桶狭間の戦い
~おことわり~
飢饉に関する内容を改稿いたしました。54話広がる波紋から一部改稿しております。よろしくお願いいたします。
1560年春 沓掛城 鮎川文吾
藤吉郎は「儂が旗頭を任されたぞ。」と大喜びしていた。しかしながら武蔵守様から命じられたのは、今川家の援軍として尾張まで行って参れ、というものであった。
「藤吉郎、それは貧乏籤なのではないか。手柄を立てても武蔵守様のお目に止まることはないと思うぞ。」
「文吾殿、そんなことは気にせずとも良い。今川家は五万もの大軍で尾張に攻め込むそうじゃ。勝ったも同然の戦じゃ。」
「荷駄隊を除けば実質二万程の軍勢であろう。勝ったも同然の戦ならば尚更じゃ。五百程の軍勢では手柄を立てる事さえ出来ずに、ただ付いて行くだけではないか。」
「そうかも知れぬが、儂が北条家の旗頭を務めたという実績が大事なのじゃ。武蔵守様は御舎弟の井伊直元様も出陣されるであろうから、直元様をお守りせよと仰せであった。」
何事も前向きに捉えられるのが藤吉郎の良いところなのだが、振り回される者達の身にもなって欲しいものじゃ。
大軍の移動は思いのほか大変なものであった。先陣が出発してから一刻あまりも待たされて、ようやく出発できるのだ。隊列は前も後ろも終いが見えない程長くなっている。駿河、遠江、三河と進むに連れて軍勢は増えてゆき、待ち時間は更に長くなる筈だ。
遠江で井伊勢も合流し、藤吉郎は嬉々として直元様に挨拶に行っていた。直元様は早雲寺で共に過ごした藤吉郎が援軍に来たことを、とても喜んでいたそうじゃ。藤吉郎は「直元様をお守り致す。」と申し伝えて、北条勢は井伊勢千人と共に行軍することになったのだ。それまでは駿河勢の最後尾を行軍していたが、遠州勢と行軍することになり、待ち時間は少しだけ解消されたのだ。
我等が沓掛城に着いた時には先鋒の三河勢は大高城の救援に向かった後であった。
「文吾殿、こうも戦らしい戦が無いと気が抜けてしまうな。」
「だから貧乏籤じゃと言ったではないか。」
藤吉郎の愚痴を聞き飽きてきた頃、ようやく沓掛城を出発できたのだが、藤吉郎の愚痴は終わりそうになかった。暫くして栗林義長が話に割り込んできた。義長は幼名千代松といって、岡見様の小姓であった者だ。牛久の戦いでの機転を藤吉郎が気に入り、岡見様を口説き落として配下に加えていたのだ。
「風間様、鮎川様。私は何か良くない状況だと感じます。今の隊列は牛久の戦の時と同じような感じではありませんか。」
「義長、何を申すのじゃ。藤吉郎の愚痴はあの時と一緒じゃが、此度は前と比べられぬ程の大軍ではないか。」
義長の言葉を聞いて、藤吉郎が何かを思い出したようで慌てだした。
「しまった。沓掛城に着いたら直元様にお伝えせよと、武蔵守様からの託けがあったのじゃ。すぐに直元様の元に参るぞ。」
突然そう言うと、藤吉郎は隊列を掻き分けて井伊様の元へ駈け出してしまった。暫くして藤吉郎が戻ってくると、安堵の表情を浮かべていた。
「藤吉郎、急に駈け出してしまうとは何事じゃ。大将がそんなでは兵達に示しがつかぬぞ。」
「文吾殿、すまぬ。武蔵守様からの託けを忘れておってのう。義長の言葉で思い出したのじゃ。義長、助かったぞ。」
「いえ、お役に立てて何よりです。ところで武蔵守様は、風間様にどのような託けをされたのですか。皆に話せぬような事柄なのですか。」
「ここまで来たのならば皆にも話さねばならぬことじゃ。武蔵守様は織田勢の奇襲を警戒せよとの仰せであった。特に沓掛城から大高城の間は三里程しかないが、身を隠す谷間が多く、ここを移動する際は気を付けよと仰せであった。直元様に申し上げたところ、既にご承知であった。武蔵守様は念のために井伊谷にいる時分から鳩を飛ばして、直元様にも警告しておったそうじゃ。」
「成る程、武蔵守様は織田方がこの辺りで奇襲を仕掛けるとお考えなのですね。それならば今川様にもお伝えした方が良いのではありませんか。」
「昨夜の内に直元様が今川様に奇襲を警戒するべしとお伝えしたそうじゃ。沓掛城に留まり、督戦されるよう進言されたそうじゃが、今川様は油断はせぬから心配無用と申されたようじゃ。」
そんな話をしていると前方で鬨の声が聞こえてきた。どうやら武蔵守様の予想が当たったようだ。暫くすると鬨の声が聞こえなくなり、松井様の旗印を背負った伝令と思われる騎馬武者が今川様の本陣を目指して駆けていった。その直後、朝比奈様と松平様の旗印を背負った伝令も駆け抜けていったのだ。
「藤吉郎、あの伝令は何事であろうか。」
「松井様の伝令は恐らく奇襲を撃退したのであろう。朝比奈様と松平様は大高城を囲む砦を攻めていた者達じゃ。砦を攻め落とした報告であろうと思う。」
