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平宰相〜北条嫡男物語〜  作者: 小山田小太郎
武蔵守の巻(1558年~)
59/117

正室と側室

 1560年夏 江戸城 北条松


 春先に生まれた東堂丸も元気に育っています。西堂丸を支える立派な武士になって欲しいと願っています。幸の方が嫁いでくる時は旦那様の思い人との噂が流れていましたので、心中穏やかでいられなかったものです。ところが実際に嫁いできた幸の方は何というか、まあ色々と残念な姫でした。


 嫁いできて早々にやらかしたのです。朝餉の準備をしなければならない早朝に、旦那様の小姓達と剣の稽古をしていたようです。小姓達を散々に打ち負かした後、養福院にこちらが可哀想になるくらい怒られておりました。


 幸の方が養福院に叱られる様子を見たのはあれが最初でありました。それからも小姓の様な恰好をして怒られていたり、泣きそうな顔をしながら糸仕事を仕込まれていたりと、色々やらかしては養福院の叱責が飛んでおりました。


「お方様はいわば奥向きの師範とも呼べるお方です。私は一門人に過ぎません。師範の仰せに異を唱えるなど思いも寄りません。」


 少しずれたところはありますが、幸の方は妾に対しても全く対抗心を持っておらず、控え目で真摯に仕える姿勢も、妾の心を穏やかにさせてくれました。養福院も奥向きの主として妾を立てており、妾の老女三浦局も当初は構えておりましたが、仲良くやっているようです。おっとりした三浦局と、ハキハキした養福院の組合せは奥を仕切る上で非常にやり易く、妾も頼りにするようになっています。


 色々残念な幸の方ですが、可愛いところもあります。旦那様に煌びやかな衣装を強請(ねだ)ったりもせず、妾の小袖を下げ渡したところ「こんな美しい着物は恐れ多く存じます。粗相してしまわないか心配です。」と、怖い物を扱うように受け取っておりました。


 そんな幸の方が懐妊したと養福院から報告がありました。養福院に剣の修行を禁止されて、この世の終わりのような顔をしているそうです。側室なのだからそういうこともあるとは覚悟していたつもりですが、武家の妻とは辛いものです。




 1560年夏 躑躅ヶ﨑館 武田竹


 武田家に嫁いできてから八年、念願の懐妊となりました。一昨年も懐妊の兆しが見られたのですが、残念ながら流れてしまい、旦那様には辛い思いをさせてしまいました。今度の御子は必ず元気に育って欲しいと願っております。


 最初の子が流れてから義母上様から側室を薦めるようにと言われています。旦那様は「まだ二人とも若いのだから気にせずともよい。」と言って下さいましたが、子を成せるか臆病になっておりました。


 侍女のお春に相談して、お春を旦那様の側室に上げようとしたこともありました。しかし旦那様にきつく叱られてしまいました。「儂は其方に子を産んで貰いたいのじゃ。」叱られながらも嬉しくて、旦那様の御子を必ず産むのだと心に誓ったのです。その後、お春は旦那様の側近である長坂昌国様に嫁ぎ、既に子を儲けております。


 懐妊を伝えてからは、義母上様から側室を薦めるようにと矢の催促が来ています。義母上様は妾が薦めないのであればお館様に頼みますと仰せになりました。お春を呼んで相談することにしたのです。


「お方様、武家の習いとはいえ、御裏方様も酷い仰せにございます。口惜しゅう存じます。」


「北条家も今川家も世継ぎが生まれているのに、武田家だけが生まれていないのです。義母上様も焦っておいでなのです。」


「お二方とも声が外まで聞こえておりますよ。」


 今川長徳殿が部屋に入っても宜しいですかと声を掛けてきました。


「どうぞ、お入り下さい。愚痴を聞かせてしまい申し訳ありません。」


「いえ、竹姫様の口惜しい気持ちを考えるとやるせないですね。義信様は竹姫様を本当に大事にされておられます。自信をお持ち下さい。」


「長徳殿、やはり側室をお薦めしなければならないのでしょうか。」


「義信様はお断りすると思いますが、お館様がお決めになると、断るのは難しいと存じます。御裏方様のように御公家からということもあろうかと存じます。そうなると正室がお二人ということにもなりかねません。」


