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平宰相〜北条嫡男物語〜  作者: 小山田小太郎
新九郎の巻(1551年~)
47/117

越後の戦国大名

 1556年秋 江戸城 島津忠貞



「忠貞、今年の稲もたわわに実っておるな。この様子を爺にも見せてやりたかった。」


 新九郎様の傅役である大道寺盛昌様がこの夏他界されました。畳の上で大往生だったそうです。


「盛昌様のことですから心配になって草葉の陰から覗いておいでかもしれませんね。」



 小田原式の農法は新九郎様が考案したものだが、実際に計画し実行していたのは大道寺盛昌様でした。細かな問題点を改善し小田原式農法を担う農民を育てた功績は計り知れないものがあります。


 盛昌様の最後の言葉は、新九郎様に対して『最後に遣り甲斐のある仕事を任せて貰い、本当に感謝しております。道半ばで放り出すことをお許し下さい。』というものであったそうです。お言葉と裏腹に盛昌様はしっかりと、真田俊綱と大谷休伯殿に後事を託しておられるそうです。



 盛昌様だけではなく、多くの者が江戸から離れました。「新拠点の中核となる部隊が必要じゃ」と言われて真田俊綱と福島綱房は御本城様の直臣として部隊ごと取り上げられてしまったのです。


 新九郎様の「こっちが回らなくなります。」との抵抗も「そうであるか。」と華麗に無視されたと新九郎様は苦笑いしておられました。


 新九郎様の命により急ぎ再編成しましたが、新九郎様の本隊二千と狩野泰光の分隊千五百の二隊体制までしか回復できておりません。



「忠貞、気にするな。支配領域が増えて部隊が足りないのは仕方ないことじゃ。代わりに水軍衆を交易に使って良いとの条件を付けさせてもらったぞ。」


 新九郎様は気落ちした様子もなく、新たな計画を楽しんでおられました。



「上方に店を出すなら妾にお任せ下さい。」



 どこで聞きつけたのか、お絹殿が江戸まで直談判に来られました。早雲寺のことは息子の風間主水正に任せて、商家の表向きの当主にするために風間出羽守は隠居させるとのことです。



「けっして上方に行ってみたいだけという(よこし)まな気持ちではありませぬ。」



「お絹殿の邪まな気持ちは良く解った。其方なら適任じゃ。」



 新九郎様とお絹殿は邪まな笑みを浮かべながら計画を立てておりました。あれから半年、京の宇治に店を構えることができたそうです。


 蝦夷からの最初の船には昆布・塩鮭・塩鱒などの海産品、鷹や熊の毛皮、そして瑪瑙(めのう)が積まれておりました。交易を仕切る新納忠光は手応えを感じているようです。



「大評定を前に良い報告ができそうだな。」



 新九郎様も嬉しそうに積み荷を眺めておいででした。




 1556年秋 小田原城 北条新九郎



「お子が授かったというのにすぐに小田原に知らせないとは何事ですか。駿河の母上からの祝いの手紙が先に届いたのですよ。」


「母上、申し訳ありません。その件は後程お話しいたします。評定の前に話があると父上から呼ばれて急いでおるのです。」



 大評定のために小田原に着いた途端、母上に捕まってしまった。周りが騒がしくなることを案じて安定するまで公表を控えていたのだが、裏目にでてしまったようだ。


 お松は是が非でも嫡男をと意気込んでいるが、こればかりは授かりものなので無事に生まれてくれたらよいと願っている。這う這うの体で母上から逃げ出し、父上の執務室に向かった。



 父上の執務室には綱成叔父上も呼ばれていたようだ。叔父上は本庄城にて上野国や越後国の申次の役割を担っている。昨年、川中島での武田家と越後長尾家の抗争では、関東管領家に調停を働きかけていた。



「叔父上、越後の動きは如何ですか。」


「なんともならん。何を考えてるかさっぱり解らん。関東管領家と越後長尾家の婚姻の話も流れてしもうた。」



 川中島の戦いの調停の条件として、関東管領家も長尾家を越後国主として認めるというものがあった。越後国では守護上杉家が断絶しており、長尾景虎殿は将軍足利義輝から越後国主としての地位を認められていたのだ。


