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平宰相〜北条嫡男物語〜  作者: 小山田小太郎
武蔵守の巻(1558年~)
64/117

川中島の戦い

 1561年秋 海津城 武田義信


 越後上杉勢が関東に攻め入ったとの報せから父上は素早く動いた。海津城の城番であった香坂宗重が上杉氏に通じたとして誅されたのだ。腹心の春日虎綱に高坂昌信と名乗らせて海津城主とし、海津城の拡張を命じた。北信濃善光寺平への圧力を強化したのである。


 越後上杉勢一万五千が川中島の善光寺に到着したのは夏の盛りの頃であった。高坂昌信からの報せを受けて、父上はすぐさま陣触れを発した。儂も嫡男として備の一つを任されて出陣することとなったのだ。集まった武田軍は総勢二万にも及び、善光寺平南端の塩崎城に入城したのである。


 これに対して越後上杉勢は善光寺に四千の兵を残し、一万一千の軍勢で海津城を包囲する構えを見せた。父上は素早く塩崎城から軍勢を繰り出し海津城を支援する。上杉勢は武田の援軍と城方との挟撃を避けて海津城の包囲は諦めたものの、妻女山に陣を構えて海津城と塩崎城の連絡を分断したのだ。


 双方の挑発が続いたが、大きな動きの無いまま一月が経ち、武田勢は塩崎城から茶臼山に陣を移し、更に海津城に入城した。決戦の時が近付いてきたのだ。



「いよいよ越後勢との決戦と見たが、どのような戦いになるのであろうか。」



 軍議の前に腹心の者達を集めて意見を聞くことにしたのだ。工藤昌秀と飯富昌景、それに父上の直臣ではあるが、真田幸綱が顔を揃えている。幸綱の娘が儂の側室となったことで幸綱と話す機会が増えたのだ。譜代の多い儂の家臣の中にあって、外様から重臣となった幸綱の意見は譜代とは別の新たな視点で考えることができ、得難い人材となっていた。



「お館様はいよいよ越後勢との決戦をお考えのようです。山本殿と馬場殿が越後勢撃破の献策をしたようです。睨み合いに痺れを切らせた甲斐の譜代国人衆が、決戦を望んでいるとも聞いております。」


「昌秀殿が申す通り、信濃の国人衆も決戦を望んでいるようです。ただこちらは越後勢の乱取りの被害に辟易してる様子です。態々戦わずとも越後勢は長くは遠征できないというのに、お館様も難しい決断を迫られているのでしょう。」



 昌秀と昌景の言葉に、幸綱が驚いたような表情となった。



「工藤様も飯富様も決戦に反対なのでございますか。てっきり決戦に前向きなのかと思っておりましたので意外でした。」


「幸綱、戦で手柄を立てたい気持ちは皆一緒じゃ。けれども戦う必要の無い戦なら避けた方が良いではないか。決戦を望んでいるのはむしろ越後勢の方であろう。雪が降り出したら帰らねばならないのは越後勢の方じゃ。しかし長期の対陣となると、味方の士気の維持が課題になる。難しい問題じゃ。」


「御慧眼、畏れ入ります。目先の戦場だけでなく、広い眼で考えておいでなのですね。」


「いや、儂一人ではそこまで考えは及ばぬ。昌秀や昌景、それに長徳から様々な視点で意見を聞けているからじゃ。其方も遠慮なく意見してくれ。では軍議に参ろうか。」



 軍議が始まり、山本勘助と馬場信房が作戦の概要を説明している。啄木鳥(きつつき)戦法と名付けられた作戦で、武田軍を二手に分けて一方が越後勢の妻女山を後背から奇襲し、もう一方が八幡原にて待ち伏せし、挟み撃ちにするという作戦であった。


 奇襲部隊は高坂昌信と馬場信房が率いる一万二千、伏兵を父上が率いる八千という編成となるようだ。我等は父上の本隊の左翼として伏兵に配されたのである。



「勘助、信房、良き思案じゃ。苦労をかけた。此度の戦で越後勢を信濃から駆逐する。皆の者、良いか。」


「「「応。」」」


「御旗、盾無もご照覧あれ。」父上が誓いの祝詞を唱えようとしたその時。


「お待ち下され。異議がございます。」



 末席から声が掛かった。待ったの声を掛けたのは武田家の者ではなく、北条家から援軍として駆けつけてくれた真田俊綱であった。余所者に神聖なる儀式を中断されて、武田家の重臣達が気色ばむ。無礼を働いた余所者に対して重臣達が罵りの言葉を口にし、真田幸綱が慌てて口を挟む。



「俊綱、控えよ。ここは其方が発言して良い場所ではないぞ。」


「兄上のお言葉といえども控える訳にはまいりません。某も主命でござる。」


 その真田俊綱の言葉に父上が興味を示したようだ。


「皆の者、鎮まれ。幸綱も落ち着くのじゃ。真田俊綱と申したな。武田家の軍議に異議を唱えるのが主命とはどういう了見じゃ。事と次第によっては北条家との問題にもなるのだぞ。俊綱、答えよ。」


「はい。我が主より武田家の与力を仰せつかった際に、必ず意見せよと言われたことが一つだけございます。」


「なんじゃ。申してみよ。」


「武田信玄公がたとえ一時であれ、越後勢より少数となる作戦であれば異議を申せと厳命されました。越後勢は一万一千、信玄公の備が八千とあっては異議を唱えざるを得ません。」


