都落ち
1563年 明智十兵衛
伊勢貞良様と共に都落ちすることになりました。公方様の周りにはもう佞臣しか残っておらぬのではないかと、嘆かわしい気持ちになります。伊勢貞孝様の後任として政所執事となったのは摂津晴門でした。摂津家は代々官途奉行、地方頭人、神宮方頭人を務めていますが、応仁からの混乱で役目を果たすことができなくなっておりました。
官途奉行とは武家の叙位任官を幕府として取り纏めて、朝廷に推薦する役目があります。しかし、公方様が近江に逃れている期間が長くなると、大名達は朝廷に叙位任官を直奏するようになりました。官途奉行の京都不在が幕府の権威低下を招いていたのです。
また神宮方頭人とは伊勢神宮を管轄する役目ですが、これも有名無実化しています。伊勢神宮の式年遷宮がなんと百年以上も中断しているのです。慶光院清順の勧進により伊勢御師らの遷宮復活の運動が起こり、各地の大名が賛同して祭礼が行われております。その間、幕府は何もできなかったのです。
伊勢貞孝様は幕府の権威を立て直す事に、一所懸命であったのやもしれません。しかし、その行動が公方様の不興を買ってしまい、処断されることになったのです。
船岡山城の落城を覚悟した夜、相模屋の使いと名乗る者が忍んでまいりました。三淵藤英様と細川藤孝様の手紙を携えて、伊勢様を説得して欲しいとの言付けを伝えられたのです。すぐさま貞孝様のお部屋をお訪ねしました。
「貞孝様、三淵様達からのお手紙が届いております。何卒、御身を慈しみ、落ちて頂く訳にはまいりませぬか。」
「十兵衛、儂はもう良い。公方様の愚かさ加減にはもうこりごりじゃ。朝廷も幕府も魑魅魍魎の世界じゃというのに、あの御方は純粋すぎる。幕府の権威という幻想を信じて現実が見えておらぬのであろう。」
「口惜しく思います。」
「それから貞良には好きにせよと申してある。其方が直接貞良に伝えればよい。儂には遠慮はいらぬぞ。」
「殿を置いて落ちるような兵庫頭様ではございませぬ。殿も意地を張らずに一緒に落ちて頂かねばなりませぬ。このままでは伊勢の血が絶えることにもなりかねません。」
「手間のかかる奴じゃな。三淵殿と細川殿の好意を無碍にもできぬな。貞良に血を絶やすことはまかりならんと伝えよう。十兵衛、貞良を呼べ。」
貞良様は貞孝様の言いつけに従い、落ち延びることを涙ながらに同意して下さいました。暗闇の中を城から抜け出し、段蔵と名乗った忍びの者の先導で、宇治の相模屋へと向かったのです。相模屋に着いたのは空が白みだした明け方のことでした。
相模屋に着くと細川藤孝様が出迎えて下さいました。夜通し歩いて疲れ果ててしまった美濃御前を、相模屋の女将が介抱してくれています。虎福丸様と熊千代様、菊姫様は遠藤兄弟に背負われて、すやすや眠っておられます。我等は奥の間に通されて、ようやく一息つくことができたのです。
「細川殿、我等の為に御尽力いただき、忝く存じます。この恩は必ずお返しいたします。」
「貞良殿、某は何も手助けしてはおりませんから、気にすることではありません。しかし、まだ安心できませぬぞ。いずれここにも追手がかかりましょう。一度京を離れた方が良いと存じます。奥方様の御実家の美濃は如何でしょう。」
「藤孝殿の仰せの通りですな。すぐに動いた方が良いのですが、美濃は些か不安があります。斎藤利三からの文によると、一色義龍殿が亡くなり、龍興殿が継いだのだが、家臣の信望を得られておらぬそうなのです。」
「ならば若狭武田家を頼っては如何でしょうか。御当主の武田義統様は公方様の義理の弟にあたります。公方様との調停を取り持って下さると存じます。」
若狭武田家は足利将軍家との縁も深く、幕府の内情にも詳しい。更に六角氏とも縁戚であるため、三好家も手を出すことが難しいと思われた。それに若狭からなら明智の親族や土岐一門が避難している越前とも容易に連絡が取れる。いざという時に頼れるかもしれないのだ。同意しようとした刹那、相模屋の風間道雲が口を挟んだのだ。
「畏れながら、差し出口を挟むようで心苦しいのでございますが、若狭はお止めになった方が良いかと存じます。若狭武田家は内訌の影響で往時の勢いは御座いません。越前の朝倉氏に助けを求めるのではとの噂もございます。」
「相模屋の心配する気持ちはありがたいが、今の世で危険の無い所など無いではないか。」
「仰せの通りではありますが、一度畿内から離れて、外から畿内を俯瞰してみては如何でしょうか。小田原様から伊勢様に、万が一の事があれば出来る限りの手助けをするよう申し付けられております。小田原様は伊勢様が政所を罷免されたことを甚く心配されておりました。」
「其の方は関東に下向せよと言うのか。畿内から離れてしまっては、再び戻ることも難しくなるではないか。」
「貞良殿、某は相模屋の提案は悪くないと存じます。北条家は即位の礼の献納の貢献で朝廷の覚えも目出度い。それに我等幕臣では知り得ぬ守護大名の本音を知ることもできましょう。駿府や小田原、江戸などはここ十年戦乱も無く、京の町以上に栄えておるとも聞いております。見聞を広めると思えば良いのではありますまいか。」
「成る程。藤孝殿の仰せを聞くと、悪くない気も致しますな。」
