越後の春
1563年春 越後国坂戸城 樋口兼豊
越後国の冬は一面の銀世界となる。雪に埋め尽くされた人々は静かに春の雪解けを待つのだ。越後では稲作に適した土地が少ない。川下の湿地滞では毎年のように川が氾濫を繰り返している。水捌けが悪く、稲が根腐れを起こすこともしばしばであった。しかも春先から初夏にかけて【恙虫】の病が蔓延り、稲作は困難な土地となっているのだ。
したがって耕作地の殆どが盆地の川沿いとなる。しかし、雪解けしたばかりの川の水は冷たく、農業用水には適していない。溜池に水を溜めて暖かくなってから、田に水を曳きこむのだ。そのように苦労しても収穫は多くないのである。そんな過酷な土地でも越後の民は辛抱強く耐えて、春の雪解けを心待ちにしているのだ。
「兼豊、もうすぐ雪解けとなりそうじゃ。この冬はこれまでにない程の厳しい冬であった。皆もよう頑張ってくれたものじゃ」
長尾政景様に呼ばれて最初に言われたのが、この冬の苦難を労うお言葉でした。長尾政景様は魚沼地方を治める上田長尾家の当主です。我が樋口家は上田長尾家の家宰を代々務めてきましたので、幼き頃は兄弟のように共に過ごしたお方なのです。昨年の北条家との戦乱により魚沼平は荒れ果てて年貢もままならず、降伏した後に支給された僅かな兵糧だけで冬を越さざるを得なかったのです。
「いつもなら雪解けが待ち遠しいのじゃが、今年は恨めしい気持ちじゃ。雪が解ければ輝虎様がすぐにでも攻め寄せてくるであろうな」
「殿、北条家への降伏は仕方ないことであったと存じます。輝虎様も解って下さるかもしれないではありませんか」
我ながら心にもない事を言っている自覚はあった。今回は輝虎様はお許しにならないであろう。北条家の降伏の条件に仙桃院様を人質として引き渡すことが求められたのだ。仙桃院様は政景様の正室であると共に、上杉輝虎様の姉君でもあった。仮に上田長尾家が上杉家に降伏すれば、仙桃院様は無事では済まないだろう。結局、上田長尾家は輝虎様と敵対するしかなくなったのだ。
「無理じゃ。たとえ輝虎様に許す気持ちがあったとしても、古志長尾が黙ってはおるまい。かといって、北条家から援軍が来るまで輝虎様から城を守り切れるとも思えぬ。三国峠の雪解けはまだまだ先となろう。進退窮まったようじゃな」
「口惜しい限りです。今の輝虎様があるのも殿のお蔭ではありませぬか。出家して逃げ出した輝虎様を国主の座に連れ戻したのは殿の功績です」
「善意だけで連れ戻した訳ではないがな。古志長尾家から国主を出したくなかっただけじゃ。まあ今となってはどちらでも良い。昨日、仙桃院から文が届いた。小田原での生活の様子や喜平次の処遇について書かれてあった。雪も無く、暖かい小田原で恙無く暮らしておる様子であった」
喜平次様は箱根湯沢の早雲寺に入門したようです。早雲寺には北条家に属する家から次世代を担う子供達が集められているそうです。武芸や学問を共に学び、切磋琢磨しているとのことでした。
「喜平次は共に入門している北条氏康殿の七男・竹王丸様に見所有り、と可愛がられているそうじゃ。早雲寺は足利学校にも負けない水準で、領主でなければ受けられないような教育だそうじゃ」
「この季節でよくも文を届けられたものです。お方様も喜平次様もその様子であれば安心です」
「北条家の心遣いでもあるが、同時に背信を防ぐためでもあろうな。仙桃院は儂がどのような選択をしても構わない。覚悟はしておると書いておったが、雪解けとなれば上田長尾家の滅亡は免れぬ。諦めたらようやく腹を括ることができたのじゃ。華々しく輝虎様に討たれる所存じゃ」
「殿の御覚悟は承りました。某も御供致します」
「兼豊、すまぬ。そちの気持ちありがたく思うぞ。然れど、そちにしか頼めぬ願いがあるのじゃ。儂の最後の願いとして承知して欲しい」
殿の願いはとても受け入れ難いものでした。某に生き恥を晒せというものだったのです。北条家の人質となった仙桃院様と嫡男喜平次様の引き渡しの際、北条側の受け入れを宰領していたのは北条武蔵守様でした。「上田衆の置かれた立場を思えば、この先どうなるかは予想できます。しかし、上田衆の覚悟次第では儂が喜平次殿の後ろ盾となりましょう」そう武蔵守様は殿に申し出たのだそうです。
「噂で聞く話や文を届けてくれた心遣いから、武蔵守様は約束を違える御方ではあるまい。それでも完全に信用できる相手ではない。喜平次を支える者が居らねばならぬのじゃ。ただの武辺者では務まらぬ。其方にしか頼めぬのじゃ」
殿は涙を堪えながら上田長尾家の再興と、喜平次様の成長を見届けて欲しいと言われました。その御姿を見せられて、殿の願いを断ることができなかったのです。
「観念いたしました。殿の仰せに従いましょう。必ずや喜平次様をお守りいたします」
