宇都宮討伐
1564年春 結城城 水谷政村
「政村、急ぎ主立った者を集めてくれ。父上から下野国の【切り取り次第】の許可を頂いた。儂の裁量で戦を仕掛けても良いとの仰せであった」
お館様が嬉しそうに報告してくれたのは、小田原への年始の挨拶から帰って直ぐであった。
「承りました。小山様や青備の富永様に早馬を飛ばしましょう。お館様、楽しみになってまいりましたな」
日を置かずして、結城城にて戦の評定が行われることになったのだ。古河城の青備からは旗頭の【富永政辰】殿、北条家の御家門衆で、鎌倉公方様の代理人として関宿城を治める【大和晴統】殿、水海城主の【山中盛定】殿、栗林城主の【野田景範】殿が顔を揃えた。唐沢山城主【佐野豊綱】殿も青備の一翼を担うようになっているようだ。
小山衆からは三男の小山重高殿が、小山秀綱殿の代理として参加していた。秀綱殿は前線の宇都宮の統治に手間取っており、宇都宮城を離れることが出来なかったのだ。結城小山譜代衆の【皆川俊宗】【薬師寺勝朝】【山川氏重】【岩上朝堅】、弟の水谷勝俊も並んでいる。
「皆の者、先年来の宇都宮や佐竹の攻勢をよく防いでくれた。敵方の合従策にも綻びが出ているようじゃ。いよいよ反撃に出ることとする。政辰、皆に概要を伝えよ」
青備旗頭の富永政辰殿が「それでは」と進み出て作戦を話しだした。
「小山衆の御働きにより、宇都宮城が陥落いたしました。宇都宮広綱は益子高定を頼り、西明寺に逃げ込んでおります。宇都宮を滅ぼす好機です。まずは多功城と真岡城を落とさねばなりません」
政辰殿の言葉に皆が頷いている。現在の情勢に対する認識は問題無いようであった。皆の様子を確認すると、政辰殿は更に言葉を続けた。
「多功城と真岡城の連携が厄介なものとなっております。水谷政村殿には真岡城の牽制をお願いしたい。水谷殿が連携を分断している間に、お館様の結城勢と青備で多功城を攻め落とします」
「承った。壬生衆が手出しできないように抑え込みましょう」政辰殿に返事を返すと小山重高殿が発言を求めた。
「小山勢は如何すれば宜しいでしょうか。」
「小山様には勝山城を攻めて頂きます。那須勢への対応は【小山秀綱】様の裁量にお任せすることに致します。多功城を落とした後であれば、皆川様や青備の一部を増援に回す事もできるかと存じます」
「お館様の御信頼には兄上も喜びましょう。」
小山重高殿の喜んだ発言に対して、政辰殿は大和晴統様が軍監として小山勢に加わることを伝えて、重高殿の了承を得たのである。出陣の日時が決められ、動員の数や糧道の確保が話し合われて、最後にお館様からお言葉があった。
「皆、御苦労であった。越後勢との戦を控えておるので小田原や江戸からの援軍は無いが、常陸方面には美浦の赤備が対応してくれる手筈じゃ。我等のみで宇都宮と那須を倒すのじゃ。頼んだぞ」
お館様のお言葉に皆が奮起して閉会となった。
「水谷の義兄上、話があるのじゃが、屋敷に同行しても宜しいかな」
散会してすぐに皆川俊宗に声を掛けられた。俊宗の横には薬師寺勝朝と山川氏重も顔を揃えている。戦の準備の為、すぐにでも久下田城に戻りたかったのだが、俊宗達の真剣な表情を見て話を聞くことにした。
「義兄上、大きな戦で手柄を立てて領地が広くなるのは喜ばしいことだと思う。小山兄弟に乗せられて北条家に従った。しかし、新たな領地を得る替わりに、父祖代々受け継いできた領地を召し上げられるのではないかと案じておるのだ」
皆川俊宗の言葉に薬師寺勝朝と山川氏重も頷いていた。大きな変化に戸惑いを隠せないようだ。小山兄弟は、本拠地である祇園城に末弟の【小山重綱】を残してはいる。しかし、上の三兄弟は譜代家臣を引き連れて多気城に移り住んでいるのだ。
「小山兄弟ならば大領を得た替わりに、祇園城を召し上げられても困ることは無いであろうな。多気城や鹿沼の地での統治を聞いた限り、見事に治めておる」
「義兄上、それは何故でしょうか。累代の土地から切り離されては、武家は成り立たぬと存じます」
「俊宗殿達からは、小山兄弟が土地から切り離されているように見えるのじゃな。むしろ逆じゃ。小山殿の接し方は、領民と密な繋がりを持っておると思うのじゃ」
