苦肉の計
1561年春 館林城 北条氏親
館林城に撤収して被害の状況を確認したが、厳しいものであった、死亡者は二割近くにも及び、負傷者も合わせると死傷者は三割強にもなっていた。ほぼ全滅といってもいい有り様だ。死傷者が増えた要因としては、物頭級の者が乱戦の中でも隊を纏めて必死に抵抗したことで、激しい消耗戦となったようだ。
この戦いで狩野泰光と福島綱房という股肱の臣二人が討死した。幼き頃から共に過ごし、支えてくれた者達が失われたのだ。島津忠貞も辛うじて生還していたが、満身創痍となって運び込まれていた。
「俊綱、忠貞の様子はどうじゃ。」
「まだ意識が戻っておらぬそうです。医師の話しでは生きているのが不思議なくらいの有り様です。お見舞いされますか。」
「報告を聞いたらすぐに向かう。藤吉郎、越後衆の動きはどうなっておるのじゃ。」
「新田金山城で何事かが起こっておるようです。何故か越後衆は新田金山城を囲んで攻め掛かっております。詳しい情報が届き次第、報告いたします。」
状況が解らないまま二日が過ぎた。その間に忠貞は意識を取り戻し、一命は取りとめたようで安堵した。父上の使いとして垪和氏続が館林城にやってきたのは多々良沼の戦いの三日後であった。
「御本城様より東上野の守りと此度の戦に対して労いのお言葉がありました。また武蔵守様に此度の謀をお伝えしていなかったことに対して、御本城様からお詫びのお言葉を預かっております。多くの将兵を失わせることになり、誠にすまなかったと仰せでした。」
「氏続、詫びと言われても状況が解らぬのじゃ。儂の失態で多くの将兵を失い、父上に顔向けできぬと思っておった。何故か越後勢が新田金山城を攻めておるし、父上はどうなされておるのじゃ。」
「御本城様は綱成様や大道寺様を従えて新田金山城の救援に赴いておられます。由良成繁様のお手柄で越後方の大義名分を覆せるとお喜びでありました。」
父上は越後勢の中に近衛前嗣様や加茂公方・足利義秋達が同行していることを知り、その所在を確かめようとしていたようだ。そこで一計を案じて由良成繁が偽りの寝返りをする事で、越後勢の懐に入り込んだのだ。この謀を知っていたのは当事者の由良成繁と綱成叔父上、父上の三人だけだった。
上杉輝虎や近衛前嗣様は成繁の寝返りに対して「由良成繁は足利の忠臣である。」と大層喜んでいたそうだ。わざわざ新田金山城まで出向いて、成繁に対して謝意を伝えたとの事であった。しかし、越後勢の主力が新田金山城に移動したのは想定外のことだった。由良成繁の身動きが取れなくなってしまったのだ。
多々良沼の戦いが起こった事で由良成繁は漸く自由に動けるようになり、越後勢が戦いに出払った隙に新田金山城に残っていた近衛前嗣様を拘束したとの事であった。父上が越後勢を打ち破ったとの報せが入ったのはその翌日であった。
「父上、此度の勝利、おめでとうございます。」
「うむ、其方には辛い思いをさせてしまったな。綱成も綱房の討死を聞いて憤慨しておった。越後勢は連戦で疲弊していたようじゃ。儂等が新田金山城に向かうと、囲みを解いて退いていったのじゃ。追撃したが、僅かに殿軍を打ち破ったのみで逃げられてしもうた。」
「そうでしたか。越後勢を退けることができて何よりです。多々良沼の戦が無駄にならなかったことがせめてもの救いです。今後は如何なりますでしょうか。」
「近衛前嗣様に御納得していただき、上杉輝虎に兵を収めるよう文を書いていただいた。それに武田殿が信濃に兵を出しておる。越後勢が帰国するのも時間の問題じゃ。」
「父上、近衛様とは如何なるお話をされたのでしょうか。」