まだ雪が残る中、姫様達や家中の幼子達を引き連れて坂戸城を後にしました。坂戸城にはもう討死を覚悟した者しか残っておりません。殿の仰せに従い、我等は越後湯沢の荒戸城へと避難したのです。
1563年春 江戸城 北条氏親
島津忠貞が足を引き摺りながらやってきた。多々良沼の戦いでの傷が元で、戦場に立つことができなくなっていたのだ。それでも江戸城で養生しながら相談役として仕えてくれていた。戦続きで働き詰めであった江戸衆の旗頭の見通しがようやくついてきたのだ。
本隊の旗頭には島津忠貞に替わり【原胤貞】とした。胤貞は久留里城の戦いを共に戦った千葉一族で、家督を胤栄に譲って隠居していたところを引っ張りだしたのだ。胤貞の娘が千葉宗家の養女となり、儂の側室として江戸城に入ったため、原胤貞は儂の御由緒衆となっている。
前備の旗頭には【山上氏秀】を据えた。外様足軽衆ではあったが人柄も手柄も申し分なく、荒川西遷事業からの叩き上げなのだ。風間藤吉郎とも昵懇の仲で、家族ぐるみの付き合いがあるようだ。後備の旗頭には【明智光秀】を抜擢した。新参者ながら伊勢宗家の家宰ということで、家中の混乱も少なくて済んだ。光秀が小一郎と昵懇であったので、藤吉郎を始め風間衆や河波衆との関係も良好なのだ。
光秀は新設部隊のために、越前と美濃から譜代衆を呼び寄せていた。一門の明智光久、明智光春、明智光忠、譜代の三宅秀満、藤田行政、溝尾茂朝、比田帯刀、可児才右衛門等の明智衆が中核となり、新規召し抱えの者が多く配置されている。その鉄砲部隊を率いるのは遠藤秀信、遠藤秀清、遠藤俊通の三兄弟だ。
島津忠貞が近衛前久様の訪いを告げてきた。近衛様は一年以上を掛けて、北条家の領内をくまなく視察していたのだ。権力争いのために戦をする為政者ではなく、民草と共に生きる為政者の有り方を知って欲しい、という思いからである。視察の途中で前嗣から前久と名を改めたと聞いていたので、何か心境の変化があったのかもしれない。
面会の間に向かうと近衛様が待っておられた。近衛様の供として、護衛役の上泉行綱と案内役の秋元景朝も一緒である。上泉行綱は上泉信綱の次男で武勇に優れた剣術家である。秋元景朝は大谷休伯と共に治水に携わった内政家で、領内の産業振興を担う官僚としての側面も持っている。
「武州殿、久方ぶりであらしゃりますな。此度は北条家の計らいでええ旅でおじゃりました。身共も色々と考えさせられました」
「近衛様、御無沙汰致しております。京の都のような雅なものはございませんが、近衛様のお役に立てるものがあったのであれば嬉しく思います」
前久様は視察で訪れた地で見たものを楽しそうにお話し下さいました。伊豆の江川酒の酒蔵、土肥金山の錬金の様子、小田原式農法の見分、荒川西遷の治水事業、早川上水、上州の防風林、秩父の馬産地と養蚕、真岡真綿と結城織と興味が尽きなかったようです。領民と共にあろうとする北条家の姿勢に感銘を受けた、とのことでした。
「身共は小田原に参ってから京におじゃります。北条家とは仲良くしていきたいと思っておじゃる。身共の妹を武州殿に遣わそうと思うが、如何であらしゃりますか」
「ありがたい申し出ではありますが、某には既に正室も嫡男もおります。正室としてお迎えすることが叶いませぬ故、近衛家の姫を側室に迎えるなど恐れ多いことに存じます」
「残念であらしゃりますな。身共は側室でも構わぬと思っておじゃるが、家中の火種となるのであれば仕方ありませぬな」
近衛様は北条家に対して良い印象をお持ちになったようでした。北条家が意図した為政者の姿を理解していただけたのです。京に帰ってから政の有り方について考え直してみたい、と仰せになりました。そうして近衛様は小田原で父上と面談した後、京都へと帰っていったのです。
後日、父上から近衛前久様の妹姫が儂の側室として下向されると告げられました。お断りした筈なのに、何故か反故にされてしまったようです。
~人物紹介~
樋口兼豊(?-1602)上田長尾家家宰。直江兼続の実父
仙桃院(1628-1609)上杉謙信の姉。長尾政景室。上杉景勝の母
長尾喜平次(1556-1623)史実の上杉景勝。
北条竹王丸(1554-1579)史実の上杉景虎
◆明智家系譜は土岐流を採用しています。
明智光久(1516-1582)光秀の叔父
明智光春(1537-1582)光秀の従弟。父は明智光安
明智光忠(1540-1582)光秀の従弟。父は明智光久
三宅秀満(1536-1582)史実の明智秀満
藤田行政(?-1582)明智譜代。伝五郎
溝尾茂朝(1538-1582)明智譜代
比田帯刀(?-1582)比田則家
可児才右衛門(?)可児才蔵の養父?か
遠藤兄弟(-)次男と三男は宇喜多のスナイパーとして名を残す。
上泉行綱(?)上泉信綱の次男。
秋元景朝(1525-1587)深谷上杉家家臣。秋元長朝の父。




