武田信玄の苦悩
1562年秋 躑躅ヶ﨑館 武田義信
「旦那様も皆様も御無事のお帰りおめでとう存じます。これまでにない成果であったと聞きました。」
竹姫が満面の笑顔で出迎えてくれた。此度の戦はこれまでの越後勢との戦いと様子が違い、終始優勢に事が進められたのだ。
「ちちうえ、おめでとうごだいましゅ。」
「お園、よう出来た。良い子じゃ。こちらへ参れ。」
娘のお園を抱き上げて、髪を撫でてやると、くすぐったいのかイヤイヤしながら顔を背けていた。皆も微笑ましく笑っている。
「お園、こちらへいらっしゃい。父上はお疲れですから甘えてはいけませんよ。」
「よいよい。お園は軽いゆえ気にならぬ。ところで長徳は居るか、話があるのじゃ。」
「長徳様はお部屋でお待ちですよ。後で白湯をお持ちいたします。」
長徳から戦勝祝いを受けてから皆で歓談となった。飯富昌景、工藤昌秀、それに真田幸綱も一緒である。
「昌秀、長徳に戦のあらましを話してやってくれぬか。」
「承りました。此度の戦で我が武田勢は信濃制覇の締めくくりとなる、飯山城攻略の足掛かりを得たと存じます。越後勢とはこれまで善光寺平で睨み合うのが常でしたが、此度は飯山平まで攻め入ったのです。」
飯山城には桃井義孝が守りを固めており、我等は越後勢の後詰を警戒して慎重に進軍していた。事態が動いたのは武田方の戦場ではなく、北条方の魚沼平であった。坂戸城主長尾政景が妻子を人質として北条方に降伏してしまったのだ。
長尾政景の妻は輝虎の姉でもあった。これに怒り狂った上杉輝虎は供廻りの静止を振り切り、出陣してしまう。兵が集まらず無謀かと思われた出陣であったが、直江景綱の説得と仲介により下田長尾藤景が輝虎に詫びを入れて出兵に同意した。上杉輝虎はかき集めた兵と下倉山城に入り、北条勢と対峙する事態となったのだ。
これに対して北条氏康は暫く睨み合っていたものの、決戦を避けて魚沼平から兵を退き、荒戸城の守りに大熊朝秀を置いて、関東に戻って行ったのである。時を同じくして武田勢も飯山平から兵を退いたのであった。
「それは重畳でございますな。これまでは武田家単独で越後勢と戦っておりましたが、ほぼ互角でありました。ここに来て北条家との同盟の価値が高まってきたようですな。」
「長徳の申す通りじゃ。陣中で父上から心の内を打ち明けられたのじゃ。」
「ほう、それは如何なるお話でしょうか。」
「甲斐には海が無い故、父上の悲願は海のある領土を得ることなのじゃ。父上は昨年の越後勢との戦いで方針を変更すべきか迷っておられたようじゃ。越後勢は手強く、甲斐からの距離もあり、補給も困難じゃ。このままでは良いのか何度もお考えになったそうじゃ。」
三国同盟の成果で武田家は信濃を得ることが出来たのだが、同時に上杉輝虎という大敵を抱えることになっていた。川中島の戦いで多くの将兵を失い、上杉輝虎との泥沼の抗争に限界を感じていた。上杉家と和を成して他の方面に目を向けねばならぬのか、と思うようになっていたそうだ。
最初に目を付けたのは西側の美濃一色家であった。一色義龍が亡くなり、息子の龍興が若くして家督を継いだことで家中が纏まっていなかった。しかし、一色家と今川家が織田家を標的として同盟関係にあり、父上はこれを煩わしく感じていたそうだ。
今川家も今川義元が討死してから三河で混乱が続いていた。いっそのこと織田家や上杉家と同盟して、今川家に攻め込む方が良いのではないかという葛藤があったそうだ。実際に織田家の佐久間信盛から内密の同盟の打診があり、話も進めていたそうだ。岡部元信を始め今川家の諸将とも誼を結んでいたのだ。
しかし、問題となるのは北条家の動向であった。三国同盟の中で最も勢いがあり、同盟を破って今川家と争うことになれば、北条家との争いも避けられない。悩み続けた中での北条家との共同作戦であったようだ。父上は此度の成果を鑑みて三国同盟を維持し、北条家と共に越後征伐を続ける決意を固めたようだ。
「父上は儂に家督を譲り、隠居するとの仰せであった。本音では儂に嫡男が生まれてからとお考えであったそうじゃが、松本平に隠居城を構えて越後討伐に専念したいとのお考えじゃ。実権は父上のままに、儂は甲斐の統治から学ぶようにと仰せられたのじゃ。」
「それは何よりに存じます。我が師、雪斎も安堵いたすことでしょう。三国同盟が成ってから早十年となります。ここで今一度同盟を確かめてみては如何でしょうか。当時とは情勢も変わっております故。」
「長徳の申す通りやも知れぬな。父上に申し上げて機会を設けるように進言致そう。来年もまた越後に出陣となるようじゃ。此度は決戦を避けたのには、一年を掛けて調略を仕掛けるためであるとか。父上も越中勢を煽るおつもりじゃ。」
話が白熱している最中、「失礼します。」と告げて竹姫が入って来た。
「皆様、白湯と点心をお持ちしました。どうぞお召し上がり下さいませ。」
皆に白湯をふるまう竹姫の笑顔を見て、武田家の未来が明るく感じられた。北条家との繋がりの賜であることを思うと、竹姫の笑顔に愛おしさを感じるのであった。