「儂は此度の戦が如何に無益なものであるか、懇々と申し上げたのじゃ。近衛様は畿内の窮状を訴えておられたが、北条家の立場をお伝えしたのじゃ。幕府の忠臣たる伊勢家を蔑ろにしているのは公方様ではありませんかとな。」
そもそも北条家の初代早雲公の関東下向は、日野富子や管領・細川政元が指示したものであり、将軍家の威光を関東に知らしめる為に行ったものであった。当時の関東は関東公方家と将軍家の意を受けた関東管領家が争う混沌とした状態であったのだ。北条家は早雲公の伊豆討入から六十余年を掛けて関東の平定を行っているのだ。
「近衛様は最初は納得できないご様子であったが、応仁の混乱や大内義興の上洛をお話して、今の将軍家のような借り物の力で均衡を図るようなやり方では、誰も従う者はおらぬと申し上げたのじゃ。」
「今の有り様を否定する事ですから、公家の近衛様がご理解されるとは思えませぬが。」
「近衛様は如何にするべきかとお尋ねになった。足利将軍家が自前の力を持たねば、結局は守護大名の言いなりになるしかない。権威があっても力が無ければ、畿内の静謐は訪れることはないとお伝えしたのじゃ。それには近衛様も思うところはあったようで、何とかご納得いただいたのじゃ。」
父上は近衛様に小田原の様子や武蔵の開拓の様子を見て貰うそうだ。地に足を付けて国を富ますことの重要性をお伝えするようだ。越後勢が兵を収めて三国峠を越えていったのは、梅雨が明けてすぐの頃であった。父上はすぐさま綱成叔父上の黄備を白井城に派遣し、三国峠以南の地を回復したのである。
1561年夏 駿府 お虎
駿府に移り住んでからもうすぐ一年になります。旦那様は誅される寸前まで井伊を名乗ると言っていたそうです。しかし、父上と大爺様に諭されて井伊家の将来の為に北条に名を戻したそうです。妾達が捕らわれて駿府に連れてこられた時、旦那様は涙を堪えながら父上と大爺様の最期を母上にお伝えしていました。母上は髪を降ろし、菩提を弔うと言われて井伊谷の龍潭寺に移りました。
旦那様はおひよのことを受け入れて下さり、おひよは無事に男子を産みました。旦那様は虎松と名付けて松千代の弟とお認め下さったのです。旦那様は御伽衆としてお館様である氏真様に近侍しております。井伊家を断絶させたのは氏真様ですが、旦那様の命を助けてくれたのも氏真様でした。
氏真様は旦那様に「今は辛抱せよ。そのうち井伊家を再興することもあろう。」と言われたそうです。井伊家の者としては俄かには信じ難い話でしたが、今川家の中でも重臣同士での意見の違いがあり、井伊家の処分に対しても様々な意見があるそうです。
「元康殿が三河に行かれると聞いているが、三河の様子はどうなのじゃ。」
旦那様が問い掛けた相手は三河の松平元康様です。元康様は三河へ行かれるとのことで、わざわざ挨拶に来られていたのです。奥方の瀬名姫様もご一緒です。瀬名姫は直平大爺様の孫にあたり、駿府に来てから何かと心を砕いて下さった優しい姫なのです。また瀬名姫様の御父上の関口氏広様は、井伊家の断絶を避けるようにとお館様にお口添えして下さった方なのです。
「三河では吉良家が今川家からの自立を目論む動きがあるようです。松平一門も割れております。桜井松平家が吉良家に近付き、松平一門の総領の座を狙っております。此度はお館様より松平一門を纏めよとの命を受けて、三河に向かうことになりました。」
「儂が言える立場ではないが、義元公がお亡くなりになってから三河方面が騒がしくなっておるようじゃな。」
「義元公のことは直元様のせいではありません。気に病むことはございませんぞ。三河が騒がしくなっているのは事実ですが、それよりも家中の不和の方が問題だと思います。」