「長徳様、お方様はただでさえ辛いお気持ちなのです。懐妊の大事な時にお気持ちを逆撫でするような事は言わないで下さいませ。」


「お春、良いのです。長徳殿の言われることも御尤もです。やはり側室をお薦めいたしましょう。」


「竹姫様、お春殿、酷い事を申してしまい申し訳ございません。義信様の奥向きは竹姫様のお蔭でとても穏やかなのです。義信様も竹姫様の前ではとても寛いでおいでです。側室が入ることで今の奥向きの雰囲気が壊れてしまうのではないかと、私も心配しているのです。」


「長徳殿、嬉しい言葉ですが、誰をお薦めしたら良いのか解らないのです。」


「竹姫様は武田家の中で心を許せる方は居られませぬか。竹姫様の御味方をして下さる方をお薦めするべきです。真田様などは如何でしょう。」


「真田様は譜代の方ではありませんから難しいのではありませんか。」


「真田様はお館様の覚えも目出度いと聞いております。そして何より竹姫様に敬意を払っておいでです。」


 長徳殿は表向きの事も教えて下さいました。旦那様の側近は譜代の者が固めており、外様衆が入り辛い雰囲気があるそうです。真田様と縁組をする事でその雰囲気を解消できるかもしれません。


「分かりました。旦那様にお話しせねばなりませんね。」


「辛そうなお声ですね。義信様には私からお伝えしましょうか。」


「長徳殿、頼まれてくれますか。私は旦那様を前にして側室をお薦めできる自信がありません。」


「承りました。真田様にも竹姫様の御覚悟をお伝えしましょう。真田様はきっと配慮して下さると存じます。」




 1560年夏 井伊谷 お虎


 父上と旦那様が此度の戦での活躍を賞されて駿府に呼ばれました。旦那様は織田勢の奇襲を看破し、お館様の危機をお救いしたのだそうです。旦那様は「兄上のお陰じゃ。」と言われましたが、紛れもなく旦那様のお手柄なのです。旦那様の兄上好きにも困ったものです。


 旦那様達が駿府に向かってから数日後、奥山朝利の娘で行儀見習いに来ていた【おひよ】が、妾と母上にお話がありますと申し出てきました。当初、朝利は旦那様にひよを側室として受け入れて欲しいと申し入れていましたが、旦那様に断られていました。ならば行儀見習いでよいから側に置いて欲しい、と言って送り込まれてきていたのです。


 ひよは旦那様に気に入られるように、朝利から言い含められていたようです。けれども旦那様に相手にされず、かと言って実家にも戻れず、途方に暮れていたようです。そんなところに優しく声を掛けたのが直親だったそうです。おひよは直親と親しくなり、夫婦になりたいと思うようになりました。しかし実家からは認められぬと言われて、直親と既成事実を作ってしまうという暴挙に出てしまいました。そして直親との子供を身籠ったようなのです。



「お方様、お虎様、お恥ずかしい話ですが、私にはこうするより他になかったのです。父上に認められるようにお力添えいただけないでしょうか。」



 まあ、他にやりようはあったとは思うけれども、旦那様に色目を使われるよりはいいかなと考えていると、表の方で騒ぎ声が聞こえてきました。



「お方様、失礼します。」


 返事も聞かずに襖を開けたのは小野政次でした。政次が郎党を引き連れて入ってきたのです。


「政次、無礼ではないか。何用じゃ。」


 妾を一瞥すると、政次は母上に向かって話しかけました。


「お方様、無礼の段、平にご容赦願います。謀反人、井伊直親を捕らえねばなりません。駿府に行かれた直盛様、直平様、直元様も取り調べを受けております。」


「政次殿、一体何が起こったのです。」


 母上の問いに政次は表情を消して答えました。


「直親にはお館様を暗殺した疑いがあります。」


 政次の言っている事が分からず、理解するまで暫しの沈黙が流れました。


「政次、何を言っているのじゃ。お館様が亡くなっておるじゃと。」


「お虎、そのように取り乱していては話になりません。政次殿、お館様はいつお亡くなりになったのでしょうか。直親がお館様に手をかけたというのは真なのですか。」


「はい、お館様は桶狭間での戦で矢を受けてお亡くなりになりました。流れ矢と思われておりましたが、直親の手の者による暗殺だと見た者がおります。」



 直親の犯行を見たのは、松井宗信の家臣で桶狭間初戦の奇襲撃退を伝えた伝令の松井宗直でした。宗直は伝令を終えた帰りの道すがら、おりからの大雨で雨宿りをしていたところ井伊家の二騎の伝令が駆けて来たのを見たのだそうです。その内の一騎は途中で道を逸れると山中に入っていきました。


