上洛と大凶作
1559年夏 宇治 相模屋 風間小一郎
「小一郎さん、小一郎さん、女将さんが呼んでるよ。」
帳面を付けていたところ、身の回りの世話をしてくれている段蔵さんが声を掛けてくれました。
「あっはい。すぐに行きます。」
段蔵さんと一緒に奥の部屋に向かいます。お部屋に入ると旦那様と女将さんの他にも、二人が待っておりました。
「女将さん、何か急ぎの御用でしたか。」
「小一郎、今日は商売の話じゃないんだよ。そろそろあんたも聞いといた方が良いと思ってね。風間衆の仕事の話さ。ここでは女将さんではなく、棟梁と呼んでくれるかい。」
「畏まりました。私に務まるか解りませんが、風間衆の仕事も頑張ります。」
「心配しなくてもいいんだよ。あんたは表向きの商売をしっかりおやり。それで十分、風間衆は仕事がしやすくなるんだ。まずはここにいる者達を紹介するよ。陣内は知っているね。」
まずは馴染みのある【陣内】さんです。文吾殿が教えてくれた通り、陣内さんは人買いの頭目だそうです。最近は洛中に行っては孤児を拾ってきて育てているそうです。色々な技術を仕込むことも陣内さんの役目なのだそうです。
もう一人の隣に座っている美しい女性は【旅芸人】の頭目【巴太夫】です。鶴岡八幡宮の下級巫女でもあり、祝詞を唱えながら踊りを披露するのだそうです。祝詞は相手によって【戦勝祈願】【五穀豊穣】【商売繁盛】【航海安全】と様々で、関東各地を回って情報を集めているのだそうです。
「太夫がこっちに来てくれたのは助かるけど、東国の方は大丈夫なのかい。」
「姐さん、心配しなくても大丈夫ですよ。旅芸人一座の取り纏めは【玉梓太夫】がいるし、お吟ちゃんが張り切って指示を出していましたからね。」
「そうかい。なら良いけどね。ところで太夫、石清水八幡宮との話は上手くいきそうかい。」
「いい感じでしたよ。権禰宜様はあたしらの踊りを見て鼻の下を伸ばしていたからね。勧進も負けて貰えるかもしれないよ。」
風間衆の旅芸人一座は、武田の歩き巫女が諜報を担っていると知った武蔵守様が、女将さんと相談して作り上げた諜報機関なのだそうです。まだ歴史が浅いのですが、関東では【八幡踊り】として人気が出ているそうで、五組ある旅芸人一座は引っ張りだこなのだそうです。巴太夫は石清水八幡宮の下級巫女として、畿内にも旅芸人一座を立ち上げる準備をしているのです。
「小一郎、あんたは藤吉郎に手紙を書いていたね。どんなことを書いていたんだい。」
「はい。兄者から上洛してきた大名がいたら教えて欲しいと文を貰いました。織田様と一色様、それから長尾様の上洛の様子を手紙に書いて送りました。その後、兄者から長尾家の様子を詳しく知りたいと返事がありました。」
「そうかい。必要なことはちゃんと解ってるようだね。お前様、長尾家の上洛で解ったことを小一郎にも伝えておくれ。」
旦那様は伊勢様の伝手や商人達の噂、風間衆独自の情報網などで公方様の様子を調べているのだそうです。公方様は三好長慶様を御相伴衆に加えて幕府の権威を取り戻そうとされました。幕府に取り込まれることを嫌った三好様は、御嫡男と松永久秀様を公方様の御供衆に差し出して、御自身は本拠地を摂津の芥川城から河内の飯盛山城へ移して、公方様と一定の距離を置いたのだそうです。
これに対して公方様は地方の大名と誼を結び、幕府権力の強化を模索していました。豊後の大友義鎮を九州探題に、伊達晴宗を奥州探題に任命して幕府の権威を示し、西国の毛利氏や尼子氏、東国の北条家や越後長尾家と甲斐武田家、それに畿内周辺の大名達に上洛を促していたのだそうです。
「小一郎、其方も知っての通り、最初に上洛したのは尾張の織田家と美濃の一色家だ。両家とも小勢であったことから、儂の予想では幕府の権威が確かなものであるか様子見に来たのではないかと考えておる。尾張織田家は斯波氏を追放して間もなく、美濃も家中を纏めるために一色姓を幕府から認められたばかりじゃからな。」
ただ、越後長尾家は様子が違ったようです。長尾景虎様は越後から八百人を超す軍勢で海路敦賀に入り、上洛したそうです。近江で河田長重らの軒猿衆が加わり、京では神余親綱の家臣団と越後屋の護衛隊を加え、更に京に先行していた直江実綱様が集めていた牢人衆を合わせて、千五百もの軍勢となっておりました。
「伊勢貞良様のお話では、長尾景虎様は本気で将軍家の為に上洛したようだ。越後勢が領国を空けてでも、京で足利家を支える姿勢を見せることで、諸大名が次々と見習って上洛してくると考えていたそうだ。応仁の前までなら当たり前の守護大名の奉公なのだろうが、下剋上の今の乱世では到底ありえぬ。」