元康様のお話では、義元公が健在の頃は家督を継いだばかりのお館様が当主の経験を積むために駿河と遠江の内政を担当し、義元公が三河の統治を受け持つという分担ができていたそうです。
義元公が三河統治の為に抜擢した者達は家臣達の中でも嫡流ではない者達でしたが、義元公の覚えも目出度く三河の地で次々と所領を与えられたのだそうです。ところが三河統治に乱れが出たことで、重臣達が三河への加勢を渋るようになっていたのです。
「三河に行ったら岡部元信様の下知に従うようにとお館様から仰せつけられております。元信様は織田家との最前線、尾張の鳴海城ですので気苦労も絶えない様です。同僚の三浦義就殿が三河への加勢をお館様に申し入れたそうですが、それを聞いた三浦家当主の氏員様が、義就様を分を弁えぬ者と非難されています。」
「氏員様と義就殿の確執は問題じゃな。岡部家も元信殿と正綱殿の意見が纏まっておらぬ。氏員様が正綱殿を抱き込み、三河への勢力拡大には消極的なようじゃ。正綱殿は元信殿が妬ましいのやもしれぬ。義就殿も元信殿も三河侵攻の旗頭じゃが、義元公が亡くなり、三河侵攻の梯子を外されたような状態なのじゃ。」
義元公に抜擢されて三河侵攻の旗頭を務めたのは、岡部氏庶子の岡部元信様、三浦氏分流の三浦義就様、葛山氏分流の葛山長嘉様、元吉良家家臣から今川家に転じた飯尾家の飯尾連龍様、そして馬廻衆から義元公の妹婿として取り立てられていた浅井政敏様の五将でした。しかし彼等は今川家家中で、確固とした立場を確立していなかったのです。
「お館様は三河の混乱を憂いておりますが、重臣の方々の思惑で三河統治を思うようにできておりません。私も少しでもお館様のお力になりたいと存じます。」
「元康殿、お気をつけて下され。瀬名殿や御子のことはお任せ下され。大した事はできませんが、妻と共に話し相手くらいなら務めましょう。」
「忝く存じます。妻子のことを宜しくお頼み申し上げます。」
元康様は妻子を残して三河に赴くそうです。瀬名姫や御子達は重臣方の信用を得られるまでは、人質として駿府に留まることになるそうです。瀬名姫様達のことを思うと、旦那様と一緒にいられる妾の方が幸せなのかもしれませんね。
~人物紹介~
松平元康(1542-1616)狸。
瀬名姫(?-1579)松平元康室、今川義元養女、関口氏広(親永)娘、後の築山殿
岡部元信(?-1581)鳴海城主。史実では桶狭間の戦いののち主君義元の首級を取り返す。
飯尾連龍(1531-1565)遠州曳馬城主。祖父の賢龍は元吉良家臣。斯波家臣の大河内貞綱を討ち曳馬城を得る。後に今川家に転じる。
浅井政敏(?-1560)今川義元妹婿で義元側近。史実では桶狭間時点で沓掛城代。出自不明。
三浦義就(?-1560)左馬介。義元側近。三浦氏の傍流か?
葛山長嘉(?-1560)義元側近。伊勢氏一門か?
三浦氏員(?-?)今川家宿老。三浦範高の子。駿河三浦氏総領
岡部正綱(1541-1583)岡部氏総領。岡部久綱の子。
~松平氏考察~
松平清康(1511-1535)元康の祖父。清康の代に松平家が西三河を制圧したと言われていますが、個人的には吉良持広の家臣ではないかと思います。織田信秀が分家でありながら斯波家や織田本家を抑えて拡大したのと同様なのかなと思います。
松平信光(1404-1488)元康の六代前。三河の土豪。応仁の乱では伊勢貞親に仕え東軍。三河復権を目指す西軍一色氏・牧野氏と争う。子供48人いたと言われています。三河国中に分家できた原因の人
三河は細川、斯波、一色、吉良、今川等が争う戦乱の地でした。頭角を現したのは松平清康ですが領主は誰だったのかと言われると疑問符が付くのかもしれません。




