軍神襲来
1560年秋 江戸城 北条武蔵守
【今川義元公が桶狭間にて落命していた】この報せが届いてから小田原城では対応に追われていた。桶狭間にて織田家の奇襲を阻止したと、藤吉郎から報告されていたので、まさかという思いであった。
しかし井伊家一門衆による逆心との続報は肝を冷やされる内容であった。井伊谷からの鳩の報せは途絶えており、父上はすぐさま小笠原元続と遠山康光を弔問の使者として駿河に遣わし、情報収集に当たらせたのである。
不幸中の幸いは弟の井伊直元の無事がすぐに確認されたことだ。しかしながら直元を取り巻く環境はかなり厳しいものとなっていた。直元は井伊から北条に名を改めて許されたものの、井伊直平と井伊直盛は処断され、井伊家はお取り潰しとなっていた。
直元と面会した小笠原元続の話では、直元は憔悴してはいたが、危害を加えられた様子は無く、監視下ではあるものの妻子と共に過ごしていることが判った。今川氏真殿に近侍する同朋衆のような役目を務めているようで、ひとまず胸を撫で下ろす事ができた。
父上は直元を北条家に引き取れるよう、引き続き遠山康光に交渉を命じたのである。
悪い事は続くもので、伊勢貞就の持ってきた報せは北条家の根幹を揺るがすものであった。関白・近衛前嗣が新しい関東公方【足利義秋】を伴って越後に下向したのである。鳩による第一報の後、貞就の息、伊勢貞運が詳細を伝えるためにやってきた。
「貞運、京から戻ってすぐの伝達、御苦労であるな。他の支城にも報せは行っておるのか。」
「上野国の綱成様と管領の金吾様の元には我が父・貞就が直接向かいました。他の支城にも手の者を走らせております。」
「であればよい。京で得た詳細と父上のお考えを教えて欲しい。関東公方・足利義秋とは如何なることじゃ。」
「足利義秋様は足利公方・義輝様の同母弟で一乗院門跡となっていた覚慶様という方だそうです。公方様は関東への影響力が弱くなっているのは問題だとして、覚慶様を還俗させて新しい関東公方に任命されたのです。伊勢宗家にも相談は無く、貞孝様は憤慨されておいででした。」
「なんとも面倒な事を考えるものじゃな。無用な戦を引き起こすようなものではないか。」
「おっしゃる通りと存じます。越後に下向した近衛前嗣様と足利義秋様は長尾輝虎の歓迎を受けた後、神余親綱の所領であった三条加茂の地に御所を構えたと聞き及びました。」
「それはいつ頃の話じゃ。」
「初夏の頃には下向されたようです。公方様は近衛様からの手紙を御相伴衆に披露してご満悦だったようです。輝虎が関東勢を引き連れて上洛するのが待ち遠しいと仰せになったとか。手紙の内容も伝わっております。」
手紙には【加茂公方】となった足利義秋には河田重親が公方奏者として仕えているそうだ。義秋が最初に行ったのは関東管領の任命であった。越後に逃れていた龍若丸を元服させて【上杉秋憲】と名乗らせ、関東管領に任命したのである。上杉秋憲には上野国から共に逃げてきた長尾景秀と難波田三楽斎が仕えているようだ。
「なんと、おそらく近衛様の差し金であろうな。足利将軍家の権威とは一体何なのであろうな。まるで子供に玩具を与えるような勢いではないか。」
「武蔵守様の憤慨、私も同じ気持ちでございます。御本城様も大層なお怒りでありました。問題は越後の実権を握る長尾輝虎の待遇です。」
「輝虎とな。先程も気になったが、長尾の総領は景虎という名ではなかったか。」
「先の上洛の際、公方様より偏諱を賜り、輝虎と改めていたようにございます。その長尾輝虎なのですが、断絶していた越後守護上杉家の相続を認められたようです。上杉輝虎と名を改めて越後守護職を継承しました。更に関東管領代に任命されて、関東の秩序回復を命じられたと伝え聞きました。」
「秩序回復とは皮肉な言いようじゃな。公方様の言われる秩序とは足利の為の秩序であろう。そこに住まう者達の事など、少しも考えておらぬようじゃ。父上は対応を如何お考えなのじゃ。」
「御本城様は伊勢宗家を通じて抗議の使者をお出しになるようです。早ければ来春にも越後勢が三国峠を越えてくるのではないか、とお考えのようでした。」
