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平宰相〜北条嫡男物語〜  作者: 小山田小太郎
武蔵守の巻(1558年~)
63/117

耶蘇会の宣教師

 1561年夏 宇治 風間小一郎


 伊勢貞孝様が相模屋の孤児院の視察に来られるとの報せがあり、女将さんや陣内さんが大慌てしております。なんでも異国の宣教師を伴って来られるとのことで、粗相があっては拙いと子供達の監視役として相模屋の手代衆が駆り出されることになりました。


 伊勢貞孝様は幕府の政所執事であり、北条家からも本家筋にあたる偉い御方です。御子息の伊勢貞良様とは明智様や斎藤様を通じて、何度かお声を掛けて頂いたこともあります。しかし伊勢貞孝様の場合は旦那様を呼び出すことはあっても、態々視察に来られるというのは珍しいことなのです。


 異国の宣教師はガスパル・ヴィレラという方でした。通事として琵琶法師のロレンソ了斎という方もご一緒です。耶蘇教は豊後では大友様の庇護の元に多くの信者がいるそうです。


 宣教師は伊勢様や大友様の御尽力で公方様に謁見し、京での布教の許可を得たのだそうです。南蛮寺を四条坊門姥柳町に構えて孤児院を併設したのですが、孤児院が宇治にあるという話を聞いて興味を持ったそうなのです。



「相模屋の女将の振る舞いは聖母マリア様のようですと、神父(パードレ)は申しております。」



 通事の了斎様が宣教師の言葉を伝えて下さいました。孤児院の清潔な環境や学問の様子、幼いながらも一所懸命に仕事をする姿を見て、宣教師は感銘を受けたようです。



「まあ、女神様に例えられるとはお恥ずかしいですわ。お口がお上手ですこと。」


「いえ、女神様ではなくて聖母様ですよ。」



 和やかに会話が進み、宣教師様は孤児院で正しい教えを伝えたいと申し出て下さったのです。しかし、女将さんは幼い子供が粗相をしては申し訳ないとしてお断りになりました。「興味がある子供達を南蛮寺に連れて行きます。」とお伝えして、視察は御開きとなったのです。伊勢様と宣教師の御一行がお帰りになった後、女将さんに呼ばれました。



「小一郎、風間衆がどこの檀家か知っているね。」


「はい、景教です。私も小田原に行って初めて知ったお寺なので、珍しいお寺なんだと思っておりました。」


「景教と耶蘇教の根は同じものなんだよ。耶蘇教から異端とされて別れたのが景教なのさ。」


「それは真でございますか。」



 女将さんのお話では一千年もの昔に神の言葉を預かった者の母親は神なのか、それとも人間なのかと言う意見の違いから、景教徒は耶蘇教から異端扱いされて分かれたのだそうです。



「武蔵守様が言ってた通りだったよ。耶蘇教の教え自体は素晴らしいものだ。けれども、宣教師達は他の教えを否定する厳しいところがある。誰が何を信じようと勝手なのにね。」


「武蔵守様は耶蘇教のこともご存知なのですか。」



 景教は耶蘇教から分かれて中国に伝わり、仏教の教えと融合して伝わったのだそうです。耶蘇教も景教も長い歴史の間に様々な影響を受けて変わっていて、幾つもの宗派に分かれて争っているのだと話して下さいました。



「武蔵守様は耶蘇教が持つ交易の利については重要視されている。ただ寺社との摩擦は激しいものとなるから気をつけるように、と言われているのさ。」



 交易の利を得るために、上手く付き合う方法を探していかなければなりませんね。お部屋から退出しようとすると、女将さんは思い出したように声を掛けてきました。



「小一郎、新たな商売を始めるよ。伊勢に行ってもらうつもりだから準備しときな。」



 次はどんな商品を扱うのか楽しみですが、忙しくなりそうですね。




 1561年夏 会津黒川城 蘆名徳


 伊達家から蘆名家に嫁いで二十余年となりました。我が子・盛興が蘆名家の家督を継ぐことになり、一安心です。家督を譲ったとはいえ我が夫・盛氏様は隠居するには早く、後見役として蘆名家を取り仕切っております。盛氏様は側室を置かず、子供は盛興と北条家に嫁いだ葵姫の二人だけです。子供達には兄弟姉妹が少なく、寂しい思いをさせてしまったかもしれません。


 妾の実家の伊達家は奥州随一の洞を築いておりました。ところが父稙宗と兄晴宗の確執から奥州全土を巻き込む(うつろ)の争いとなったのです。蘆名家も勿論巻き込まれましたが、盛氏様はこの争いで蘆名家の立場を不動のものとしたのです。当初は父の稙宗方が洞の盟主ということで優勢でしたが、蘆名家が兄の晴宗方を支持したことで逆転し、公方様の仲介を経て晴宗方優位で講和となったのです。