「いずれ貞良殿の才覚は、幕府にとって必ず必要となります。時が来ましたら我等兄弟が呼び戻します故、今は雌伏の時と堪えて下され。」
「藤孝殿、忝い。相模屋に手配を頼もう。ここに至っては其方等だけが頼りじゃ。手間を掛けるな。」
こうして我等は関東へと下ることになったのです。宇治からは相模屋の隊商に紛れ込み、堺を目指します。この辺りは三好家の勢力下であり、見つかる危険もありました。相模屋はいつもより多く袖の下を渡していたようです。堺から小田原までは、屋久船と呼ばれる大型船での移動です。北条家の持ち船とのことで、水軍衆も充実しているのだそうです。
我等の到着は相模屋により事前に報せが行っており、小田原に着くと北条氏康様と北条氏親様がお出迎え下さいました。北条家が屋久船より早く報せる手段を持っていることに驚かされました。
「此度は北条家の高配を賜わり忝く存じます。某が伊勢貞孝が息、伊勢兵庫頭貞良でございます。」
「北条陸奥守にございます。兵庫頭殿、堅苦しい挨拶は抜きじゃ。北条家は伊勢家の分家筋にあたります。貞孝殿が亡くなったからには、兵庫頭殿が伊勢宗家の総領じゃ。気遣いは無用に願います。こちらに控えるのは息の武蔵守じゃ。武蔵守、挨拶せよ。」
「お初に御意を得ます。北条武蔵守にございます。流石は伊勢宗家と感じ入りました。御郎党の方々も面構えが違いますし、所作も洗練されております。我等は田舎者ゆえ失礼もあるかと存じますが、ご指導賜りますようお願い致します。」
「いやいや、御謙遜召さるな。我等は流浪の身でございます。北条家の好意には感謝の気持ちでございます。」
会見は和やかに進められ、某も兵庫頭様の供として後ろに控えておりました。初めて見た陸奥守様の印象は関東の盟主としての威厳がありながら、時折見せる笑顔に引き込まれるお方でした。御子息の武蔵守様は真面目で堅苦しい印象でしたが、話し始めると話題が豊富で博識なお方でした。その武蔵守様から申し出があったのです。
「兵庫頭様、某の顧問として江戸においでになりませんか。京の情勢に詳しい兵庫頭様にご指導いただきたいのです。公方様や幕臣の方々の人柄や三好家や六角家の方々の為人も知りたいのです。」
「武州、それはならぬぞ。兵庫頭殿は小田原にあって儂の顧問となっていただくのじゃ。」
「父上、ずるいです。先に声を掛けたのは私ではありませんか。それに江戸衆から方面軍に重臣を抜かれたので、軍を任せる者が足りないのです。ここは曲げてお願いします。」
いきなり親子喧嘩かとひやりとしましたが、お二人とも笑っておいででした。陸奥守様は悪戯小僧のような目をしており、お二人で仲が良くじゃれ合っているような印象です。武家の当主一族でありながら、ここまで明け透けに話ができる御家も珍しいかもしれません。
「そうじゃな。江戸衆が手薄になっているのは事実じゃ。兵庫頭殿、武蔵守の顧問となっていただけるとありがたいのじゃが、如何であろうか。」
「我等は世話になる身故、仰せに従いましょう。武州殿、どうぞ良しなに頼み申す。」
「父上、兵庫頭様、ありがたく存じます。そこで相談なのですが、兵庫頭様の御郎党衆にも一軍を率いて頂きたいのです。明智殿を旗頭にしようと思うのです。」
武蔵守様はニヤリと笑って、とんでもない申し出をなさったのです。支配領域が拡大したことで武蔵守様直属の部隊が各地の旗頭として転属したそうです。江戸衆の旗頭が足りないとのことでした。しかし、身分も低く初対面の者をいきなり旗頭に抜擢するとの仰せには、驚きを通り越して大丈夫かと心配になりました。慌ててお断りすることにしたのです。
「武蔵守様のお気持ちはありがたいのですが、お断りしたく存じます。身分も低く、しかも初対面の某を重用したとあっては家中の秩序を乱すこととなるでしょう。某も武蔵守様のことを存じ上げている訳ではありませぬ。」
「すまぬ。嬉しくて気が急いてしまったようじゃ。明智殿のことは小一郎からの手紙でよく聞いていたのじゃ。小一郎の兄は儂の馬廻りを務めておる。」
小一郎殿は元々筆まめなこともあり、京の情勢をこと細かに報告しているようでした。驚いたことに武州様は某の親族のことにも言及されたのです。越前にいる従弟の光春と光忠、譜代の三宅家、藤田家、溝尾家、可児家にも声を掛ければ、すぐにでも一軍を任せられると仰ったのです。これには「某よりも十兵衛のことに詳しいとは武州殿は恐ろしいな。」と兵庫頭様の方が驚きになりました。
「兵庫頭様、たまたま小一郎の縁があったからなのですよ。小一郎が京で世話になっている者として、明智殿の名が上がっていたのです。実は小一郎は元は江戸衆で、将来的には一軍を任せられるやもしれぬと目を掛けていたのですが、相模屋を立ち上げた際に身を切る思いで送り出した者なのです。」
小一郎殿が武蔵守様とこれほど強い結びつきがあるとは意外でしたが、武蔵守様の人柄を感じさせる逸話でした。兵庫頭様は武蔵守様のお言葉に納得し、某のことを武蔵守様にお任せすると仰せになりました。
問題であった家格のことは、明智家を伊勢家の【家宰】としてお取り立ていただけることで解決されたのです。




