不死鳥の城
1563年夏 結城城 水谷政村
上杉輝虎の関東来襲に端を発した北条家と越後上杉家の争いは、三年越しの争いになっている。武田家と提携している北条家が優勢となっていた。しかし、畿内での伊勢氏の失脚が伝わると国人衆に動揺が走っていた。追い打ちをかける様に加茂公方足利義秋が、北条討伐の御内書を関東各地に送っていた。
足利義秋は難波田三楽斎を使者として関東八屋形と呼ばれた宇都宮家、佐竹家、小田家の提携を促し、北条家に対する合従策を進めているようだ。勿論、結城家や小山家、皆川家に対しても勧誘の文が届いており、家中でも動揺する者が出ないよう気を配っていたのだ。
「義父上、皆川家に不穏な空気があるとの噂が聞こえておる。」
お館様となった結城秀朝様から相談があると呼ばれていたのである。お館様の傍らには弟の水谷勝俊も控えていた。皆川俊宗に嫁いだ妹から勝俊へ相談の文が届いたようだ。
「某の元にも妹から心配する文が届きました。小山兄弟のやりように、皆川家中の者が戸惑っている様子が伝わってきました。」
急進的な改革によって領内が豊かになり、軍制も改まったのであるが、その変化に付いていけず、戸惑っている者達も多いのである。特に国人衆が戸惑っているのは論功の有り方であった。先の戦で小山氏は鹿沼郡を得て、宇都宮氏攻略の最前線である多気城と鹿沼城に主力を移していた。当初多気城には青備を入れる予定であったが、小山秀綱が最前線の多気城を望んだことで、代替として小山氏の支城であった榎本城が北条家の直轄領となったのである。
「兄上、榎本城を北条領とすることは秀綱様も納得されていたと聞いております。当初は国人衆にも羨ましがる雰囲気であったのにどうなっているのでしょうか。私も小山様のように活躍したいと思っていたのです」
勝俊も良い所に気が付いたようだ。
「恐らく宇都宮方の益子高定あたりの流言でありましょうな。鹿沼郡を宇都宮が取り戻すと小山家の帰る場所が無くなる、という噂を流しているようです。更に北条家に味方すると累代の領地を奪われる、という噂もあるようです」
「皆川俊宗も流言に惑わされておるのか」
御屋形様が心配そうな顔になっています。
「いいえ、流言に惑わされているのはむしろ御屋形様の方かもしれませんね。まずは御屋形様が動揺していてはなりません。御屋形様の動揺が家中に広がるのが一番の問題なのです。」
「義父上の申す通りじゃな。儂が疑いの目を向けてしまえば仕える者達も安心できぬか」
「仰せの通りです。某が俊宗の様子を観ておきますのでご安心下さい。」
越後勢が魚沼平の坂戸城を落としたとの情報が入ると、那須氏の援軍を得て宇都宮勢が蜂起しました。時を同じくして、佐竹氏と通じた小田勢が多賀谷氏の旧臣を糾合して下館城に攻め寄せてきたのです。お館様は勝俊を下館城に籠もらせて迎撃させると、青備の富永殿と連携して兵を整えたのです。
1563年夏 土浦城 菅谷政貞
小田家は宇都宮家の傍流として興り、【関東八屋形】にも列せられた名家でありました。先代当主の【小田政治】様は小田家の中興の祖とも呼ばれており、南常陸に覇を唱えた名将であったのです。当代当主の【小田氏治】様も、幼い頃から家臣の意見を取り入れ領民の評判も高く、人望の篤い名君になると言われたお方であります。
氏治様は平時であれば名君として名を残したでありましょう。しかし、残念ながら乱世には向いていないのかもしれません。【とにかく戦に弱い】のです。先代政治様は絶対負ける筈のない戦で初陣を飾らせようとお考えになり、選んだ戦があの【河越城の戦い】です。周知の通り歴史的大敗でありました。間もなくして政治様が病でお亡くなりになり、氏治様は若くして小田家を継いだのです。
河越の敗戦と当主の交代で動揺する小田家に対して佐竹氏が狙ってきたのです。更に多賀谷政経が蜂起したことで、小田家の洞であった牛久地方の諸氏も戦乱の渦中に陥ったのです。まごまごしている内に小田城を佐竹氏に奪われて、氏治様は我が土浦城に落ちて来ました。なんとか小田城を奪還した時には、多賀谷政経の蜂起を鎮めた北条家が牛久地方を治める事態となっていたのです。