ほどなくして直元様から松井勢が織田勢の奇襲を退けたと連絡があった。直元様は桶狭間周辺に織田の別働隊が潜んでいないか警戒すると申されて、織田勢が奇襲してきた道筋を調べることにしたようだ。我等も共に警戒に当たる事になった。
奇襲を受けた場所に着くと、首の無い死骸が幾つも転がっていた。鎧兜や刀剣の類は綺麗に剥ぎ取られており、藤吉郎はとても残念そうにしていたが、気を取り直して北側の谷間を進む。この谷間から奇襲されたようで、谷間を抜けると川原に出たのだ。
折しも視界を遮られる程の大雨が降ってきた。本当に牛久の戦を思い出させるような激しい雨であった。藤吉郎も同様に感じたようで、周囲を警戒するように指示を出している。雨音に混じり、川上の南東の方角から馬の嘶きが聞こえたような気がした。はっとして藤吉郎を見ると、藤吉郎も聞こえていたようで、すぐに指示を出した。
「川上の方角で織田方が奇襲を仕掛けているようじゃ。者共、駆けよ。義長、すぐさま直元様にお知らせするのじゃ。」
馬の嘶きのする方に近付くと、織田勢が今川勢の隊列目掛けて突撃を仕掛けようとしているところであった。直元様の井伊勢も追いついて来て、共に織田勢目掛けて突き進む。直元様が大声で叫んだ。
「猿、でかしたぞ。織田勢の背後を取った。皆の者、押し出せ。」
今川勢が奇襲を警戒していたならば、巧く挟み撃ちができる状態になったのだ。こうなれば織田勢は袋の鼠も同然である。奇襲を仕掛けたつもりの織田勢が、井伊勢の突撃に慌てている様子であった。しかし、織田勢は起死回生を狙って仕掛けてきた者達である。すぐさま死にもの狂いで反撃してきたのであった。視界が悪くたちまち乱戦となったのだ。
「こら、藤吉郎。大将が飛び出すな。喜八は藤吉郎の側を離れるな。手強い武者がおるぞ。中間共は印字打ちで主を助けよ。藤吉郎、武者働きは任せて指示を出せ。誰が大将か解らぬではないか。」
雨が小降りになり、視界が広がると、織田勢が意外に大軍であることが見て取れた。織田勢の一部は今川様の本隊を切り崩していたようだが、今川勢も体制を立て直して織田方を押し返しているようだ。織田勢は尚も執拗に今川勢本陣を攻めたてていたが、井伊勢に背後を突かれて挟撃の形となると奇襲の失敗を悟ったのか、血路を開いて落ちていったのである。
「エイ!エイ!」
「「「オー!」」」
北条勢と井伊勢は直元様の号令の元、勝鬨を上げたのである。その後、織田勢に分断されて隊列も乱れたことから、先行していた遠江衆は大高城へ入城し、駿河衆は一旦沓掛城に戻り、態勢を整えることとなったようだ。
その夜、直元様から呼び出しがあった。藤吉郎と共に井伊様の部屋を訪れると、当主の直盛様を始め、直平様、直元様、直親様と一門の方々が勢揃いしていた。ただ、勝ち戦の後とは思えない重苦しい雰囲気であったのだ。
「ただならぬ雰囲気ですな。何か不穏な事がございましたか。」
藤吉郎が尋ねると、井伊直盛様が話し辛そうにしながらも答えてくれた。
「北条家の方々にお伝えするか迷ったが、ここは戦地ゆえ伝えねばならぬと思い、お呼びしたのじゃ。まだ詳しい事は分からぬが、今日の戦でお館様が怪我をされたかも知れぬ。これから話すことは他言無用に願います。直親、其の方が見た事をお伝えせよ。」
直親様は井伊勢が桶狭間の哨戒をした際に、隊列から外れる事を今川様に報告に行っており、今川様の本陣近くに控えていたそうだ。
最初の奇襲を退けた事と大高城を囲む砦を落としたことで、今川様は上機嫌であったそうだが、戦勝報告に気を良くしていたことで油断したのか、二度目の奇襲に気付くのが遅れてしまったそうだ。
井伊勢の突撃が無ければ危険な状況になっていたそうだ。なんとか態勢を整えて織田勢を跳ね返したまでは良かったのだが、織田勢が退却したその時、今川義元公が流れ矢を受けて倒れてしまったそうだ。
「私の場所からは詳しい怪我の様子は判りませんが、側近の方々が慌てておりました。すぐさまお館様を輿にお乗せし、沓掛城に戻る指示をされていました。」
「織田方には悟られておりませんか。」
「恐らく大丈夫かと。お味方でさえ気付いた者はほとんどいないのではないかと存じます。私が気付けたのはたまたまなのです。」
直親殿の言葉通り、今川様が怪我をしたという噂は流れてこなかった。しかし今川勢は織田勢が放棄した鳴海城を囲む三つの砦を破却すると、遠征を終わらせた。
「文吾殿、尾張に攻め込むと思っていたが、今川様の怪我は意外と重いのかもしれぬのう。」
我等も役目を終えて帰国することになったのだ。




