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平宰相〜北条嫡男物語〜  作者: 小山田小太郎
武蔵守の巻(1558年~)
68/117

乱取り

<R15>指定の内容を含みます。

 1562年夏 越後湯沢 鮎川文吾


 北条家は越後魚沼平に上杉討伐の橋頭保を築くべく、三国峠を越えて攻め入った。北条上野介綱成を大将とする先発部隊一万一千は瞬く間に湯沢平を制圧し、魚野川沿いに魚沼平へと進軍を果たしたのだ。北条綱成は越後府中へ通ずる大沢峠に近く、魚沼平を望む樺沢城を攻め落とすと、そのまま樺沢城に布陣した。


 対する長尾政景は上田衆三千を率いて坂戸城に籠城し、越後府中の上杉輝虎に援軍を要請した。しかし、上杉輝虎はすぐに援軍を出せる状態ではなかったのだ。武田信玄が善光寺平を越えて蓮城を囲み、桃井(もものい)義孝が守る飯山城に迫る勢いを見せたのだ。輝虎は山本寺定長を飯山城の救援に送り、武田軍とは膠着状態にはなったものの、本拠地を空ける余裕は無かった。


 更に上杉輝虎は魚沼平には古志長尾景信を主力とした中越勢を派遣しようとしていた。しかし、下田長尾藤景が輝虎の外征政策に異を唱え出陣を拒否。それに同調する動きもあり、古志長尾景信は十分な軍勢を集めることができなくなってしまった。坂戸城の救援が難しいと判断した長尾景信は、北条勢の中越侵攻を防ぐことを優先し、下倉山城に布陣することとなった。


 北条陸奥守氏康の本隊一万五千が樺沢城に着陣すると坂戸城を取り囲み、長尾政景を孤立させたのである。氏康は配下に魚沼平での乱取りを奨励し、昨年の上野国での鬱憤を晴らすかのように魚沼平を荒らし回ったのである。


 また氏康は後詰の北条武蔵守氏親に対して荒戸城の拡張を指示した。越後湯沢支配の拠点としても越後侵攻の橋頭保としての役割もある城である。


挿絵(By みてみん)


「藤吉郎、儂等は一体何なのであろうな。毎日毎日荷役の勤めばかりじゃ。」


「大軍勢を賄う兵糧じゃ。いくら運んでも終わりが見えぬが、戦働きをしている者達を飢えさせる訳にはいかぬからのう。」



 後詰部隊の重要な役割の一つは補給経路の確保がある。北条武蔵守氏親は越後湯沢を拠点として上野国沼津から前線への補給を担っているのだ。宿場町の伝馬制を見本として、桶回し(バケツリレー)の要領で兵糧を運んでいた。藤吉郎達の受け持ちは浅貝寄居城から越後湯沢までの区間であり、浅貝寄居城で兵糧を受け取り越後湯沢に届けるという行程を、かれこれもう十回以上繰り返しているのだ。



「いやいや、兵糧を運ぶのは役目として否やはないのじゃが、この行列は異様じゃ。最近忘れておったが、北条家のやることはやはり鬼の所業ではないかと思うのじゃ。」



 儂の指差す方向を見て藤吉郎も溜息をついている。通常であれば帰りの越後湯沢から浅貝寄居城までは空荷となるのだが、目の前には青苧を担いで歩く農民達の姿があった。



「そうじゃな、往路も復路も荷役と護衛が必要じゃからな。もっと扶持を頂かねば割に合わぬかもしれぬな。」


「いやいやいや、扶持の話ではない。乱取りで奪った物を態々関東に持って行くのが解らないのじゃ。奪った青苧も奴隷と同じように市で売り捌けば良いではないか。」



 乱取りが終わると陣中に同行した商人達によって市が立つのが一般的である。しかし、奴隷や戦利品は商人が仲介するが、買い手のほとんどがその家族や身内の者達なのだ。乱取りした側も態々奴隷達や戦利品を持って行く労苦を考えると、安くても売り払うのが常であった。



「なんじゃ、乱取りの話か。籠城中の一時的とはいえ、領主の庇護から外れた領民なのだから仕方あるまい。恭順を示さねば根切りにされても仕方ないのじゃからな。むしろ北条家の乱捕りは鬼畜とは程遠いと思うぞ。乱取りは奨励しても乱暴狼藉は御法度じゃ。恭順を示した村に乱取り働きをして処罰された者もいると聞くぞ。」