小山兄弟は領地を治めるにあたり、北条家の統治機構を徹底的に研究していた。まずは村々の名主の一族から、次男三男といった家を継げない者達を代官として、直接召し抱えたのだ。彼等を代官とすることで自己申告制であった年貢を、公正に徴収する仕組みを作ったのである。
また、代官の横領を防ぐために代官の任地を輪番とし、更に村々に目安箱を置いて監視を強化したのだ。これまでの中間搾取層が一掃され、年貢率が下がっているにも関わらず、年貢の総量は増えることになったのだ。更に領民への軍役や賦役をも明示したのである。
「末弟の小山重綱殿が代官衆の取り纏めをしておる。この代官衆の運用を多気や鹿沼でも行っていて、多少の戸惑いはあったものの、領民達の小山家への信頼は高いものとなっているのじゃ。元領主の壬生綱雄が何度も一揆を起こそうと持ちかけたようじゃが、領民達が従わなかったのじゃからな」
「成る程、それで小山殿は代官を召し抱えよと助言してくれていたのか。ようやく合点がいきました。儂は面倒事は名主に命じてしまえばよいと思っておったが、代官衆にはそんな意味があったのですな」
「北条家や結城家でも同じような代官衆がおるぞ。ただ、其方等の申す通り、累代の土地から離れ難いという思いも解る。小山兄弟のように思い切りよく動くのは、難しいやも知れぬな。全て叶う訳ではないが、其方等の意向をお館様にも伝えておこう」
「義兄上、お館様には良しなにお伝え願います。我等も領内の統治に関して家中の者と話をしてみようと思います」
「ただ、御三方には領地の改革を進める方が良いと助言しておく。己の村より近隣の村々が優遇されていると感じたなら、領民は逃散いたすやもしれぬ。最悪の場合、一揆ともなるであろう」
「それは困る。然れど小山殿のような統治は、一朝一夕に真似できるものではござらぬ」
「ならば小田原式統治法の指南を受けるつもりで、お館様の側に子弟を置いては如何じゃ。お館様に仕えながら小田原式を知る事もできる。及ばずながら儂も協力しよう」
三人は少し安堵した様子であった。ただ、統治方法の改革は容易ではない。不安を煽った上で人質を促したのだ。少し迷っていたようだが、北条家傘下として小山家発展の様子を知る者達である。人質を出すのも時間の問題かもしれない。
お館様率いる七千の軍勢が多功城に駒を進めた。宇都宮方の勇将【多功房朝】は籠城を良しとせず、寡兵ながらも多功ヶ原に打って出たのだ。田植え前の泥濘んだ地形に思うように大軍を動かすことができず、多功房朝の奇襲を受けて佐野豊綱殿の嫡男小太郎殿が討たれるなど、少なくない損害を受けた。
しかし、甥の仇と奮戦した佐野昌綱殿が多功房朝を討ち取ると、多功勢は算を乱して敗走したのである。お館様は逃げる多功勢の追撃を指示し、そのままの勢いで多功城を制圧してしまった。
お館様は皆川衆と佐野衆を小山衆の援軍に遣わすと、自らは結城衆と青備を率いて真岡城に駒を進めたのである。真岡城は南北に流れる五行川の西岸に位置しており、城郭をぐるりと水堀に囲われた城であった。本丸へは南側から尾根伝いに攻め込まねばならず、尾根には三本の空堀が穿たれており、四分割された連郭式の城なのだ。
「兄上、我等も寄せ手に加わりましょう。地元の者から搦め手の道を聞き出しました。お館様にお伝えしたいのです」
水谷勢は真岡城の牽制であったため、多功ヶ原の戦いには参加していない。真岡城攻めでは先鋒を願い出たのだ。しかし、お館様は真岡城の構造を見て青備に攻城を命じたのである。弟の水谷勝俊は焦りを覚えたようで、頻りに寄せ手に加わろうとしていたのだ。
「慌てるな。戦はここで終わりではないぞ。空堀で仕切られた城を攻めるのは、北条家の得意とするところなのじゃ。お手並み拝見といこうではないか」
「しかし、折角、搦め手を聞き出したのです。隙を突けるのではないでしょうか」
「搦め手というのは、東の浅瀬を渡ってから本丸と水堀の間の腰曲輪をぐるりと回って、本丸の北口に出る道であろう」
「兄上、御存知でしたか」
「当然じゃ。じゃがあの腰曲輪は鬼門じゃ。腰曲輪の脇に泥田が見える。足元が取られる上に、本丸から丸見えとなる。矢の的となるのが関の山じゃ。時間はかかるが大手口から攻める方が良い」
