多々良沼の戦い
1561年正月 館林城 北条氏親
「父上はなぜ動かないのじゃ。」
思わず忠貞に向かって声を張り上げてしまった。父上は本庄城に入ってから動きを見せていない。綱成叔父上の部隊や長野業正の西上野衆を上野国中部に派遣し、越後勢の乱取りを阻止しながら小競り合いを続けている。白井城には越後勢の後詰である揚北衆も到着し、一万五千を超える兵力となっているようなのだ。
「落ち着いて下され、武蔵守様らしくありませんぞ。昔話になりますが、河越の戦の時、多くの者が北条家の敗北を危惧しておりました。そのような中でも武蔵守様は北条家の勝利を疑わず、泰然自若とされておられたではありませんか。此度の武蔵守様の慌てようは意外に存じます。」
「忠貞、すまぬ。此度の相手が上杉輝虎と聞いて心を乱されておるのじゃ。儂の知る上杉輝虎は北条家の脅威となる存在であったのじゃ。」
「八幡様の夢のことでございますね。今の越後勢は夢の記憶と変わらぬ勢力を持っておりますか。」
「いや、そんなことはないな。関東で越後勢に与力する者はほとんどおるまい。居たとしても十分に対応できるだけの力が北条家にはある。」
「落ち着かれたようで安堵いたしました。武蔵守様が上杉輝虎を高く評価しているのは存じております。戦に強く同数の兵で対峙するのは危険であるとお伺いしました。ならば越後勢より多くの兵を揃えればよいのです。」
そう言われると父上の命令も落ち着いて考えられる。本庄城に腰を据えて利根川を外堀とし、越後勢の侵入を許さず、我等江戸衆を館林城に入れて東上野の守りを固めている。越後勢にしてみれば進むに進めない状況であるのだ。
「御本城様は北条家による関東統治に自信も持っておいでです。越後勢との戦のことだけでなく、越後勢の大義名分をどうやって覆すかをお考えになっているのではないかと存じます。」
二月に入ると越後勢の檄に応えて、反北条の立場を鮮明にする勢力が現れ出した。
下野国では壬生徳雪斎が壬生城の奪還を目指して蜂起したのを皮切りに、宇都宮広綱が反北条を表明して益子高定を壬生勢の増援として差し向けてきた。壬生徳雪斎は内応者を使い、壬生城を奪還したものの、結城・小山勢に城を囲まれていた。増援の宇都宮勢と富永直勝率いる古河衆青備と睨み合う事態となっている。
上総国では真里谷武田信高が反旗を翻した。信高は万喜城主土岐頼春を訪ね、隙を見て頼春を拘束して万喜城に里見旧臣を引き入れたのだ。真里谷勢は勢いのまま庁南城をも攻め落とした。武田信高の呼びかけに外房正木衆である正木時通、正木時忠、正木弘季と土気酒井胤治が同調し、一大勢力となったのである。
父上は久留里城の氏尭叔父上の救援依頼を受けて、幻庵大叔父の玉縄衆を渡海させて佐貫城に入れ、椎津城に落ちていた庁南武田豊信の救援には千葉勢と幕張太田康資を向かわせた。
下総国では守屋相馬氏の家督争いに絡んで相馬治胤が反旗を翻した。相馬治胤は実父の高井胤永と共謀して、相馬当主相馬整胤を弑して相馬家の家督を簒奪したのだ。治胤は多賀谷旧臣を糾合し、小田家と誼を結んで反北条の立場を表明した。
美浦城の赤備が対処に当たり、すぐさま守屋城と高井城を攻略し、謀反を鎮圧して事無きを得たが、佐竹家の後援を受けた小田家の動向に対処するため、正木三浦介氏時の赤備は多賀谷城に釘付けとなってしまった。
いずれも方面軍で後れを取るような情勢ではなかったが、兵力を分散させられてしまい、越後勢を圧倒できるような兵力を上野国に集中できなくなっていた。東上野衆の旗頭である由良成繁が寝返ったとの報せが入ったのは、三月に入ってすぐであった。
「俊綱、綱房、久方ぶりじゃな。」
「「武蔵守様、御無沙汰しております。再び武蔵守様の旗下で働けることを嬉しく思います。」」
由良成繁が寝返ったことで東上野国の軍事的均衡が崩れてしまった。本庄城から真田俊綱隊と、多賀谷城に詰めていた赤備から福島綱房隊が館林城の増援として入ったのである。
「俊綱、由良成繁殿が寝返ったとは俄かには信じ難いのじゃ。一体何が起こったのじゃ。」
「成繁殿は上杉家の評定衆として本庄城に赴いておりました。上野国が荒れる様を御本城様に申し上げて、白井城奪還を求めていたのです。再三の申し出にも関わらず御本城様が動かなかったことで、成繁殿は御本城様を非難されたようなのです。その場にいた綱成様が激怒し、成繁殿に手を出してしまったのです。」
「同じ上杉家の評定衆として綱成叔父上と成繁殿は昵懇の間柄と聞いておった。俄かには信じ難い話であったが、真であったのか。」
由良成繁殿と綱成叔父上を重臣達がなんとか引き離しましたが、二人の怒りは収まらず、由良成繁は兵を纏めて引き上げてしまったそうだ。そして越後勢に寝返り、自らの新田金山城に越後勢を引き入れてしまったのである。館林城に増員を受けてから数日後、小泉城の富岡秀信から救援の報せが飛び込んで来た。
