改元の混乱
1558年冬 宇治 風間小一郎
「小一郎さん。伊勢様の帳面がようやく纏まりましたよ。結構な金額になっていて驚きましたよ。」
手代の石田藤左衛門さんが伊勢様の帳面を纏めてくれました。今年の春から公方様と三好様の戦があり、京の町は大混乱になったのです。伊勢様も三好様の軍勢として出陣となったため、相模屋も御用商人として従軍することになりました。
伊勢様の武将斎藤利三様の直々の御指名で私が御用を務めることになりましたが、旦那様は私が従軍することを心配し、斎藤様に掛け合って下さいました。斎藤様は配慮を下さり、相模屋の護衛部隊として明智十兵衛様を付けて下さいました。
「藤左衛門さん。やはり弾薬が高くついたのではありませんか。激しい銃撃もありましたが、調練に使う火薬も結構な量があったかと思います。」
「弾薬もそうですが、交渉に使った金子が多くなっていましたよ。戦を終わらせるのにも金子が必要なのですね。」
「そうでした。確かに金子が必要と言われて用立てていました。」
戦が思いの外長引いたこともあり、明智様とは親しく言葉を交わすようになったのです。
「相模屋の方が装備が充実しておるな。鉄砲の名人をこれほど揃えている足軽衆はおらぬぞ。これではどちらがどちらの護衛か解らぬな。」
明智様は相模屋の足軽衆とも仲良くなっているようで、戦が終わってからはよく相模屋を訪れて足軽衆と話をしたり、一緒に鉄砲の調練をしているようです。明智様は秘伝の金創軟膏の製法までも我等に御指導下さいました。
相模屋の足軽衆に鉄砲名人が多いのには訳があって、雑賀佐々木党の者を多く抱えているのです。これは紀伊国紀湊の海賊商人【佐々木刑部助】様と関東との交易で縁ができたからです。
刑部助様のお父上【佐々木義国】様は凄腕の鉄砲名人で、砲術指南を務める腕前だそうです。佐々木党が倭寇にも参加していたこともあり、屋久水軍の新納忠光様とは旧知の間柄だそうです。
明智様に請われて相模屋の足軽隊から伊勢様の家臣となった者もおります。阿波出身で鉄砲名人の遠藤三兄弟です。明智様は直臣としたかったようですが、俸給を払える立場ではなかったので、美濃御前様に相談したそうです。
ダダダーン
騎射場の方から発砲音が響いてきました。明智様達が言うには京の街中では発砲できないとのことで、宇治で調練できるのはありがたいことなのだそうです。
伊勢様の取立てが予想以上に高額になりそうなので、明智様が来られていたら収支の報告を先にしておいた方が良いかもしれませんね。
騎射場に着くと明智様、斎藤様に加えて松山重治様も来ておられました。明智様が私に気付き声を掛けて下さいます。
「小一郎、また調練に来たぞ。今日は松山様もお連れしたのだ。其方にも紹介しておこう」
「松山重治と申す。今日は射場を貸してもらうぞ。おや、儂の記憶違いでなければ、其方とはどこかで会ったことがなかったか。」
「はい、相模屋の手代頭で風間小一郎と申します。松山様とは一度お公家様宅の擁壁改修の入れ札でお見掛けしたことがございます。またお会いできて光栄に存じます。」
「おおっ、思い出したぞ。公家の門構えに無骨な図面を持ってきおった奴じゃな。」
「お恥ずかしい限りです。もっと装飾に凝ったものを準備するべきでした。」
「いや、工夫を凝らした見事な縄張りであったと思うぞ。儂は其方等、相模屋のものが一番優れていたと思う。ただ、公家向きではなかったがな。」
松山様は大笑いした後で相模屋と取引をしたいと申し出て下さいました。明智様のお蔭で取引先が広がり、人様のご縁をありがたく思うのでした。
1558年冬 江戸城 北条氏親
島津忠貞から今後の部隊編成について意見が出された。
「現状は本隊と狩野泰光の二部隊編成となっておりますが、以前のように復旧する手筈となっております。どなたを部隊長に据えるか武蔵守様のご意見を伺いとう存じます。」
