちまちの内に制圧されたのである。守る城兵は逃げ場を失い、甲冑を付けずに次々に水堀に飛び込んだ。しかし、水堀を泳ぎきったところで周囲を囲まれ、悉く討ち取られたのである。
早々に飯山城を攻略したことで、武田軍には余力が残っている。父上は飯山城の支城である山口城を攻め落とすと、急遽高田平に駒を進めると宣言したのであった。飯山平を平定したことで、高田平へと続く補給路の安全が確保されたのである。高田平には上杉輝虎の本拠地【春日山城】があり、かなりの抵抗が予想されていた。しかし、飯山城の落城が早かったことで、流石の上杉輝虎も対応しきれなくなっていたのだ。
飯山平の慰撫を任された我等は、岩井城を拠点に残党狩りや高田平への補給を担っていた。父上は総勢一万六千の軍勢で高田平に攻め込み、春日山城の支城である鮫ヶ尾城を猛攻を持って攻め落としたのである。鮫ヶ尾城の攻略の報せを持ってきたのは、勘定奉行衆の【青沼忠吉】であった。
「忠吉、報告の任ご苦労である。これほど早く高田平へ攻め込めるとは、予想外の喜びであるな」
「はい、大殿様もご満悦のご様子です」
「父上はすぐにでも春日山城に攻め込むのではないか。兵糧の輸送にこちらも嬉しい悲鳴を上げておるところじゃ」
「それが、些か問題がございます。鉄砲の弾薬が足りないのです」
「何じゃと。弾薬は鉄砲一丁に付き五十発は用意しておった筈じゃ。各自が自前で準備する分も含めれば一丁当たり七、八十発にもなろう。それでも足りないと申すのか」
「はい、実戦で使うのは勿論ですが、調練でも必要となります。かなり節約してはいたのですが、鮫ヶ尾城の戦いで大方撃ち尽くしてしまいました。大殿様は表向きとは裏腹に、かなり苦心しているご様子なのです」
「成る程、それで勘定奉行の其方が戦勝報告を任されたのか。しかし、これ以上の弾薬はこちらにも無いぞ」
「それは勘定奉行衆である我々が一番良く解っております。大殿様も弾薬の不足を越後方に気付かれる事を心配して、春日山城攻めは見合わせると申されました。高田平で乱捕り働きをして、今年は軍を収めるつもりのようです」
「弾薬の不足はどのあたりの者達まで知れ渡っておるのじゃ」
「御親類衆は皆、承知しております。譜代重臣衆も一部の御方には伝えているそうです。ただ国人衆や足軽衆には伝わっておりません。中には真田殿のように不足に気が付いて、我等に声を掛ける者もおりますが、ほとんどは城攻めとなれば補給を受けられると、安易に考えているようにお見受けします」
「あい解った。父上もここまで来て、苦渋の決断であろうな。此度の事を教訓として弾薬の確保にも気を配るようにしよう」
春日山城を指呼の距離まで捉えたというのに、あと一歩を詰める事ができないのである。青沼忠吉と善後策について討論していると、山県昌景が血相を変えて走り寄ってきたのである。
「お館様、北条勢が約定を破り、飯山平に現れました。およそ五百程の軍勢ですが、真宗寺に陣を張っている様子です。如何致しましょう」
「暫し様子を見る他あるまい。北条方から使者は来ておらぬのか」
状況を確かめようとしたところで、内藤昌秀がにこやかに笑いながら入ってきた。
「昌景、慌てるでない。お館様、北条家からの使者が到着致しました。城門の前に待っておられます故、急いでお越し下さいませ」
昌秀に急かされて城門まで移動すると、北条方の使いの者が待っていた。旗指物は武田菱であったが、我等の物と少し形が違うようだ。先頭の若武者が口上を述べだした。
「某は庁南【武田康信】と申します。我が主、北条武蔵守様の使いとして参上いたしました。我が主は武田甲斐守様との面談を希望しております」
使者として訪れたのは弟の次郎であった。顔や体つきは変わっていたが、目元が幼き頃を彷彿とさせた。口上を伝え終えると次郎は笑顔となったのである。
「太郎兄上、御無沙汰しております。次郎にございます」
十二年ぶりの再会となったのである。
~おことわり~
武田義信の任官をこってり・さっぱり・すっかり忘れておりました。
『不死鳥の城』の回で、義信の家督相続の際に任官したという文章を差し入れております。
よろしくお願いいたします。