 そんな折、関東の北条家から婚姻の打診がありました。身内同士の争いで難しい立場に立たされることを思えば、遠方に嫁ぐのも姫のためには良いかもしれないと思ったのです。葵姫からの手紙には北条家で大事にされている様子が書かれていました。暖かくて過ごし易く、毎日楽しく暮らしているようです。


 葵姫と入れ替わりに北条家から人質として虎寿丸が来ました。妾はこの虎寿丸が大のお気に入りとなっているのです。虎寿丸が会津で一番最初にしたのは木桶の湯船を作ることでした。小田原では湯船に水を張り、焼き石を入れて湯に浸かる習慣があるのだそうです。シャボンで身体を洗い流して湯に浸かるのは至福の時間となっています。生活の中に快適な小田原式を取り込んでくれたのです。



「お方様、会津でも小田原式の農法や商業を広めたいので、お口添え願えませんか。」



 可愛い虎寿丸の頼みでしたので、息子の盛興を巻き込んで旦那様にお願いしたのです。盛興の内政改革として領内の産業振興をお認め頂きました。盛興の小姓となった虎寿丸は、郎党達と共に様々な献策を盛興にしているそうです。小田原式農法の要である肥料の作成から始まり、商人達との交渉まで行っているようでした。



「母上、虎寿丸を私に付けていただきありがたく存じます。虎寿丸の献策のお蔭で、私も領主として認められてきました。虎寿丸の郎党には北条家の精鋭が付けられていたようです。奴等の考えることはとても面白うございます。」



 虎寿丸には四人の郎党がおります。【松田康郷】という二十歳の青年は武勇に優れ、赤鬼と呼ばれているそうです。【白井胤治】はその智謀を買われて、虎寿丸に学問を教えているそうです。【二曲輪猪助】は北条氏親殿に取り立てられて士分となった者で、虎寿丸の護衛と生活の世話をしているそうです。最後の一人【大熊親秀】は元越後の国人衆で、親秀の兄は越後上杉家で段銭方を務めた大熊朝秀殿なのだそうです。越後を追われた大熊一族は西上野に逃れていましたが、北条家に招聘されたそうです。大熊朝秀殿は北条氏康公の側近となっているそうです。



「盛興殿、虎寿丸達はどのような献策をされたのですか。」


「まずは小田原式農法の要の肥料作りからです。稲作が難しい土地には青苧(あおそ)を植えています。青苧にも肥料を使い、品質の良い物を作ろうと工夫しております。奥会津の山内俊清が興味を示し、協力を約束してくれました。」


「山内家が協力してくれるとは良きことですね。しかし青苧は越後が盛んで、上杉家が座を独占しておると聞いています。良い物が出来ても安く買い叩かれるのではありませんか。」


「そこは大熊親秀が考えた秘策がございます。会津の上布は越後ではなく、江戸を中心とした関東に卸すつもりなのです。商人の簗田藤左衛門も賛同してくれました。下野から暖かい木綿を仕入れるのだと張り切っておりましたよ。」


「北条家との縁が役に立つということですね。ただ荷物をどのようにして運ぶのですか。川を下って運んでは伊達や上杉に儲けを取られてしまうではありませんか。」


「その点も心配ございません。奥会津から下野国の日光まで街道を整備しているのですよ。街道の安全を確保するために、二曲輪猪助を頭にして馬借や健脚な者達を取り纏めさせているところです。雇いの足軽も増やすつもりです。黒色の脛布を標章にして黒脛布(くろはばき)組と名付けました。」


挿絵(By みてみん)


 盛興が領主としての経験を積んでいる中、盛氏様は長沼氏へと軍勢を起こしたのです。長沼城は会津盆地と阿武隈川流域を結ぶ境目の城で、勢力拡大を目指す蘆名家にとっては会津盆地からの出口であり、阿武隈川流域への入口でもあるのです。盛氏様が長沼城へ出陣した後に事件は起こりました。盛氏様の庶兄である蘆名氏方殿が謀反したのです。


 謀反を看破したのは虎寿丸達でした。氏方殿は盛氏様が留守にしていた黒川城を訪れて、入城させて欲しいと言ってきたのです。時は夕刻、長沼城への後詰として出陣したが、日が暮れてきたので宿を借りたいとの申し出でありました。盛興が許可を出そうとしたときに、側にいた虎寿丸が「なりませぬ。大殿様の御指示が無い限り、どのような方であれ城に入れるべきではありません。」と強く反対したのです。


 謀反を看破された蘆名氏方は日を置かずして討伐されました。虎寿丸にも褒美を取らせるとの話になったのですが、虎寿丸は褒美を貰える程のことではないと辞退したのです。ただ、郎党達に嫁を紹介して欲しいとの願いは叶えてあげることにしました。誰を娶せるか、とても楽しい願い事ではありませんか。