「いずれは藤吉郎にも部隊を任せたいと考えておるが、まだ早い気もするな。泰光が譜代の者なので、もう一人は外様から取り立てるのがよいと思う。山上氏秀は如何じゃ。」
「良き人選かと存じます。手柄も十分立てておりますし、人柄も問題無いかと存じます。」
山上隊の構想を検討し、鉄砲組頭や風魔衆の軍監も人選しなければならないと話し合った後、雑談となったのである。
「忠貞、ここだけの話として聞いてくれ。来年は飢饉となるやもしれぬ。爺のお陰で豊かになったとはいえ、どれ程の被害となるか予測がつかぬ。」
忠貞が息を呑むのが分かった。
「そうじゃ。鶴岡八幡の夢の報せじゃ。対策にも限りがあるが、部隊編成にかこつけて囲い米をして欲しい。下手に米を買い付けると、すわ戦かと騒ぐ者もおるからな。」
「承りました。御本城様にはお伝えされたのですか。」
「父上には凶作の対策を普段からするべしと先の大評定で提案したところじゃ。父上も思う所があったようで、幻庵大叔父上と相談するとの仰せじゃ。」
「仰せの通りにいたしましょう。」
「氏秀には悪いが、部隊の編成は再来年となるであろう。来年は余裕が無いと思う。」
忠貞は苦笑しながらも次の話題を続けた。
「ところで京での公方様と三好様の争いの決着がついたと小耳にはさみました。武蔵守様には詳しい情報が入っておりますか。」
「済まぬ、忠貞。其方にはまだ話しておらなんだな。伊勢貞就から報告があった。そちも承知の通り改元が元で、公方様が蜂起なされたようじゃ。」
正親町天皇が即位し、改元の運びとなったのだが、将軍足利義輝は朽木谷に逼塞しているため、朝廷は将軍家ではなく三好家と相談して改元を行ったのである。これを許し難しとして、足利義輝は六角義賢の支援を得て三好討伐の兵を挙げたのである。
足利義輝は近江坂本に入り、宇佐山城から洛中を窺う姿勢を見せた。これに対して三好長慶は本拠地の芥川城から出陣し、東寺に陣を構えた。御所の東、東山の辺りで睨み合うことになったのだ。三好勢の先手衆の伊勢貞良が将軍山城を占領すると、足利義輝側は如意ヶ岳の山頂を占拠し、将軍山城を見下ろす位置に陣を構えた。
東と南から寄せられて不利を察した伊勢貞良は将軍山城を放棄して撤退する。すかさず足利義輝は将軍山城を占拠したが、逆に如意ヶ岳を松永久秀の部隊に占拠されてしまった。
両軍の位置が入れ替わっただけで膠着状態に陥ったのである。三好長慶が四国から大軍勢を呼び寄せたことで戦況は三好勢有利に傾いた。
ここで三好長慶は足利義輝を支援していた六角義賢に働きかけて和睦へと導いたのである。足利義輝は腹心の細川晴元と袂を分かち、和睦を受け入れたのだ。和睦により足利義輝は五年ぶりに京に戻ったのである。
「将軍家には力が無いのじゃ。三好家のように実力のある大名には逆らえなかったようじゃな。」
「成る程、大事件ですな。武蔵守様は此度の件でどのような影響が出るとお考えですか。」
「将軍家の権威を後ろ盾に、領地を治めていた地方の大名が浮足立つのではないかと思う。無論、北条家も例外ではないが、畿内に近い大名ほど慌てておるようじゃ。」
「また地方の大名が将軍家を与力するために上洛するのではありませんか。」
「そこまでは読めぬな。昔の大内家のように実際に上洛する家が出るかもしれぬ。また上洛を口実に隣国に攻め込む大名も出るやもしれぬ。どちらが利用する側で、どちらが利用される側なのか見極めが肝要じゃ、と父上は仰せじゃった。」
「御本城様はどのように動こうとお考えなのでしょうか。」
「父上は上方に関しては静観するようじゃ。領内を整えることに全力を傾けよと仰せじゃ。ただ儂は誰が上洛するか気になる。藤吉郎に命じて小一郎に上洛した大名を報告させよ。」
「承りました。」
長尾景虎は上洛するであろうから、どう影響するか考えておかねばなるまい。