1562年秋 京都 風間小一郎
伊勢貞孝様が船岡山城で挙兵したとの報せは、相模屋でも青天の霹靂の出来事でありました。三好長慶様は直ちに松永久秀様に伊勢貞孝様の討伐をお命じになったそうです。
松山様から相模屋に使いが来たのは、私共が伊勢様の挙兵を聞いたその日の内でありました。【戦の御用商人を申し付ける。従わなければ相応の対応を覚悟するべし。】御隠居様である道雲様は断腸の思いで、私に松山勢への従軍をお命じになったのです。
三好勢はたちまち船岡山城を囲み、じわりじわりと包囲を狭めて行きました。松山様から呼び出されたのは船岡山城の落城も間近に思われた頃でした。
「小一郎、明日は早朝から総攻撃をすることになっておる。今宵は皆に英気を養って貰わねばならぬ。しかし夜営を怠る訳にはいかぬのじゃ。そこでじゃ、其方等相模屋の足軽衆で夜警を務めて貰えぬであろうか。」
「承りました。仰せに従いまする。」
松山様は伊勢家と相模屋の関係を知らない筈はないのに、大事な夜警を任せると仰せになりました。戸惑いながら了承すると、松山様は溜息を付いてお話になりました。
「やれやれ、解っておらぬようじゃな。明日には船岡山城も落城することになろう。其方等が懇意にしている者達も助からぬやもしれぬ。今宵の内に秘かに城から落ちさせよと申しておるのじゃ。」
「なんと。しかし、それでは松山様がお咎めを受けることにはなりますまいか。」
「気付かなかったことにすれば良い。伊勢家の者達は儂の与力として戦った者達も多い。無駄死にさせるようで忍びないのじゃ。それに三淵殿や細川殿からも頼まれておるのでな。」
松山様は今回の伊勢家への処分に納得していないようでした。籠城している伊勢様のご家来衆には明智様を始め、松山様とご縁の深い方も多くいるのです。
「先の戦で伊勢殿や三淵殿の行動を儂は間違っていないと思うておる。六角勢を足止めできたのも彼らの働きがあればこそじゃ。畠山勢との戦いでも仮に六角勢が背後から攻め掛かっていたならば、敗れていたのは我等であったと思うのじゃ。」
そう仰せになると、松山様は私に手紙をお渡しになりました。手紙は三淵様や細川様から伊勢貞良様に宛てられたものでした。
「貞孝殿が翻意されるとは思えぬ。しかし貞良殿ならば聞き入れてくれるやもしれぬ。貞孝殿も自分の意地の為に伊勢家の血脈を絶やすことはするまい。それに儂も明智や遠藤兄弟の的になるのは嫌じゃからな。」
私はすぐに持ち場に戻ると、夜警の準備を指示して段蔵さんに声を掛けたのです。
「段蔵さん、段蔵さん、お願いがあります。」
「どうした小一郎殿。抜け駆けでもするのか。それとも誰ぞの寝首を獲って来いというのか。」
「違います。違います。船岡山城に忍び込んで明智様に言付けをお頼みしたいのです。」
「なんじゃ、そんなことか。容易いぞ。」
段蔵さんに松山様の意向を伝えて、籠城している者達への説得をお願いしたのです。
「松山様も存外と甘い所があるのじゃな。まあ、嫌いではないがな。引き受けようじゃないか。」
段蔵さんは買い物の使いに出掛けるような気安さで引き受けて下さいました。夜になり、城から秘かに落ちる者達が出てきました。明智様や遠藤兄弟を護衛として、伊勢貞良様や美濃御前様とお子様方が無事に落ちてきたのです。そして段蔵さんが先導して、宇治の相模屋を目指して夜陰に消えていったのです。
「小一郎、無事に役目を果たしてくれたようじゃな。」朝になり、松山様から声を掛けられました。
「松山様のご配慮のお陰です。ありがとうございます。」
「まあ気にするな。貸しということにしておこう。儂も三好家に仕えて長くなったが、少し疲れてしもうたのじゃ。甥に任せて隠居しようかと思っておる。」
松山様は最近の三好家の在り様に気疲れを感じるようになったそうです。三好義興様と松永久秀様が公方様の相伴衆に任じられてから、幕府や朝廷といった所での政争があるのだそうです。
「三好の殿の御為に上を目指していた時が一番楽しかったわ。皆で車座になって酒を飲み、譜代も外様も殿のご兄弟衆でさえも一緒になって騒いだものじゃ。殿は儂に『武勇談を皆に披露してくれ』と仰せになった。儂も同じ話を何度もしたものじゃ。」
「そうでしたか。私も江戸に居た頃は兄上から良く聞かされました。小田原の北条家でも身分の別なく、若い衆が車座でお酒を飲んだのだそうです。」
「そうか、小田原も良い所なのであろうな。しかし何といっても殿が一番じゃ。儂は殿に巡り会えたことが何よりであったのじゃ。」
「我が兄も松山様と同じことを申しておりましたよ。北条家の若殿と巡り会えて幸せじゃと申しておりました。」
「面白そうな主なのじゃな。機会があったら一度会ってみたいものじゃ。さて、そろそろ城攻めの刻限のようじゃ。其方は持ち場に戻れ。」
早朝から城攻めが再開されました。伊勢貞孝様は再三の呼び掛けにも関わらず最後まで抵抗を続け、城に火を掛けて自害されたのです。こうして伊勢宗家は幕府での力を失ったのです。