「いやいやいや、儂が言いたいのは、戦利品を足軽共から北条家が買い取っているのが鬼畜じゃと申しておるのじゃ。年貢としての取り立てた青苧も全て関東に持ち帰ると言って、村々に賦役も課しておる。それがこの行列じゃ。村の乙名共から借金してでも村で買い取るので市を開いて欲しいとの嘆願を、御本城様はお断りしたそうではないか。」


「ああ、その事か。青苧は上杉の資金源じゃからな。下手をすると米より高く売れる物もあると聞く。徹底的にやらねばならぬそうじゃ。しかし、その話には続きがあるのを文吾殿は御存知か。」


「いや知らぬ。知りたくもないわ。」


「まあ、そう言わずに聞いてくれ。青苧の買い取りを願い出た乙名共に対して、御本城様は生活ができぬのであれば逃散して関東に参れ、と仰せになったそうじゃ。この先何年かこの魚沼平は戦場となるであろう。魚沼の領民が自ら望んで関東に来るのであれば、奴隷としてではなく北条家の領民として受け入れるつもりだ、と仰せであった。」


「なんと、儂には慈悲には聞こえぬぞ。見ただけでも魚沼平は豊かな土地だと解る。それを捨てて生活を変えるのは難しいことじゃ。それを無理矢理に行うなど鬼の所業じゃ。魚沼平から領民を根切りにするのも同然ではないか。」


「そうであろうか。御本城様は北条家の領民となるなら誰でも庇護の元に置くということじゃ。事実、儂等も以前より豊かになっているではないか。」


「うーむ、根切りにするよりはましなのかもしれぬが、それでも儂は納得いかぬぞ。」




 1562年夏 宇治 風間小一郎


 青苧座の復興のため東奔西走している最中、大事件が勃発しました。相模屋が御用を務めている伊勢家が政所執事から更迭されて、失脚に追い込まれてしまったのです。後ろ盾を失った相模屋は他の商家から恰好の標的となるのは目に見えていました。伊勢家の口利きで得られた利権も少なくないのです。



「まさか伊勢様が罷免されるとは思ってもみなかったよ。」



 女将さんが扇子で仰ぎながら眉間に皺を寄せて呟きました。部屋には三人の番頭さんと、風間衆の陣内さんも顔を揃えております。蜂兵衛さんは落ち着きなく目をキョロキョロさせておりましたが、他の方々は背筋を伸ばし、女将さんの言葉を聞いております。



「そうじゃな。皆の者にも仔細を教えておかねばなるまい。陣内、伊勢様の経緯を皆に話してやってくれ。」



 旦那様の言葉を受けて、陣内さんがあらましを話して下さいました。切っ掛けは細川晴元の息、細川晴之が三好家の監視下から逃れて六角義賢を頼ったことであったそうです。


 六角義賢は細川晴之を盛り立てて、三好家との対立を表明しました。六角義賢は河内守護・畠山高政と手を結び京都に攻め入り、三好勢力を京都から追い出してしまったのです。


 ここで問題となったのは公方様の身の処し方でした。足利義輝様はこれまでは対立していた三好家と同心し、石清水八幡宮に逃れて六角家と敵対する姿勢を見せたのです。六角義賢はこれに驚き入京したにも関わらず、三好勢と睨み合うばかりで戦端を開くことを躊躇っていました。


 京都に残っていた伊勢貞孝様、三淵藤英様達は三好方と六角方の調停に奔走しておりました。しかし、畠山高政率いる軍勢と三好勢が教興寺畷で激突する事態となったのです。畠山勢には雑賀根来衆の鉄砲足軽が参戦しており、数に勝るとはいえ三好勢も油断できない相手と思われました。けれども勝敗は呆気なく決したのです。


 国人衆の寄合所帯である畠山勢に対して、三好勢は総大将・三好長慶様の号令の下、整然と動ける先進的な部隊だったのです。畠山勢は瞬く間に討伐され、六角勢も京から兵を引いたことで、公方様は京都に復帰を果たしたのです。