それでも牛久地方の国人衆は氏治様を慕っており、小田家と北条家の仲介をしてくれたのです。豊田正親、岡見宗治、豊島頼継らの協力で、香取海を取り巻く緩やかな連合体の中の一家として、北条家とも良好な関係を築くことができておりました。そんな折、氏治様の軍配者【天羽源鉄斎】が風雲急を告げる報せを持ってきたのです。
「菅谷様、申し訳ございません。お館様が北条家と事を構えると仰せになりました。」
「なんじゃと。お館様を唆したのは何処の誰じゃ。何故、其方等は御止めしなかったのじゃ」
「唆したのは加茂公方様の使者である難波田三楽斎です。我等も御止めしたのですが、言葉巧みに乗せられてしまったようでございます」
「勝算がどこにあるというのじゃ。北条方の美浦城には常時五千程の赤備が詰めておる。たちまち囲まれてしまうぞ」
「それが北条家ではなく結城家を攻めるなら問題無いと、お館様はお考えのようです。宇都宮家、那須諸氏、佐竹氏が合従し、それに小田家も加わり結城勢を叩くとのお考えです」
「馬鹿者、余計性質が悪いわ。佐竹に小田城を奪われたことをもうお忘れか」
「我等もそう申し上げたのですが、此度は公方様の仰せであるから間違いないと」
「お館様もたまに頑固になるからな。よりによって北条家と事を構えるとは困った事じゃ。すぐに小田城に向かうぞ」
ところが小田城に着くと既に出陣した後でありました。源鉄斎は説得する時間を稼ぐため、一月先の吉日を告げていたのですが、お館様は選んだ吉日まで待てなかったようです。源鉄斎はすぐにお館様を追いかけていきましたが、「政貞は牛久勢と協力して美浦の北条勢を抑えるように」との言付けがあったので、土浦城に戻らざるを得なかったのです。
「できる訳ないわ。阿呆!」
牛久の国人衆に連絡を取り、美浦の正木三浦介氏時様に釈明の使者を送り、必ずお館様を説得するとお伝えしました。お館様の迂闊さを知る牛久の国人衆も、取り成しを約束してくれたのです。案の定、お館様率いる軍勢は結城方の水谷政村の攻撃を受けて、あっさり敗走したようです。更に悪いことに、戻ろうとした小田城には難波田三楽斎が佐竹勢を引き入れており、お館様の帰城を拒否したのです。途方に暮れたお館様は土浦城に逃げ込んで来ました。
「政貞、すまぬ。其方等の言葉を聞かずにこのような事態となってしまった。許せ」
説教しようと待ち構えていたのですが、憔悴したお館様の姿を見せられると強い事も言えなくなってしまいました。
「お館様、北条家に詫びを入れましょう。牛久の国人衆もお館様を心配しております。戸崎城と宍倉城を差し出せば、北条家も許して下さると思います」
お館様は悔しそうに目に涙を滲ませましたが、納得して下さいました。事前に北条家には根回しが済んでおりました。あくまで小田家と水谷家の小競り合いですと押し通したのです。生命まで取られる事にはならないでしょう。けれども再び小田城を取り戻さなければならないとは思っておりませんでした。難儀なことです。
1563年夏 躑躅ヶ崎館 武田義信
武田家の家督継承が行われたことで、周囲が目まぐるしく変化した半年であった。儂は家督相続と共に任官し、朝廷より従五位下【甲斐守】を賜わった。父上が松本の隠居城に移ったことで、躑躅ヶ崎館からも多くの者が移っていったのだ。それと入れ替わるように新当主を補佐し甲斐の統治を支えるため、新しく入って来た者達も多い。
甲斐国人衆の【穴山信君】と【小山田信茂】も代替わりして入ってきた者達である。穴山氏と小山田氏はそれぞれ今川家と北条家の取次を務める家で、三国同盟を維持するにあたり、とても重要な役割を担っている。
穴山家は武田一門衆でありながら独自の家臣団を構成しており、小山田家は武田家と北条家の両属という特殊な立場でもあった。二人とも同年代でもあり、気安く意見してくれる様に申し伝えてある。
国人領主が配下となったことで問題も生じていた。これまで支えてくれた腹心達の家格が釣り合わなくなってしまったのだ。父上に相談して飯富昌景と工藤昌秀に断絶した名家を継承させて家格を上げることを認めて頂いた。これにより昌景は山県家の名跡を継ぎ【山県昌景】となり、昌秀は内藤家の名跡を継いで【内藤昌秀】と名を改めたのである。