「まずい。悠長なことを言っている場合ではないぞ。儂は刈入れが終わってすぐにも越後勢は攻めて来ると思う。」
「流石にそれは性急すぎませんか。越後国内の国人衆も状況の変化に対応しきれぬと存じます。」
「長尾景虎、いや上杉輝虎という男は政は優柔不断であると聞くが、戦となれば疾風の如く動くと聞いておる。彼の者が長尾家を継いだ際も瞬く間に反乱分子を成敗しているし、大熊朝秀が謀反した際も驚く程の早さで相手を圧倒しているのじゃ。此度も国人衆が考える暇も与えずに陣触れを出すのではないかと思う。」
すぐさま父上に鳩を飛ばし、対応をお願いすると共に、配下の江戸衆に越後勢来襲に備えるように指示を出したのだ。はたして稲刈りの終わった頃を見計らうように、越後勢が三国峠を越えてきたのである。
1560年冬 館林城 鮎川文吾
越後勢八千が三国峠を越えて上野国に襲来してから早三月が経とうとしている。沼田城主・沼田顕泰と元岩櫃城主・斎藤憲宗は早々に越後勢の軍門に降り、北部の利根郡と吾妻郡の一部は上杉勢の領する所となっていた。江戸衆は上野国の救援を命じられて館林城に駐留していたのである。
「藤吉郎、越後勢は白井城を拠点に越冬の構えと聞いたが、真か。」
「相変わらず文吾殿は耳が早いのう。その通りじゃ、白井城は越後勢の手に落ちておる。長野業正様率いる西上野衆と綱成様率いる黄備が白井城の救援に向かったそうじゃが、長野様は龍若丸のこともあって気が急いていたようじゃ。綱成様の到着を待たずに白井城を囲む越後勢に攻めかかったそうじゃ。」
「成る程、足並みが揃わなかったところを各個撃破されたという訳じゃな。」
「うむ。綱成様の黄備は西上野衆の窮地を救ったものの、白井城を救援するには兵が足りなくなっていたようじゃ。白井長尾憲景殿はやむなく自落したそうじゃ。」
白井城は越後勢の駐留拠点となり、越後勢は白井城から連日のように出撃して、上野国中部で乱取りを行っているのである。
「藤吉郎、越後衆のやりようは酷いものだそうじゃ。田畑を荒らすだけではなく、用水路を壊し、防風林を焼き払っておるようじゃ。越後勢の通った跡は見るも無残な荒地と同然となっているそうじゃ。」
「普段温厚な安藤様もお怒りであったぞ。越後衆は農地を整えるために、民百姓がどれほど大変な思いをしているか解っておらぬとな。」
「安藤様のお怒りも尤もじゃが、越後衆は領民から取り立てる事が政だと思っているのであろうな。領民の生活する大元を整えて初めて政とする北条家とは考え方が根本的に違うのであろう。まあそう言う儂も藤吉郎に諭されるまで解らなかったがな。ところで武蔵守様は如何なさるおつもりなのじゃ。」
「武蔵守様は越後勢の来襲に備えるよう東上野衆と連携を図っておられる。ただ此度の襲来が引き金となり、北条家に不満を持つ勢力が蜂起するのではないかと懸念されておるようじゃ。」
白井城からは関東各地に書状が送られているようだ。内容は北条家が関東の政を思いの儘に専横し、足利将軍家に対して叛意があると糾弾していた。関東公方・足利義秋、関東管領・上杉秋憲、関東管領代・上杉輝虎の連名で北条討伐の大義名分を与えるものであった。
これに対して北条方は関東公方・足利義氏、関東管領・上杉輝憲の連名で関東の秩序は保たれており、越後勢こそ関東の秩序を破壊するものだとして越後勢の大義名分を否定した書状を送っている。
また同盟国の武田家と蘆名家に越後本国への牽制を打診していた。そして北条陸奥守氏康は小田原を発して本庄城に駒を進め、越後勢と対決する姿勢を示したのだ。
~人物紹介~
足利義秋(1537-1597)本作では関東公方として史実より一足先に還俗しました。
上杉秋憲(1540?-1552)関東管領上杉憲政の嫡子。龍若丸
近衛前嗣(1536-1612)関白、藤氏長者。足利義輝の義兄弟。上杉輝虎の扇動者。
上杉輝虎(1530-1578)軍神。いつまでも長尾のままだと作者の尻の座りが悪いので、越後上杉家の家督を相続した。




