西堂丸の元服
1552年春 小田原
「兄上、ご婚約おめでとうございます。」
朝の調練の最中、弟の松千代が祝いの言葉をかけてきた。素振りを中断して答える。
「松千代、嬉しく思うぞ。しかし、其方には申し訳ない事をしたと思っておる。儂の提案のせいで今川家に人質として行く羽目になってしまった。」
「兄上、その事については何度も話しあったではありませんか。今川家も武田家も油断がならない相手ですが、味方になれば心強い相手なのです。その為に誰かが行かねばならないのであれば、私が行くのが一番良いと思います。」
北条家、今川家、武田家の間で三国同盟が結ばれるのだ。三国間で婚姻と人質交換が行われ、北条家からは竹姫が武田家へ、松千代が今川家へ行く事になっている。
「兄上、今川家へ行っても一門として扱われると聞いています。何も心配ありません。それに太原雪斎殿に教えを請うことを、私は楽しみにしているのです。」
「そうだな。松千代も14歳じゃから今川家へ行ったなら、すぐに元服し嫁取りとなろう。一門の堀越氏か関口氏あたりではないかと噂されているようじゃ。」
「島津忠貞殿の教えでそちらも抜かりはありません。」松千代がニヤリと笑う。
「雪斎殿の元には三河松平家の御曹司が人質として居る筈じゃ。その者とも誼を結んでおく事が肝要じゃ。」
三河松平家の御曹司は竹千代といい、後の徳川家康のことである。
「承りました。兄上こそ今川家の姫に虜にされないように注意して下されよ。中々の美形との噂ですからな。ハハハ」
笑い合っていると朝餉の時間となった。
「皆様!朝餉の支度が整いましたよ!」
「朝餉の前に手を洗って下さいませ!」
声の主はお絹殿と10歳になるお吟殿の親子である。傍目には少し年の離れた姉妹にしか見えない。お吟殿もお転婆娘で逆らったら怖いのは母親譲りだ。可愛い声を張り上げて小物や若衆達に指示を出している。
「とーきちろー!早く笊を持って来なさい!」
「はい!ただいま持って参ります!」
応えたのは中村藤吉郎と言う小者頭だ。尾張国中村出身で今川家の飯尾氏の家臣、松下之綱の下働きをしていたのだが、家中の者に妬まれ居場所が無くなっていた。そこに二曲輪猪助が声を掛けて連れて来たという訳だ。勿論、西堂丸の密命である。
藤吉郎と共に下働きをしていた宮田喜八も一緒に付いてきた。宮田喜八は尾張国宮田村出身で、子供とは思えないほど大きな身体をしているが、ぼんやりしたとこがあり、よく怒られていたらしい。その度に助けられた事で藤吉郎を兄の様に慕っているそうだ。初対面の時に声を掛けた。
「藤吉郎、其方は儂の張子房となれるように励め。喜八は儂の樊噲じゃ。お絹殿の言われることに従うように。」
二人ともキョトンとした様子で良く解らなかったらしい。機転が効く藤吉郎と力持ちの喜八をお絹殿が気に入り、風間家に預かってもらっている。お風呂場を覗いた藤吉郎が、何度もお絹殿に投げ飛ばされていると聞くが、一種の愛情表現なのだろうな。きっと。
早雲寺で学んでいる子等も入れ替わり、初めて来た時に学んでいた面子は全員元服している。それでも沢山の子等が入門し、人数はむしろ増えているくらいなのだ。
弟達の内、松千代と10歳の藤菊丸、8歳の菊千代の三人が早雲寺で共に学んでいる。
一門衆は従兄弟の北条氏忠・氏光兄弟、北条綱成の次男で氏秀、北条綱高の長男で康種がいる。
御家門衆の伊勢貞運は重臣伊勢貞辰の孫で、足利幕府の政所を取り仕切る伊勢貞孝の甥に当たる。
得宗家の田中融成は早雲寺の僧侶となる筈だったが、弁が立つのを見込まれて共に学ぶことになった。後の板部岡江雪斎だ。
譜代衆からは松田康長・康郷兄弟、山角康定、多目長定、山中主膳。
国人衆からは石巻家、間宮家、南条家、大谷家の子等がおり、江戸太田輝資と岩槻太田氏資もいる。氏資は父の太田資正が出奔した後も伯父の太田資顕に傅育されており、入門してきたのだ。
島津忠貞の息子達、孫四郎、又次郎、新次郎の三人も一緒だ。忠貞は子沢山でまだ下に三人も男子がいるそうだ。島津家の血のなせる技なのか、武勇に優れ鉄砲の扱いが巧みである。屋久水軍新納忠光の子、忠景は水練の巧者で流石水軍の次期棟梁である。
家臣の子等だけでなく同盟国の子弟もいる。次期古河公方の足利義氏、関東管領上杉晴憲の子富朝、千葉氏からは嫡男千葉親胤と重臣原氏の嫡男原胤親がいて、関東の未来を共に考えてくれている。
朝餉が終わり、松千代が声を掛けてくる。
「明日は兄上の元服の儀ですね。鎌倉へは皆で共に参りましょう。」
嫁を迎える前に西堂丸を元服させなければならないということで元服することになっている。元服の儀式は鎌倉の鶴岡八幡宮で行われる。早雲寺から鎌倉への移動だ。福島綱房を先頭に大道寺盛昌が続き、西堂丸と四男の菊千代が並んで進む。殿は菊千代の護衛役の諏訪部定勝である。西堂丸の供回りは馬の口取りの二曲輪猪助、荷物持ちの中村藤吉郎、槍持ちの宮田喜八、若衆は加藤段蔵と風魔衆三人である。総勢30名程での移動である。次男の松千代と三男の藤菊丸は一緒に別働隊を編成していてこちらも30名程であった。
鶴岡八幡宮にて西堂丸の元服が執り行われた。烏帽子親は古河公方足利晴氏が務め、偏諱を賜り北条新九郎氏親となった。関東武士風に言えば【鶴岡八幡新九郎氏親】となったのだ。この名前には母上がとても喜んでいる、母上の父である今川氏親公と同じ名前なのだ。父上から祝いの言葉と共に人事異動が告げられる。
「新九郎を箱根湯坂城主とし、城代は引き続き風間出羽守に任せる。当面は早雲寺の者の監督を命じ、正式に大評定に加えることとする。」要は肩書きが付いただけで現状維持なのだ。更に父上が続ける。
「鎌倉府を再興し、足利晴氏様には鎌倉に入っていただきます。古河城には富永直政を入れ、大和晴統、山中盛定と共に下野、南常陸の監督を命ずる。里見攻略の前線基地として、千葉殿から馬加城を譲り受けた。これを改修し名を幕張城と改めて、太田資高に縄張りを命じておる。そのまま太田資高を城主として入れることとする。江戸城城主は我が弟の北条氏尭とする。」
足利晴氏を鎌倉に移し、古河公方足利家に縁の深い小山家や結城家からの干渉を減らすことと、鎌倉府の再興という権威の高揚が目的だ。江戸城は青備の本拠地として三人の城代がいた。青備旗頭の富永直政、行政担当の遠山直景、そして太田資高である。そのうち武官の二人が前線に配置替えとなるのだ。利根川東岸地域の支配権確立のための人事異動である。北条家の嫡男の烏帽子親とあっては足利晴氏も鎌倉に行かざるを得ず、その機会を利用して古河から切り離す父上の策でもあったのだ。息子の元服を政略に使う父上の強かさには驚かされる。