 調停後、関東管領上杉晴憲殿の娘を守護代長尾景虎殿の正室にと申し入れていたのだが…。



 綱成叔父上は憤慨しながら続ける。



「白井の長尾殿が夏に送った使者には、当主が出奔して居らぬから対応できぬと言われたそうじゃ。門前払いするにもそのような理由では納得できないと食い下がった。ところが本当に出奔していたというではないか。重臣達が必死に説得して当主に戻ったそうじゃ。」



 出奔の切っ掛けは家中の派閥争いに嫌気がさしたことだったらしい。二百日もの長対陣となった遠征で得るものが少なく、家中の不満が燻ぶっていた。上野家成と下平吉長の領地争いが端緒となり、執政の本庄実乃が上野家成を支持し、段銭方の要職にあった大熊朝秀が下平吉長に加担する派閥争いに発展したのだ。



 景虎の出奔を聞いて、政権の中枢から締め出された大熊朝秀は長尾家を見限る決意を固めた。武田家に内通し、会津の蘆名氏や越中の一向宗と結んで反旗を翻したのだ。景虎は師傅の天室光育の説得に応じて、当主の座に戻ると瞬く間に謀反を制圧したのであった。



「内戦を収めた後、再び縁談の話になったのじゃ。この縁談には上田衆の長尾政景殿の後押しもあって景虎殿も乗り気であったが、今度は上田衆を快く思わない古志長尾家と武田家に領地を奪われた北信濃衆が反対したそうじゃ。」



 古志長尾家と北信濃衆は対抗馬として、景虎の兄嫁を候補に上げてきたのだ。この女性は先の守護上杉定実の娘であり、血筋としては申し分なかった。景虎は兄晴景から家督を奪ったことを心苦しく思っており、兄の子であった猿千代が成人したら家督を譲るつもりであったそうだ。



 晴景が亡くなり母子を引き取り家族の情愛を注いでいたのだが、先年の戦の最中に猿千代が夭逝してしまう。兄嫁は菩提を弔うとして髪を下し、若くして尼になっていた。古志長尾家の長尾景信は兄嫁が還俗してもよいとの承諾を得たとして景虎に薦めたのだ。



 景虎も兄嫁のことを憎からず想っていたようだが、【儂はこれ以上兄上から何も奪いたくない】と言って長尾景信の薦めを退けた。


 そして【儂は生涯不犯を貫くゆえ縁談は無用じゃ。】と言って全ての縁談を断ると宣言してしまったそうだ。



「ほんに訳が解らぬ。」



 綱成叔父上の憤慨の言葉に同意しながらも、長尾景虎という男の複雑さを垣間見た気がした。

~おことわり~

景虎の婚姻観についてはあくまで筆者の妄想の範囲のものです。


景虎の婚姻に関しては先日、黒田先生の爆弾発言がありましたが今後の研究報告が楽しみではあります。


景虎を取り巻く女性で有名なのは近衛前久の妹【絶姫】、上野国人千葉采女の娘【伊勢姫】、直江実綱の娘【お船の姉】がおりますがいずれも婚姻に至ってはいないようです。


伴侶が死亡した後、伴侶の兄弟(姉妹)と婚姻することは、家同士の繋がりが重視されたこの時期タブー視されておりません。儒教の影響が強くなった江戸中期以降は【逆縁婚】として武家では忌避されていきます。詳しくは【レビラト婚】【ソロレート婚】を参照下さい。


~人物紹介~

長尾景虎(1530-1578)越後のラスボス

長尾晴景(?-1553)景虎の兄、上杉定実の調停により隠居、弟景虎に家督を譲る。

上杉定実(?-1550)越後守護。娘に長尾晴景室。

長尾政景(1526-1564)上田長尾家。妻は景虎の姉仙桃院、当初景虎と敵対、降伏後重臣となる。

長尾景信(1518頃-1578)古志長尾家出身とも。上条上杉の名跡を継承か?既に上杉景信を名乗ってるかもしれません。姉は景虎の母青岩院か?。

本庄実乃(?-1574)栃尾城主。古志長尾系の家人。初期の景虎重臣

大熊朝秀(?-1582)初期の景虎重臣。後に武田家の足軽大将。勝頼と共に天目山で討死。子孫は真田氏に仕える。

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― 新着の感想 ―
[一言] 史実秀吉の時代、西国の石見、生野銀が物を言っていた時代、東国は甲州金をはじめ、常陸金や越後鳴海金鉱山など今後支配地拡大と共に、東国の金の流通量を増やして金融支配を強めたりも出来るでしょうが、…
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