「その通りだね。公方様はいたく感激したそうじゃないか。長尾景虎こそが足利家の忠臣だとか仰せらしいね。」
「上洛をしない大名に対して非難しているとも聞く。改めて上洛を促す書状を沢山お出しになったそうじゃ。」
「そんなことするぐらいなら三好様と仲直りすればいいのにさ。わざわざ争いの種を撒くようなものさ。」
実際に上洛するような大名が現れる気配は無く、逆に越後の国元から景虎様の帰国を促す手紙が届いていたようです。北信濃や関東から越後に逃れていた国人衆達が、長尾景虎の帰国を望んでいるとのことでした。
そんな中、藤氏長者である関白左大臣近衛前嗣様が長尾景虎様に接触したそうです。近衛前嗣様の姉君が足利公方義輝様に嫁いでいるので、近衛様と公方様は義兄弟の間柄なのだそうです。
近衛様と長尾景虎様の会談での内容は解りませんが、何らかの密約が交わされたようです。その後、長尾景虎様は公方様から屋形号の許可など様々な特権を与えられて帰国の途に就きました。
「お前様、会談の様子や密約の内容は解っていないのかい。」
「残念ながらそこまで詳しいことは解らない。ただ、近衛様が近く越後に下向すると周りに仰っておられるようだ。それに公方様が伊勢様に対して北条家が上洛せぬことの苦言を申されたそうだ。長尾家を見習って北条家も上洛するべきじゃとな。」
「公方様の我儘にも困ったもんだね。相手をしなきゃならない伊勢様がお可哀想になるね。」
「伊勢様は【三好様がおられるからこそ畿内が安定しているのです。】【同様に北条家があればこそ関東が安定しているのです。】と言上なされたそうだ。」
「それにしても公家のお偉いさんが越後まで何しに行くんだろうね。」
旦那様も女将さんも首を捻っていましたが、認識は共通のものがありました。決して碌なことにはならないだろうと。私もそう思います。
1559年秋 江戸城 北条氏親
「武蔵守様、武蔵国の水害の被害は尋常ではありません。無理に年貢を取り立てると農民の逃散が起こりかねません。下手すると一揆も起こるやもしれぬ有様です。」
予測していた事とはいえ、安藤良整からの報告に頭が痛くなる思いだ。春先の旱魃と夏からの野分を伴う長雨で、収穫がほとんど無かった所もあったのだ。小田原式の農法で生産量が増えていなければ、更に酷いことになっていたかもしれない。
「大道寺様の農政改革のお蔭で辛うじて食いつなぐだけの収穫はありますが、如何致しましょう。」
「父上に申し上げて年貢の取り立ては猶予をいただけるように取り計らおう。倉にある米も救済に回さねばなるまいな。今更ながら爺の働きには感謝しかない。」
忠貞に命じて直属部隊増強の名目で蓄えていた兵糧米も放出する許可を出した。直属部隊を増強すると申し伝えていたが、大凶作とあっては無理に年貢を取り立てることもできない。増強ではなく再編とすることを安藤良整に伝えて、年貢を軽減することにした。
「良整、上野国の様子は如何じゃ。関東管領殿の代替わりしてから最初の飢饉じゃ。領民だけでなく、国人衆の動揺は無いかったか。」
「はい、大谷休伯殿の報告では凶作となりましたが、武蔵国と同様なんとか食いつなぐだけの収穫はあったそうにございます。関東管領殿は徳政令を出して領民を救済するとのことです。」
「徳政令か。借金を帳消しにされる土倉や商人等の反応はどうじゃ。」
「徳政令に反発する声もありましたが、上野国ではここ数年大きな戦が無かったお陰で、貸し倒れするような金額を貸し付けている土倉はいないようです。この凶作ならば徳政も致し方なしとの反応だと聞いております。」
「内密のことではあるが、父上も徳政令を出すべきか検討しているようじゃ。儂に家督を譲り、代替わりの徳政令なら反発も少なかろうとのお考えじゃ。良整は如何思う。」
「上野国での様子を見る限り問題無いと存じます。京への販路が拡大していることで商人達は北条家に協力的です。代替わりの祝儀として納得してくれるものと存じます。」
「土倉や商人達には負担をかけるが、根回しはしておいてくれ。この苦難を乗り切らねばならぬのじゃ。」
「承りました。商人達も此度の大凶作を受けてある程度は覚悟していると存じます。」
父上へ報告する内容を纏めなければならない。領内の被害状況や困窮の度合い、救済物資の備蓄量など膨大な資料となったため、報告内容が纏まったのは小田原城へ向かう前日であった。