 これで元に戻ったと思われたのですが、この一連の戦乱の中で三好実休様が討死されました。そのため、京都に留まっていた伊勢様達は日和見と取られてしまったのです。公方様と三好家の不興を買ったことで政所執事を罷免されるに至ったのです。



「お前様には隠居してもらうよ。」


「致し方あるまいな。儂は伊勢家との関係が深すぎる。新しく当主を立てて体制を立て直す方が良かろう。お絹に隠居を言い渡されるのも今度で最後にしてもらいたいものじゃな。」


「何言ってるんだい。軒猿衆との戦いがあるのに呑気に遊ばせるつもりはないよ。それで当主は助次郎、あんたに頼んだよ。今はあんたしか頼れる者が居ないんだ。天王寺屋津田様との縁を使って三好様に取り入るんだよ。いいね。」


「女将様、非才の身ではありますが、お引き受けいたします。相模屋のため、何としてでも三好様の後ろ盾を得たいと存じます。」


 そう言うと助次郎さんは皆を振り返って「皆にも協力を頼みます。」と頭を下げました。私にもニッコリ笑って声を掛けて下さいました。


「三好様の繋ぎの者として、小一郎さんにも手助けをお頼みします。小一郎さんは松山様のお気に入りであると聞いていますから、頼りにしてますよ。」


「そうだね。本音を言えばもっと経験を積ませたかったのだけど仕方ないね。少し早いけど小一郎を番頭に上げるよ。助次郎を手助けしな。対外的な交渉が増えるから気を張って務めるんだよ。」



 こうして宇野助次郎さんは相模屋の当主となり、名を【風間道及】と改めたのです。私も末席ながら番頭となりました。内向きの仕事だけでなく、外向きの仕事も任される相模屋の顔役の一人となったのです。

~乱取りについての考察~


【乱取り】【落ち武者狩り】【根切り】【寺社の焼き討ち】など非人道的な行為が当たり前の時代ですが無差別に行われていた訳ではありません。略奪対象は【領主の庇護を受けていない者】になります。領主側にしても庇護下にある者は全力で守ることになります。


ただ略奪対象に対しては(命を含む)全ての財産を奪うことが当たり前であったようです。戦時中の乱取りも帰属の有無で略奪対象となるか否かの線引きが行われます。領民側にも乱取りを免れる術がないわけではないのです。


①自ら武装して戦う。【惣】という自治組織で土一揆をおこすケースがこれに該当。

②寺社領に逃げ込む。寺社は領主の手の及ばない場所ですが寺社と領主の関係が悪いと…

③侵略側にあらかじめ貢物を献上し乱取り禁止を依頼する。【制札】という制度です。


領主に対して交渉する(詫びを入れる)際は仲介役として【取次役】【申次】と呼ばれる外交官が活躍します。領主に対して一定の発言力を認められている者となるのでその権力も申次衆に集中していきます。


~人物紹介~

長尾景信(?-?)上杉景信とも。古志長尾家当主。直太刀之三人衆。序列1位

桃井義孝(?-1578)飯山城主。直太刀之三人衆。序列2位

山本寺定長(1519-?)不動山城主。直太刀之三人衆。序列3位

長尾藤景(?-1568)下田長尾家当主。高城城主。


上杉謙信の家臣団を考察する際に参考となるものに『諸国衆御太刀之次第写』(1559年)と『上杉家軍役帳』(1575年)があります。1559年時点では国人衆が上位を占めていますが1575年になると謙信の元側近衆(河田・甘粕・山吉ら)が大俸を得て多くの軍役を担うようになります。国人衆の集合体から謙信の直轄部隊へと変遷している様子なのかもしれません。


他にも年始挨拶の順番や茶会の席次、手紙の敬称等で家中の序列が見えてきます。伝承と見比べてみるのも面白いかもしれません。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 地図がわかりやすくなっていた [一言] 本文と合わせて状況の把握がとてもスムーズになりました
[一言] いよいよ始まりましたね、上杉輝虎(謙信)との本格的な戦いが。 越後関連の話は今後の肝になる部分でもあるので、作者様としてはあまり触れて欲しくは無いでしょうが、やっぱり本庄繁長には裏切り工作を…
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