藤吉郎の成長
八つの工事区画に分かれて掘削工事が始まった。治水工事の専門家である荒木家や大道寺家は小田原上水にも携わった家臣を投入して、速やかに作業に取り掛かっていた。黄備の玉縄北条家、白備の笠原家、青備の富永家も築城経験のある家臣が応援に来ている。松田家と遠山家は商人達から人足を雇い作業員を増員していた。
「藤吉郎、他の家の者は実家から応援が来ているぞ。其方に風間衆の応援を頼もうと思うが如何じゃ。」
藤吉郎は嬉しそうな笑顔をしながらも、毅然とした態度で答えた。
「新九郎様、お心遣いありがとうございます。しかしながら手助けを頂いては甘えていると言われてしまいます。皆様に認めて貰えるようになれとお絹様にも言われております。工夫をしておりますから皆様に負けぬ成果を出すつもりです。」
「そうか、ならば風間衆は儂が使おう。この工事で活躍できれば仕官できると噂を流すつもりじゃ。離散した農民や食い詰め浪人衆などを集める。其方は荒くれ共を見事使ってみせよ。ところで工夫と申すが、藤吉郎はどのような工夫をしておるのだ?」
「新九郎様がなされたように、受け持ちの工事区画を更に班分けして競い合いをさせております。食事は大盤振る舞いで、三日毎に成果を発表し、優秀だった班には酒を褒美に出しているのです。人は腹がいっぱいであれば十分に力を発揮できるものです。」
最初の月は大道寺家が最優秀となった。二番手が荒木家で治水の家の面目躍如というところである。藤吉郎の組も健闘し三番手となっていた。この頃になると景気のいい噂を聞きつけて、更に人足が集まってきていた。当初は離散した農民が多かったが、浪人衆や家を継げない次男三男といった者達もあわよくば仕官できる、という噂を聞きつけやって来ている。八つの工事区画に設けられた飯場は人でごった返す有様になっていた。
二ヶ月目も上位三組は変動が無かったが、細かく工区分けをして競い合わせるやり方を、他の五組も真似しだしたため、ほとんど差が無くなってきていた。変化が出てきたのは三ヶ月目だった。季節も冬から春になり気候も良くなった。工事も中盤に差し掛かり人員も増え能率も上がってきているのだが、初めて藤吉郎組が最優秀となったのだ。
「藤吉郎、他と比べて能率の上がり方が良いがどのような工夫をしたのじゃ?」
「新九郎様、工夫と言えるかは解りませんが、我が組では頻繁に人の配置替えを行っているからかもしれません。分業することで作業の熟練度が上がり能率は上がっていきますが、配置換えを行わなければ優秀な班は毎回好成績を取り、そうでない班との技能の差が広がり不平不満が生まれます。優秀な班が技能の囲い込みを行い全体の水準が上がらないのです。二か月目に用意した俵が無くなり、俵を編みながら作業を進めたあたりから配置替えを行っております。」
確かに他の組を見ると成果の上がらない班がある。班同士で俵の奪い合いが起こったり、俵を編む者と掘削する者との諍いも増えているようだった。人が増えたことで争いも増えているが藤吉郎組は争いが少ない。それ以上に皆で協力しあおうとする掛け声が響いているのだ。
「俵を編むのも掘削するのも必要な仕事ですから、お互いに無理を押し付けあったり、やる気を失ってしまっては意味が無いのです。」
「藤吉郎は人使いの名人であるな。藤吉郎のやり方を他の組にも教えてよいか?」
「勿論です。この工事は北条家の威信をかけたものと聞いております。北条家の為になるならこれ以上のことはありません。」
他人を出し抜いて出世を目指すことが当たり前の世の中であるが、早雲寺で共に過ごしたことで仲間を思いやる気持ちが藤吉郎にも芽生えていたことを嬉しく感じるのであった。
工事の采配を取りながら過ごしていたある日、父上が視察に訪れた。
「新九郎、中々の盛況ぶりであるな。工事も順調なようでなによりじゃが、動員した農民や浪人衆を如何するか詳しく聞かせて欲しい。」
父上には浪人衆を召し抱えて直属部隊とする構想を伝えて許可を取っているが、具体的な内容を詰める必要があった。
「工事に従事している農民や浪人衆もかなりの数になっています。農民の多くは武蔵北部の干拓に回しますが、一部は入間川の水運に従事させるつもりです。我が北条家では兵農分離がある程度進んでおりますが、資材や兵糧の運搬には農民の動員が不可欠で、農繁期には難しいものがありました。入間川の水運が軌道に乗れば流通に関わる者が増え、農繁期でも動かせる者達が増えます。交易で得た利益で人を雇うのです。これからの里見家との戦いを考えると、里見家は海賊衆を主力としていますので、農繁期でも構わず攻撃してきます。これに対抗するために年間を通して戦える軍団を作る計画です。」
やる事は徳川家康の模倣なのだ。初期の徳川家臣団は浜松衆と西三河衆、東三河衆の三部隊になっているが、両三河衆は酒井忠次と石川家成を旗頭とする寄親寄子制で国人衆の寄合部隊である。それに対して徳川家康は土地に縁の薄い旗本先手役という機動部隊を作り浜松衆とした、戦への即応体制を強化したのだ。旗本先手役の旗頭を務めたのが本多忠勝や榊原康政である。
「新部隊の拠点を江戸城にしようと思います。江戸城を拠点にする理由は海路で小田原に繋がり、入間川に進めば河越城へ、利根川沿いに進めば古河御所へと、北条家の領地である関東平野の扇の要となる地です。また江戸城の平川(神田川)入江を水軍の基地とすることで水陸両方から里見家に圧力をかけられます。小田原は関東一の拠点ですが関東を支配するには南に寄り過ぎていると思うのです。」
父上は興味深く聞いていたが、納得したように頷いた。
「其の方の考えは面白いな。武士は領地を守るために戦うものじゃが、新しく土地を得るために戦う武士もいるといったところか。江戸を拠点とする考えも良いな。河越の戦で小田原からの距離を痛感しているところじゃ。其の方が江戸城に入り総指揮を執るように計らおう。」
更に責任の重い役割を任せられることになりそうだ。
藤吉郎が分業を推し進めて成果を出したとの伝承がありますが、高度経済成長期に取りざたされた内容なので現代に添わないと感じております。
分業化の影響でものつくりにおける中小企業が発展しましたが、過度な分業により弊害もあるのではと思っています