「旦那様、白湯をお持ちしました。」
お竹がお春を伴い、白湯を持って入ってきた。
「旦那様、小耳に挟んだのですが、長徳様が望月家の養子に入ると伺いました。真でございますか。」
「もうそんな噂が流れているのか。長徳にも口止めをしてたというのに、人の口に戸は立てられぬものじゃな。真田を通じて望月家に打診しているところじゃ」
長徳は視力を失ったことで家中ではあまり顧みられてはいなかった。今川家から預かった人質であるという認識しか無かったのである。ただ長徳の洞察力は太原雪斎譲りの得難いもので、腹心達の中ではご意見番として相談することも多かったのだ。
ところが真田幸綱が長徳と話す機会が増えたことで、幸綱は長徳の才を埋もれさせるのは惜しいと、滋野一門との縁組を提案してきたのである。滋野一門の望月家には嫡流の男子がおらず、望月信雅の娘を長徳に娶せる方向で進められていたのだ。
「そうですか。それは寂しくなりますね。長徳様の御世話をできる者も付けなければなりませんね」
「心配するでない。長徳は儂の側でこれまで通り仕えてくれることになっておる。どこにも行かぬぞ」
「えっ、それは如何なることでございましょう。訳が解りませぬ」
幸綱の提案に対して長徳は領主を務めることは難しいと断りを入れていたのだ。しかし、幸綱は望月家が諜報を担う特殊な家であることを説明し、望月家の諜報力と長徳の洞察力が合わされば、武田家の助けとなると力説したのだ。
望月信雅の母である【千代女】殿は歩き巫女を統括する神女頭なのである。国人領主としての勤めは望月信雅が現状通り行うことになっていた。幸綱としても滋野一門と武田義信側近との縁が深くなることを望んでいるようなのだ。
「望月様が理解あるお方で安堵いたしました。縁談が成就すると良いですね。今年は旦那様も遠征とならず嬉しく思います」
越後への侵攻は今年も行われているのだが、父上に「当主として甲斐を掌握するのが先じゃ」と言われて政事に集中していたのである。
越後では雪解け前に上杉輝虎が動いていた。北条方に付いた魚沼平の上田長尾家を早々に攻め滅ぼしたのである。上杉輝虎は魚沼平の坂戸城に【河田長親】を入れて防御を固めると、すぐさま飯山城に軍を移動させて武田家の来襲に備えたのだ。
父上の率いる一万五千の軍勢は飯山平に入ると蓮城を攻め落とし、そこに拠点を構えた。上杉勢との決戦を避けて、乱取り働きをしながら北条家の出方を待ったのである。北条綱成率いる二万の軍勢が魚沼平に攻め入ったとの報せがあったが、昨年程の動員ではないようであった。
どうやら冬の間に諜報や外交を用いた応酬があったようで、上杉方も北条方も相手を圧倒する程の軍勢を整えられなかったようだ。
上杉方では昨年の大戦後の恩賞で混乱があり、京都奉行の【神余親綱】が横領の罪で更迭されると、【直江景綱】が後任となったようだ。
北条方では下野国で上杉方に唆された国人衆が蜂起したとの報せがあった。詳細は不明ながら父上の文は上機嫌であると伝えている。飯山城はすぐさま落とせるような城ではないが、昨年来の戦乱で上杉勢の勢いに陰りが見え始めたと父上は感じているようだ。
足利将軍家から武田家と上杉家の講和の使者も来ているようである。父上は一旦は将軍家の顔を立てて、武田家に有利な条件で兵を収めようとしているようであった。
今年は間に合わなかったが、甲斐の体制を整えて来年は越後攻めの戦陣に加われるようにしたいものである。
~人物紹介~
小田氏治(1534-1602)じゃない方のおださん。
菅谷政貞(1518-1592)小田家家臣土浦城主。忠臣。利根川水運に影響力を持つ。
天羽源鉄斎(?-1588)小田家の軍配者。
穴山信君(1541-1582)御親類衆。今川家の取次。武田家での事跡より伊賀越え失敗の方が有名な人
小山田信茂(1539-1582)北条家の取次。武田家での事跡より降伏後の刑死の方が有名な人。