 父上は真田俊綱を見据えてから静かに肯きました。


「北条殿の気遣い、忝い。勘助。奇襲部隊から二千を伏勢に回しても問題無いか。」


「はい、些か工夫は必要となりましょうが、問題無いと存じます。」


「俊綱。これで良いか。」


「ははっ。出過ぎた真似をして申し訳ございません。忝く存じます。」


「勘助。配置は後のこととして祝詞を続けるぞ。御旗盾無もご照覧あれ。」


「「「ご照覧あれ。」」」



 啄木鳥戦法が開始された。馬場信房率いる一万が夜陰に乗じて妻女山の裏側へ迂回し、我等本隊一万も八幡原に布陣する。奇襲部隊から伏陣に配置替えとなったのは真田幸綱等小県(ちいさがた)の者達であった。


 八幡原を包み込む深い霧が日の出と共に徐々に晴れてきた。目に飛び込んで来たのは居るはずのない越後勢の姿であった。整然とした蜂矢の陣形で【毘】の旗が揺らめく。輝虎の本陣はやや前掛かりとなり、今にも攻めて来そうな状態であった。


 越後勢が法螺貝を鳴らし、戦端が開かれた。柿﨑景家の軍勢が鶴翼中央の父上の本陣に攻め掛かっていた。柿﨑隊の突撃を受け止めたところで、武田軍の懸り太鼓の合図が聞こえたのだ。右翼の武田信繁叔父上がすぐに動くのが見えた。


「右翼の叔父上に遅れるな。左翼の我等も挟み込むぞ。越後勢を殲滅するのじゃ。貝吹け。」


 越後勢の後備が二手に分かれて鶴の翼を押し広げるようにして襲い掛かってきた。前線の飯富昌景が越後勢を押し返している姿が見える。


「昌秀、彼我の状況を確認し、父上に百足衆(でんれい)を走らせよ。」


「はい、越後勢はおよそ一万、不意を打たれましたが、戦力はほぼ互角と思われます。」


 越後勢は猛烈な勢いで中央本陣の突破を図っているようであった。中央は乱戦となり、崩れそうになっている。後陣の真田隊が中央と我等左翼の間に滑り込み、越後勢先鋒に横槍を入れた。真田隊の横槍によって中央本陣が立て直すことができたようだ。しかし真田隊と越後勢の乱戦は続いており、その乱戦が戦場全体に波及していったのである。


 永遠とも思われる殺し合いは、馬場信房率いる別働隊が到着する昼前まで続いたのであった。越後勢は別働隊が到着すると退き鐘を鳴らし、善光寺を目指して退却していったのである。


 越後勢三千余を討ち取って大勝利となったが、武田軍もほぼ同数の戦死者を出したのだ。山本勘助を始め、室角虎光、初鹿野忠次、小幡虎盛、屋代政国等多くが討死していた。我等左翼でも被害は甚大であった。側近の長坂昌国が討死し、傅役の飯富虎昌が重傷を負っていた。全軍が海津城に引き上げ、戦勝の宴が開かれることとなった。


「昌秀、勝ったとはいえ多くの者が討死したのじゃ。祝いの宴とは父上は何をお考えなのであろうか。」


「義信様、被害が大きいからこそ宴を開くのですよ。ここで勝ったことを宣言しなければ、国人衆も不安になりましょう。」


「成る程、それも道理じゃな。」


 戦勝の宴の中で此度の戦の論功も発表された。勲功一位となったは武田家の者ではなく、北条家の真田俊綱であった。父上から俊綱を称える言葉があった。


「真田俊綱よ。此度の働き、誠に見事である。越後勢先陣の動きを止め、更に先陣大将の柿﨑景家を討ち取ったそうじゃな。」


「ありがたきお言葉でございます。しかしながら某一人の手柄ではありませぬ。関東で越後勢と戦った経験を基に、皆で対策を練っていたのです。目潰しや足絡めといった卑怯な手段を用い、相手を封じ込めて倒しました。某は友の仇が取れたことで満足しております。」


「自分を卑下するでない。勝ち残ったことを誇ってよいのじゃ。真田は関東一の(つわもの)じゃ。」

~史実との相違点~

越後勢の総数が減っています。多々良沼の戦いの影響という設定です。

武田信繁の生存。長坂昌国の死亡。


~人物紹介~

武田信玄(1521-1573)新米の坊主。

武田信繁(1525-1561)著名な優秀弟枠の人

山本勘助(?-1561)著名な軍師枠の人

小幡虎盛(1505-1561)足軽大将。地味枠の武田四天王?(横田高松・小幡虎盛・多田満頼・原虎胤)

長坂昌国(?-?)義信側近?奥近習六人衆とも。真田幸綱娘婿。本作では竹姫侍女お春の夫で史実嫁は義信の側室となっています。

室角虎光(1480?-1561)諸角・両角。虎定とも。事跡混同してますが年齢的に虎定と虎光は別人で、親子世代ではないかと思います。流石に81才の討死は厳しいか?

初鹿野忠次(?-1561)使番。初鹿野家は武門の家です。上野原の戦いで戦死した初鹿野氏有り。

屋代政国(?-1561)信濃先方衆。武田家に転じた村上氏の一門衆。

柿﨑景家(?-1574)披露太刀之衆第十一位。上杉軍の先手大将。


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