 大熊親秀の嫁はすぐに見つかりました。兄の大熊朝秀のことを蘆名家の者も良く知っていたからです。蘆名一門で津川城主・金上盛備(もりはる)の妹が嫁ぐことになりました。白井胤治には蘆名家重臣の佐瀬常教の娘が嫁ぐことになりました。佐瀬家は蘆名家の重臣の中でも商業政策の奉行を務める家柄で、盛興の産業振興にも共に働いた家なのです。中々決まらなかったのが松田康郷です。候補がいなかった訳ではなく、むしろその武勇を聞いて武門の家がこぞって手を上げたのでした。



「虎寿丸、康郷殿は引く手あまたで困っておりまする。一門の栗村、譜代の穴沢、松本、富田と皆が誼を結びたいと申していますが、誰が良いと思うか存念を聞かせて欲しいのです。」


「ありがたき幸せに存じます。康郷は果報者にございます。ただ何方を選んでも角が立つのも困りものですね。ならば家中ではなく、余所の姫をお考えいただけませぬか。実は兄の武蔵守から面白き噂を聞いておるのです。」


「余所の姫とな。妾が知る伝手は蘆名家と伊達家です。しかし伊達家家中の姫となると、伊達家からも苦情が出ないとも限りませぬ。そのような縁組は良縁とは言えませんよ。それとも何方か意中の姫がいるのですか。」


「意中の姫は伊達家家臣で武勇の誉れ高い、鬼庭良直様の御息女です。」



 虎寿丸の言葉を聞いて成る程と感心させられてしまいました。鬼庭良直は男子が生まれなかった正室を離縁して、男子を産んだ側室を正室にした気性の激しい武将です。離縁させられた奥方は娘の【喜多】を連れて、他の家に嫁いだと聞いておりました。その喜多殿は年頃になっても縁談が無かったのです。伊達家の者は鬼庭良直に遠慮して喜多殿との縁談を避けたのです。



「御息女は成島八幡神社に身を寄せていると聞いております。噂では父の良直に似て文武に優れ、見目麗しい姫だそうです。八幡様は北条家の護り神ですから、これこそ八幡様の御引き合わせではないかと思うのです。」



 早速、兄晴宗に手紙を出して許しを貰いました。しかし喜多本人から感謝とお断りの手紙が届いたのです。なんでも両親が流行病で亡くなり、幼い弟を養育しているのだそうです。松田康郷にその旨を伝えると、弟共々面倒を見るので是非嫁に来て欲しいと言ってくれました。喜多の境遇に同情していただけに康郷の言葉には妾も感動しました。兄上に主命として嫁ぐように要請して、無事に喜多殿を貰い受けることができたのです。

~人物紹介~

虎寿丸(1548-1598)北条氏邦

松田康郷(?-?)松田康定の次男。赤鬼殿

白井胤治(?-?)今孔明の一人

大熊親秀(?-?)大熊政秀の三男。兄に朝秀・盛秀。大熊重連が氏親から偏諱を賜り親秀と名を改めたという設定

蘆名徳(?-?)蘆名盛氏正室。伊達晴宗の妹。


◆蘆名家

蘆名盛氏(1521-1580)室は稙宗の娘。蘆名家の英主

蘆名盛興(1547-1574)盛氏嫡男。

金上盛備(1527-1589)蘆名一門。津川城主。蘆名の執政と呼ばれた。

猪苗代盛国(1536-?)蘆名一門。猪苗代城主

針生盛信(1553-1625)蘆名一門。針生館主

栗村盛種(?-?)蘆名一門。嫡子がおらず養子を取る。

穴沢信徳(?-?)蘆名譜代。檜原館主。伊達氏との国境を守る。

簗田藤左衛門(?-?)蘆名家の御用商人


◆蘆名四天王

平田範政(?-?)蘆名四天王。

佐瀬常教(?-?)蘆名四天王。行政手腕に優れる

松本氏輔(1535-1574)蘆名四天王。図書介を名乗る。

富田滋実(1520-?)蘆名四天王。松本家と並ぶ武門の家


◆会津四家(蘆名、長沼、河原田、山内)

長沼実国(1498-1565)蘆名氏に降伏するも二階堂氏にも従う。

河原田盛頼(?-1591)奥会津の国人領主

山内俊清(?-?)奥会津の国人領主。山内一門を束ねる(横川、瀧谷、檜原、野尻、川口、沼沢、西方など多くの分家があります。)


◆伊達家

伊達稙宗(1488-1565)政宗の曽祖父

伊達晴宗(1519-1578)政宗の祖父

鬼庭良直(1513-1585)左月斎。72歳の若さで討死した。

片倉喜多(1538-1610)左月斎の娘。史実では政宗の乳母。

片倉景綱(1557-1615)小十郎。姉の喜多に養育される。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 72歳は、戦国時代なら大往生だと思う。
[一言] キリシタン絡みでは、医療技術に長けたアルメイダ辺りを引き抜けたら面白いかもしれないけど、無理でしょうね。
[気になる点] 北条氏邦ですけど、従来四男説の1541年生まれでなく、近年示された五男説の1548年生まれなのでは? でないと元服してないとおかしい年齢に [一言] 蘆名家に氏邦と松田康郷と片倉景綱が…
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