1561年三月 多々良沼 北条氏親
最初は小泉城周辺で乱取りしていた越後勢を追い払うだけの筈だった。ところが気が付けば越後勢が小泉城を取り囲む事態となってしまう。新田金山城と小泉城、館林城は距離的にも近く増援が駆け付けた結果、双方五千を超す軍勢が睨み合う事態となってしまった。
「武蔵守様、拙い展開です。ずるずると引き摺り出されてしまいましたな。」
「忠貞、すまぬな。儂が引き際を見誤ったようじゃ。越後勢来襲と聞いて居ても立ってもおれなかったのじゃ。」
「武蔵守様の手落ちではございません。無傷で退けるような隙は無かったと思います。越後勢も同様かと存じます。」
「越後勢も退くに退けないのは同じということか。彼我の様子は如何じゃ。」
「はい、こちらは本隊四千と左備に真田隊千五百、右備に福島隊千五百の合わせて七千、鶴翼に構えております。越後勢は五千といったところです。蜂矢の様ですが、中軍が前懸りに感じられます。中軍に【毘】の旗が確認されています。」
「輝虎がこちらに出て来ていたのか。父上からの報せでは輝虎は白井城にあって、東上野には上田長尾勢を派遣したと聞いていたが、謀られたようじゃな。しかし幸いなことに兵力差がある。後れを取る訳には行かぬな。」
越後勢が本体正面に攻め掛かってきたことで戦端が開かれた。受けたのは本隊の先陣を務める狩野隊である。最初の突撃を跳ね返したものの、越後勢の勢いは止まらず、二陣の山上隊も狩野隊の援護に入った。
「忠貞、どうじゃ。勢いが止まったぞ。」
「本隊も正面の援護を致します。武蔵守様、両翼に御指示を!」
「懸り太鼓じゃ。真田と福島に両翼を閉じよと伝えよ。」
鶴翼の陣は多勢で敵を包囲し、包み込んで殲滅する陣形である。越後勢の先鋒を受け止めて鶴の翼を閉じるように囲いこむ。これに対して蜂矢の陣は突破力に優れた陣形であるが、正面を重厚な部隊に阻止されると後方が遊兵となる。だがしかし、越後勢の後陣が二手に分かれて両翼を押し広げる様に突撃してきた。
「蜂矢から偃月に変化したようじゃな。忠貞、中央はどうじゃ。」
「はい、押し戻せている訳ではありませんが、陣形は崩れておりません。いや、陣形が崩れ始めております。押されている訳ではありませんが、乱戦となっております。」
「なんじゃと。」
遠眼鏡を当てて先陣の様子を見ると、そこは驚きの地獄絵図となっていた。
越後勢は死兵と同然の狂乱の有様であった。槍衾に自ら馬ごと突っ込み、馬を犠牲にして槍衾を超えて刀を振りま回す。すぐさま馬を奪うとまた槍衾に突撃する。乱戦に持ち込み、個の武勇で敵を殴り倒すような戦い方なのだ。その中心にいるのが軍神上杉輝虎であった。軍神の威光を受けた越後勢は、深い暗示を懸けられているかのような死を怖れぬ狂戦士となって、敵の指揮官と見るや次から次に襲い掛かっていたのだ。
「武蔵守様、乱戦が全体に広がっているようです。乱戦に構わず敵が飛び込んできて、乱れに拍車が掛かっております。越後勢は個の武勇を如何なく発揮しているようです。」
「これが車懸りの実態なのか。死中に活ありとは申すが流石に無茶苦茶じゃ」
続けざまに伝令が駆けこんで来た。
「狩野泰光様、御討死。先陣は総崩れ。」
「福島綱房様、御討死。右翼は副将の大藤景信様が指揮を引き継いでおります。」
越後勢も無傷ではなく、戦況は決して不利という訳ではないのだが、股肱二人の立て続けの凶報に思わず呻き声が漏れる。忠貞が馬廻りを残して本隊の前進を指示した。
「武蔵守様。某も前線に参ります。藤吉郎、後備と馬廻衆で武蔵守様をお守りせよ。」
忠貞が前線に赴き、先陣を立て直したことで小康状態となったが、物頭級の討死報告が立て続けに入って来る。
そして【毘】の旗が動いた。
狂騒の只中に輝虎自ら狂兵となった馬廻り衆と共に突撃を敢行してきた。受け止めた島津勢と乱戦となったのだ。本陣にも島津隊をすり抜けた越後兵が襲いかかってきて、馬廻衆が必死に打ち払う。しかし中央が崩れたことで全軍が総崩れとなりつつあった。時を置かずして忠貞の嫡男、島津親忠が伝令として戻ってきた。
「我が父、忠貞より言付けです。島津隊が捨て奸となります。越後勢の勢いを止めている間に武蔵守様はお退き下さい。」
「何を申すのじゃ。忠貞を見捨てることなど出来ぬ。」
「なりませぬ。父より必ず武蔵守様を落ちさせよとの命令です。藤吉郎、手を貸せ。御免。」
「ならぬ。ならぬぞ。」
親忠と宮田喜八に抱えられて無理矢理に馬に乗せられたその時、越後勢の太鼓の音が変わった。
ドドーン、ドドーン、ドドーン
「何じゃ。退き太鼓か。何故じゃ。何故ここまで来て越後勢が退くのじゃ。」
越後勢は狂騒から覚めたように、素早く隊列を整えて新田金山城の方へ退いていったのである。越後勢を追撃する力は北条勢には残っていなかった。