尚も言い募る勝俊を黙らせて、青備の攻城の様子を見分することにしたのだ。
「勝俊、よく見ておれ。曲輪を確保しても次の曲輪に攻め込むためには、空堀を越えねばならぬのじゃ。ところが我等には豊富な鉄砲衆がおる。手前の曲輪からでも先の曲輪を狙えるのじゃ」
北条家のお家芸とも言える攻城の型である。鉄砲衆が先の曲輪の敵を倒して軽業衆の登攀を援護し、軽業衆が堀を越えて後続の本隊の登攀を支援するのである。本隊が曲輪を占領すると、また鉄砲衆の出番となるのだ。
「鉄砲と弾薬が豊富でなければできぬ戦法なのじゃ。城攻めの方法が確立したことで、これまでのような古い山城では守ることはできぬであろうな」
北条家では鉄砲が広まることを考えて、新しい城造りが検討されているようだ。鉄砲の射程を考えた上での城造りが必要となっているのである。堀の深さだけでなく、堀の幅もこれまでの常識では対応できなくなるのだ。
「勝俊、其方はお館様の懐刀とならねばならぬのじゃ。武者働きも必要ではあるが、戦の有り方を常に考えることが肝要じゃ」
勝俊は落ち着きを取り戻して、青備の攻城の様子を見ることにしたようだ。鉄砲部隊の運用という、新たな形式に対応していない城は落城を免れないであろう。真岡城は僅か三日で落城したのである。守将の壬生綱雄と壬生徳雪斎は鉄砲の銃弾にて、刃を交えることもできずに落命していた。
お館様は我等水谷衆に真岡城の接収を申し付けると、宇都宮広綱の籠もる西明寺に進軍したのである。多功城と真岡城の落城を知り、宇都宮広綱はこれ以上の抵抗を諦めて、落飾した上で降伏したのである。
一方、小山秀綱殿は飛山城の備えとして宇都宮城に次弟の小山重朝を残し、宇都宮一門の【芳賀高景】が守る勝山城を攻め落としたのである。秀綱殿は勝山城にて那須衆への調略を働き掛けたのである。那須氏に従っていた川崎城の【塩谷義孝】が降伏したのを皮切りに、黒羽城の【大関高増】・福原城の【福原資孝】・大田原城の【大田原綱清】が臣従を申し出たのであった。
秀綱殿は大和晴統殿の承認を得た上で大関等の臣従を許した。更に本領安堵の条件として、烏山城攻略の先鋒を命じたのである。烏山城の要害に籠もり巧みに防戦していた【那須資胤】であったが、本領安堵の為に大関高増達は必死の猛攻を加えたのであった。流石の名城も猛攻に耐えることができず、那須資胤は城を枕に討死となったのである。
また宇都宮城の小山重朝も、皆川衆と佐野衆の増援を受けて飛山城に攻め掛かっていた。飛山城代の今泉泰光は、衣川(鬼怒川)の渡河を阻止するべく陣を張っており、河を挟んでの対陣となっていた。そこで皆川俊宗は一計を案じ闇夜に紛れて陣を離れ、大きく迂回して渡河を果たしたのだ。俊宗はそのまま今泉の陣に奇襲を仕掛けて、今泉泰光を討ち取る手柄を上げたのである。
飛山城の攻略の報せを受けた秀綱殿は、重朝殿に千本城に駒を進めるように命じた。千本城を守る【千本資俊】は那須資胤の腹心の家臣であり、激しい抵抗を見せていたのだが、烏山城の落城と那須資胤の討死が伝わると、ようやく抵抗を諦めた。千本資俊は自分の命と引き換えに城兵の助命を嘆願し、降伏。佐野昌綱が介錯を務めて千本資俊は腹を切ったのである。
宇都宮家と那須家が滅亡したことで、下野国の制圧がここに完了したのである。
~人物紹介~
宇都宮広綱(1545-1576)宇都宮氏21代当主
多功房朝(1503-1589)宇都宮家臣の猛将
益子高定(1521-1588)芳賀氏。宇都宮家臣の謀将
壬生綱雄(1517-1576)壬生綱房の息。
佐野豊綱(1504-1559)佐野氏14代当主
佐野昌綱(1529-1574)佐野豊綱の弟(息子?)佐野氏15代当主。本作では弟にしてます。
那須資胤(?-1583)那須氏20代当主。
千本資俊(1519-1586)那須七騎の一人。那須資胤の腹心。史実では小勢で佐竹義堅を生け捕る手柄。
大関高増(1527-1598)那須七騎の一人。下野国を代表する梟雄
福原資孝(?-1614)那須七騎の一人。大関高増の弟。
大田原綱清(1538-1590)那須七騎の一人。大関高増・福原資孝の弟。