 不審に思った宗直は山中に入った者を追跡したようです。雨足が更に強くなり、視界が悪くなった頃、本陣の方角から戦の喧騒が聞こえてきたのだそうです。暫くして雨足が弱まり、視界が広がりました。眼下では今川勢が織田勢の奇襲を退けたところだったそうです。本陣に目をやると直親がお館様を指し示していました。山中にいた武者はそれを見て【ひょう】と矢を放ったのだそうです。矢は吸い込まれるようにお館様に向かって飛んで行ったのです。


 宗直は山中の武者を捕らえようと追いかけましたが、再び雨足が強くなり、見失ったそうです。宗直は大高城に入り、主君の松井宗信殿に報告したのです。宗信殿は宗直が見た武者が井伊直親と今村正実であることを突き止め、井伊が二騎の伝令を出したこと、本陣には一騎の伝令しか来ていない事を複数の証言から確認し、今川氏真様に報告したようです。



「政次殿、井伊は如何なりましょうか。」


「主殺しは大罪です。井伊の男子は全て捕らえよとのお達しです。直親は断罪されるでしょう。申し上げ難いことですが、御当主・直盛様の連座は避けられぬと存じます。」


「政次殿、あらかたの事情は分かりました。松千代は如何なりますか。」


 母上の言葉にはっと我に返る。妾の可愛い松千代もまぎれもなく井伊の男子なのだ。


「政次、妾の松千代は渡さぬぞ。」


「お方様、直元様次第かと存じます。直元様は井伊の婿ではありますが、北条家の嫡流です。今川家としても配慮せねばならないと存じます。しかし、おひよ殿は御覚悟されよ。直親の子を孕んでおることは調べがついておる。」


 おひよは顔面蒼白となり、歯の根が合わない程に震えていました。



「政次、おひよは旦那様の側室じゃ。奥山朝利もそのつもりで城に上げたのじゃ。腹の子は旦那様の種じゃ。」


「お虎様、突然何を申すのじゃ。何を言っているか解っているのであろうな。」


「くどいぞ、小野但馬。何度も言わすな。おひよは旦那様の側室じゃ。」


 政次は妾を見据えて、暫しの睨み合いとなりました。先に視線を外したのは政次でした。


「あい解った。おひよ殿、お虎様の申すことに偽りは無いのじゃな。」


 おひよは震えながら何度も頷いていました。そこに政次の弟、小野玄蕃が入って来ました。


「兄上、直親に逃げられたようじゃ。もぬけの殻じゃ。」


「玄蕃、まだ遠くに行ってはおるまい。すぐに追っ手を差し向けよ。必ず捕らえるのじゃ。」


 小野玄蕃が去り、室内は再び重苦しい雰囲気となりました。


「政次、井伊を追い詰めることができて、さぞ嬉しいであろうな。これで井伊谷は小野家のものじゃ。」


「お虎、なんてことを言うのです。政次殿のお顔をちゃんと見てみなさい。」



 母上に言われて政次の顔を見る。能面のような表情だが、目が真っ赤になり、涙が零れそうになっていた。


「お方様、申し訳ありませぬ。小野家は井伊家に向けられた今川家の刃なのです。直元様が来られてから私は心底安堵していたのです。直元様が居られる間は井伊家に刃を向けることはあるまいと思っておりました。初めて心の底からお仕えできる主君を得たと思っていたのです。」


 政次の頬を一筋の涙が伝いました。


「直親は直元様が妬ましかったやもしれませぬ。直親を許すことはできませんが、歪んでしまった気持ちを理解することはできます。あれでも幼き頃は共に過ごした者同士ですから。」


 政次はそう言うと、我等を丁重に捕らえるように郎党達に指示を出しました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 直親さん何やってんすか……やっぱ史実(の俗説)と同じく家康に内通してたんですかね ひよちゃんのお腹の子は将来どこの家で赤備えをするのか楽しみです(笑)
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